現代によみがえるボリス・ヴィアンのシャンソン「脱走兵」

K.Ikeda

K.Ikeda

池田敬二

「凡人を芸術家にする」、パリへの憧れ

 この夏にはじめて仕事でパリの街に足を踏み入れることができた。パリは自分にとって思い入れのある街である。パリは凡人をも芸術家にしてしまうような魔法の街だというが、とにかくパリの街並みを歩けると思うだけで胸が張り裂けそうな期待感が全身を覆っていた。

 今から25年前の学生時代に水道橋にある語学学校「アテネ・フランセ」に通っていた。学生時代だから大学でいくらでもフランス語の授業は受講できたが、自分を追い込むためにも身銭を削ってフランス語を学び、触れてみたかった。

 アテネ・フランセは1913年(大正2年)に設立された老舗の語学学校である。高校時代にファンレターを送って何度も返事をいただいたことがあった作家で精神科医のなだ いなださんのエッセイではじめてその存在を知った。歴代の受講生としては、坂口安吾、澁澤龍彦、谷崎潤一郎、竹久夢二、淡谷のり子、篠沢秀夫、大橋巨泉といった名が連なるまさに老舗の語学学校である。

 授業が始まってみるとクラス編成の8割は女性だった。新婚旅行でパリに行ったけどフランス語が話せなかったからリベンジで学びに来ているご婦人や来月にパリに行かなければならないというソムリエやフランス料理のシェフ、貿易会社の社長といった様々な職種の人たち、様々な興味・関心を持つ人たちがフランス語を学びに来ていた。

 当時の私をフランス語修業に駆り立てたのはフランス現代思想を代表するレヴィ=ストロースといった構造主義の中核をなすフランス文化人類学者への憧れもあった。

 しかしもっとも自分がフランス、パリという街への憧憬を抱かせたのはボリス・ヴィアンの存在だった。ボリス・ヴィアンの小説「墓に唾をかけろ」、「うたかたの日々」には、これまで感じたことになかった過激さ、跳躍力、ロマンチシズムを感じた。そしてボリス・ヴィアンのシャンソンの作品を他人の翻訳ではなく自分で味わってみたかった。

 

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レオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する「万能人」

 

 人類史上もっとも多才だったのはレオナルド・ダ・ヴィンチだという声が多いのに異論はないだろう。絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学といった分野で世界的な偉業を成し、万能人 (uomo universale)という異名まで保有するダヴィンチは確かに世界が認める「万能人」といえる。ダヴィンチのように想像を絶すような多岐にわたる分野で、さらにダヴィンチ以上に大衆を巻き込み、パリのサンジェルマン・デ・プレを中心に芸術、娯楽の世界を縦横無尽に、誰にも真似のできない独自の活動を39年という短い人生の中で駆け抜けたフランス人がいた。

 それがボリス・ヴィアンだ。

 ボリス・ヴィアンは自分が原作を書いた映画「墓に唾をかけろ」の試写の最中に「死ぬほどつまらない」といって本当に心臓発作で死んでしまったのは1959年。享年39歳。40歳になることはなく、激動の60年代を生きることなくボリス・ヴィアンはこの世を去った。

 ボリス・ヴィアンが他界して9年後の1968年に起きたパリの学生たちが起こした「5月革命」では若者たちの間で圧倒的に支持され、カリスマとなったのはボリス・ヴィアンと1959年にキューバ革命を実現させながらも1967年にボリビアの地での革命を成就することができずに射殺されたチェ・ゲバラだった。共に40歳になることなく、その人生を駆け抜けた二人の生き様にパリの若者たちは猛烈なシンパシーを感じ、革命のシンボルとした。

 ボリス・ヴィアンの名は最近では日本映画「クロエ」、フランス映画「ムード・インディゴ うたかたの日々」の原作者として耳にしたことがある人が多いだろう。早川書房のボリス・ヴィアン全集4 「北京の秋」の解説で安部公房が「生涯かかっても、これだけの出会いはめったにあるものではない」と絶賛しているように小説家としての評価は不動のものといえる。小説家としてだけでなく、大学で取得した学位によって技師を本業とするキャリアをスタートさせた。それだけではなく、詩人、劇作家、舞台俳優、映画俳優、SF画家、トランペット奏者、そしてシャンソン歌手、シンガーソングライターとしても名曲を数々残している。

 

珠玉のシャンソン「脱走兵」は放送禁止に

 

 ボリス・ヴィアンが作詞、作曲したシャンソンの中でも最も著名でなおかつ今でも数多くの歌い手に歌われているのが「脱走兵 (Le Déserter )」だ。フランスといえば自由の国の象徴のようなイメージがあるが、この「脱走兵」が発表された1950代半ばから60年代という時代は、フランスではインドシナ、アルジェリアといった植民地を抱えていたいわば戦時体制に近い状況だった。

 たちまち「脱走兵」は放送禁止となってしまった。その後、ベトナム戦争の反対運動などと結びつき、プロテスト・ソングとして多くの国で翻案されて広まっていった。日本でも「拝啓大統領殿」といったタイトルで数多く歌われている。

 YouTubeには日本語訳で沢田研二が歌っている動画もみつけることができる。自分も衆議院で安全保障関連法案が強行採決された9月15日にボリス・ヴィアンの「脱走兵」をフランスで歌い、iPhoneで動画撮影し、YouTubeにアップロードした。

 

 

 詩の内容を要約すると以下のような内容である。

 

 大統領閣下 お手紙を差し上げます
 お時間のある時に読んでください
 たった今、水曜日の夜、召集令状を受け取りました

 大統領閣下 私は戦争をしたくありません
 罪のない哀れな人々を殺すために私は生まれてきたのではありません

 あなたを怒らせたいわけではありませんが
 でも言わねばなりません 私の決心は固いです
 私は脱走します

 もし血を流さなければならないのなら
 ご自分の血を流しなさい
 あなたはとんでもない偽善者だ 大統領閣下

 私を探しているなら憲兵に伝えてください
 私は武器をもっていないことを
 そして引き金をひいて撃ち殺しても構わないと

 

 日本国内では衆院で強行採決された安保関連法案に対して国民は黙っていなかった。国民の大半が政治に無関心であれば為政者たちの意のままに、どんな法案でも成立させることができるだろう。しかし学者、学生、市民も黙ってはいなかった。自分が生きている時代にこんなことが起きるとは正直思ってもいなかったが、自分たちの生命にかかわる法案が強行採決という暴挙を目の当たりにして民衆は立ち上がっていった。

 

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元祖インディーズ作家の誕生

 

 ボリス・ヴィアンのようにとにかく自分が感じたことを躊躇することなく貪欲に表現していく生き様も今の時代を先取りしていると言える。

 ボリス・ヴィアンの小説家のデビューの仕方がユニークだ。出版社に勤める友人にアメリカ風の小説を誰か書けないかと相談され、「それなら俺が書いてやる」とわずか2週間で書き上げたのが「墓に唾をかけろ」という作品である。ヴァーノン・サリヴァンというペンネームを使った。

 それがたちまちベストセラーになったが、モンパルナスのホテルで情婦殺人事件が起こり、その現場にこの「墓に唾をかけろ」が落ちていたために、ボリス・ヴィアンの実名が暴かれてしまった。

 デビューの仕方がこの上なくセンセーショナルではあるが小説家として正攻法ではない方法でデビューした。今で言うインディーズ作家の元祖といっていいだろう。

 出版の世界ではセルフパブリッシング(自己出版)ができる時代が到来している。セルフパブリッシングから執筆活動をはじめたSF作家の藤井太洋は、日本SF大賞、そしてこの8月末には第46回星雲賞(日本部門)を受賞した。

 映画の世界でもこれまでは資金調達できなければ製作、上映が断念されていたが、クラウドファンディングという市民による資金調達の手法が普及したことによってようやく市民の力で製作することができた映画「そこのみて光り輝く」(呉 美保 監督 佐藤泰志 原作)は、モントリール最優秀監督賞を受賞したのにつづいて、第87回米国アカデミー賞で日本代表に選ばれた。

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 私が理事をしているNPO法人 日本独立作家同盟は、電子書籍などのパッケージにして世に送り出しているインディーズ作家の活動を応援する団体だ。自らの作品を送り出そうとしている方々をサポート対象としている。ボリス・ヴィアンのインディーズ魂のDNAは日本独立作家同盟の活動へと間違いなく受け継がれていることを感じる。

 ネットやSNS、クラウドファンディングもなかった時代にジャンルを超えた旺盛な創作活動を続けたボリス・ヴィアンの生き様は今から見るとあまりに眩しい。しかし今やテレビ、新聞、ラジオ、雑誌といった既存メディアに加えて、ネットがあり、SNSという強力なツールも備わっている。スマホ一台あれば映画だって撮影してしまうことだって可能だ。ボリス・ヴィアンが現在のようなメディアが備わった時代に生きていたならば、とてつもない発想でどのような活躍をしているのだろうかと夢想する。

 ボリス・ヴィアンの遺志を継ぎ、今現在に活かすとするならば、一般市民が純粋に感じたことを恐れることなく表現するという気概ではないかと思う。

 プロフェッショナルでないと表現しちゃいけないというものではない。

 感じるものがあれば自分の個人的な不安や恐れ、政治の不信でも恐れずにどんな表現手段であってもとにかく表現することである。1959年に他界したボリス・ヴィアンの作品に接するたびにそんなメッセージを強烈に感じ、勇気付けてくれる。