メディアと政治とわたし

Kazu Shimura

Kazu Shimura

志村一隆

 先月55インチのテレビを買った親戚の家は、未だに地デジのアンテナを立てていない。テレビは子供がYouTubeを見るモニターになっているのだ。先月号の「メディアと権力、そして自転車」で権力のメディアコントロールについて考えてみたが、現実はもっと進んでいる。マスメディアに人々が接しなければそもそもコントロールする意味がない。

 パリ同時多発テロの翌日、近所に住む人たちと話をしていたが、その話題はまったく出なかった。自分のFacebookやマスメディア空間と現実の生活空間のどちらが本当の世間なのだろうか。

 メディアはナマの現場を減衰するのか?増幅するのか?ともかくそのままを100%伝えているわけではない。先週行った幕張のよしもと劇場で見た漫才は、テレビで見るのとは全く違った。劇場がホンモノでテレビがニセモノとは言わないが、少なくとも違う芸であるのはたしかだ。ニーブラ

 

誰もが持ってるメディアリテラシー

 

 メディアは事実の伝言なのだから、主観が入るのは当然である。その主観がナマとのズレの正体なんだろう。

 そして、いつも心配される事実と主観を見分けるリテラシー。それも実は受け手は誰もが持っている。食べログの点数が3.2以上だったら行くとか、他人の噂話だって嘘かホントか判断しながら聞いている。自分の関心ごとであれば、本能的にメディアリテラシーが働くのである。

 権力がメディアに介入するのも受け手の能力を低く見積もっているからだろう。もし、マスメディアが権力のストレートニュース機関になったら、それはそれで誰も相手にしなくなる。第二次大戦で新聞が戦争を後押ししたのは確かだろうが、いまはメディア環境が違っている。セカンドオピニオンを得る手段はたくさんある。もちろん玉石混交であるがそれもすぐ慣れてくる。
週刊朝日

 

政治との違和感

 

 こうしたインターネットを含めたメディア環境に慣れているからか、マスメディアに登場しない普通の人たちは生き方は冷静だ。たとえば、独立メディア塾の読者のなかには、一連の安保法制議論について「集団的自衛権云々ではなく、安全保障体制が変わっているために必要」と言うメーカー勤務のオジサンもいるし、「TPPで値段が変わるといってもそんな影響ない」なんてことを教えてくれる外食チェーンの人もいる。SEALDSとも農業関連団体とも違う冷静で自立した意見を持っている。

 彼らはアベノミクスを支持するが、シナリオ通りにはいかないだろうと感じている。企業が投資を増やし、給料を増やす段階のシビアさ加減を肌で感じてるからだ。そこはメディアと違って政府でもコントロールできない分野だ。

 それになによりも、安倍政権が達成しようとするお金とか権力、軍事といった数の力がものを言うパワー的価値観と、自分たちが目指す豊かさや幸せの方向性のギャップを感じている。多様性への寛容度がなく、プライベートが効率性の名のもとに狭められる感覚か。

 財政再建は必要かもしれないが、自分たち世代はもう国家に頼れないと思っている。そのために自立した行動を起こしているのに、いまだに財政再建の御旗のもとに、効率性、つまりみなと同じ価値観を押し付けてくる嫌悪感。こういう感覚を持っている人たちはいまメディアにも居場所がない。そういう人たちにとって、メディアと権力の介入問題なんて、他人の痴話喧嘩くらいにしか思ってないだろう。(独立メディア塾はそうした人たちの受け皿になるサード・ウェーブ・メディアと考えている)

 

安倍政治を許す?許さない?

 

 参議院選挙がある2016年はメディアにより圧力がかかるんだろうか。君和田塾長が「ないがしろにされる時代(2015年11月号)」で指摘されてる通り、「隠微な形で」かかるのかもしれない。その圧力に反発するにしろ、賛成するにしろ、メディアであれば、カタチを変えてでも普通の感覚を代弁していくべきであろう。

 

安倍政治

 テクノロジーも進歩している。最近はスマホで個人放送局が可能だ。TwitterはPeriscopeというスマホの動画配信会社を買収したし、日本の「ツイキャス」というスマホ動画のサービスは、配信回数が1億回を超えるのに4年かかったが、2億回までは1年で達成した。YouTubeの再生時間は前年比で60%伸び、ちょっと古いが2014年Facebookに投稿された動画は前年より75%も増えた。「MixChannel」には高校生がたくさんキス動画を投稿している。ぜひ、このリンクを辿って見てほしい。オジサン・オバハンは誰もが驚くハズだ。ともかく、スマホ放送局が急激に増えているのだ。

 テレビを規制したところで、また別な手段が出てくる。マスメディアがもごもごしているうちに、オルタナティブな手段が新たな層を取り込んでいく。

 この21世紀はテクノロジーのイノベーションが続いていて、政治は現実の最新版ではない。だから、権力へのリアクションだけでは、メディアも現実よりワンテンポ遅れてしまう。現実を反映していなければ、誰もついてこないし、主観だけ残ったらメディアはもはやアート、いい意味でのやらせであろう。

 アートも必要だけど、メディアも存続してほしい。そのためにも、メディアは権力に未来を提示するといった、もっとアクティブな部分を改めて強化する必要があるのではないか。そうすれば、メディアも誰のために存在しているのかハッキリしてくると思う。

ご意見は info@mediajuku.com まで。

(参考)

先月号の原稿に氏家夏彦さんが『あやぶろ』で返答してくれた。「志村さんのあやをとりました

氏家さんのあやに対して、自分もあやをとってみた。「恋するテレビ論 – 氏家さんのガヤとってすみません!

合わせて読んでほしい。