朝河貫一からのメッセージ <上>日本の精神的危機とアジア太平洋戦争

H.Yamauchi

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山内 晴子

 アメリカのイェール大学に、朝河貫一記念ガーデンがあるのをご存じですか?朝河貫一(1873-1948)は、最近少し知られてきましたが、欧米で活躍したイェール大学歴史学教授です。彼は、日本が日露戦争に勝利してロシアの利権を継承すると、1909年に『日本の禍機』を出版して、このまま行けば日米戦争になると強い警告を発します。1941年の日米開戦直前には、その阻止のために昭和天皇への大統領親書草案を書きました。同時に、敗戦後の日本の在るべき姿を提示したのです。

 日本が理想的な「民主主義」の国になることを願った朝河のメッセージは、現代への提言でもあります。16世紀から欧米の巨大な勢力は、世界を支配してきました。しかし21世紀に入って、異なる文化と宗教を持った勢力が、同等の力を持ち始めました。21世紀は、朝河が言う「共存の英知」を見つけなければならない世紀となりました。この時代に、私たちはどのような役割を果たすべきなのでしょうか。朝河からの未来へのメッセージを、皆さんと考えてみたいと思います。

 朝河貫一記念ガーデンは、2007(平成19)年、彼がイェール大学講師に就任してから100年を記念して、同大学セイブルック・カレッジ(カレッジはここでは寮の意味)の中庭に造られた石庭です。20世紀初頭、世界史と言えば西欧史を指しました。朝河は、ヨーロッパ以外では日本のみに封建制度が存在したことを立証して、日本史を世界史の中に確立した中世史の世界的権威です。

 朝河ガーデンの銘板には、

 Professor of History, Curator, Peace Advocate

 と刻まれています。彼は40年間イェール大学のCurator(図書館東洋部長)として、大学や米国議会図書館に膨大な日本関係図書を納めました。関東大震災の時は、東京大学図書館の再建を迅速に支援しています。Peace Advocateは、平和を希求し提言する人ということです。

 現在、イェール大学では、ボッツマン教授(Dr. Daniel Botsman)が、大学院で朝河をテーマにしたゼミを、学部でYale and Japanのクラスを担当されています。教授は、昨年夏の第99回朝河貫一研究会(会長:山岡道男早稲田大学アジア太平洋研究科教授)に、出席されました。早稲田大学での朝河貫一研究会は、1991年に『朝河貫一書簡集』(早稲田大学出版部)が出版されたのを契機に創設され、昨年11月に第100回(テーマ:「朝河と坪内逍遥」)を迎えました。今月4月11日の午後2時からの研究会は、「朝河と中国知識人」についての報告が予定されています。イェール大学では、この3月5日~6日に、朝河の中世史に関するシンポジュームが開催されたばかりです。このように、朝河研究は、現在も確実に続けられています。

 

山内講演2

朝河貫一博士顕彰講演会での山内晴子氏

 

 

 今回は、Peace Advocateとしての朝河をご紹介いたします。

 朝河の一生は、日本が世界のパワーシステムの仲間入りをした半世紀と重なります。日清戦争(1894年~1895年)、日露戦争(1904年~1905年)、第一次世界大戦(1914年~1918年)、対中国21カ条要求(1915年)、満州事変(1931年)、日中戦争(1937年~1945年)、第二次世界大戦(1939年~1945年)、冷戦(1945年~)と続く、まさに激動の時代です。日清戦争は、朝河の東京専門学校(現: 早稲田大学)卒業の年(1894年9月~1895年7月)にあたります。
 朝河は、この戦争の時代に、学問的実績を基に、生涯にわたり外交提言を続けました。今でいう、国際政治学者でもあったのです。彼は、1900年の年頭の自戒で、日本歴史を制度的観点から研究して、「西洋にむかって東洋を、だだ解説するというよりも、むしろ全人類の生存と運命の真相に対する組織的貢献」をしようと決意しています。朝河が、イェール大学大学院歴史学科に入学した26歳の時です。

 

日米開戦を回避せよ

 

 朝河は、多くの友人を持っていました。彼らへの書簡を紹介しながら、朝河の思想や信条をお伝えしたいと思います。

 彼は、日米戦争を回避すべく、1941年10月12日付金子堅太郎(明治の官僚・政治家で枢密院顧問官)宛に書簡を出します。しかし、日米関係はすでに悪化しており、日本には届きませんでした。その英訳書簡(10月10日付)が、open letter(回覧書簡)としてアメリカの指導者や知識層に回覧されました。この金子宛書簡で朝河は、日本は、

 ①ナチに追随してはならないこと
 ②中国からの軍の撤退
 ③三国同盟の破棄
 ④軍務と民政の分離
 ⑤民心と教育の開放
 ⑥世界との自由な交流

 を進言しています。軍部が徳川慶喜や勝海舟のように自ら退く勇気がないなら、天皇の聖旨によって撤退させなければならないと提言します。この文言を読んだラングドン・ウォーナー(ハーバード大学フォッグ美術館東洋部長)が、日米開戦阻止のため、昭和天皇へのルーズヴェルト米大統領親書の草案を書くよう、朝河に提案したのです。

 1941年11月23日、朝河は大統領親書草案を書き終えます。ウォーナーは、その草案をホワイト・ハウス、国務省、陸軍省などの政府高官に渡すべく、ワシントンを2日間走り回りました。実際の天皇への大統領親書にも、その一部が使われます。しかし、日米戦争を阻止することは出来ませんでした。歴史学者朝河にとって、日本が敗れることは明らかでした。敗戦後に、軍部を追いだし、日本が民主主義国にスムーズに移行するには、天皇制度との共存以外ないことを知っていました。そこで、アメリカの指導者や知識層に、精力的にopen letter(回覧書簡)を出して、「民主主義」と天皇制度という異文化共存の戦後構想を提言したのです。

 開戦直後の12月10日、ウォーナー宛に出した書簡には、ハル・ノートと実際の大統領親書を批判して、こう主張しています。

 「外交とは、相手の精神の理解を通して自分の目的を達成するにあります」

 朝河は12月28日には、『ニューヨーク・タイムズ』に、匿名で投書もします。「(米国の)国民大衆の間にある盲目的憎悪を扇動することは卑しいことであります。・・・なぜなら非理性的な憎悪を吹き込む以上に国民の意識を荒廃させるものはないからです。・・・敵対国(日本)の歴史的遺産への深い洞察を所有し、その良い面と悪い面を注意深く区別すること、或は、その国の現下の政府の傾向と民族全体とを区別する能力」が、今求められている、と書いています。

 朝河の脳裏には、日本の敗戦の姿がありました。open letter(回覧書簡)で朝河が戦後構想を説得した相手の一人に、W・B・ウィルコックスがいます。ウィルコックスはミシガン大学の歴史学者で、朝河は彼の博士論文指導教授の一人でした。1942(昭和17)年4月5日付書簡には、国際連盟について、枢軸国にかつて侵略された弱い国の感情を、強国は斟酌し、その実際上の平等が守られるよう監視すべきだ、と説いています。そのためには強国であるアメリカ人は謙虚になって民主主義を自ら学ぶべきであり、「外国や旧敵国の歴史や精神文化の同情的理解を培う必要」があると指摘しています。朝河が危惧したのは、多数のアメリカ人が「他国の人々を十分に人間主義的な仕方で考えるのではなく、むしろ、創造的とひとり合点しているところの青写真でブルドーザー的な仕方で考えているところ」でした。

 「強国」への注文は、朝河の持論でした。開戦前の1935年12月19日付ダートマス大学タッカー学長未亡人宛書簡に、苦しんでいる国が「求めている大きな正義とは、まともに生きる権利です。・・・再建が平和裏におこなわれることを望むならば、その平和的な方法は平和を求める者の犠牲においてなされなければならないし、またなされ得るものであります」とのメッセージを残しています。

 この考えは、2001年の緒方貞子氏とアマルティア・セン氏の「人間の安全保障」に通じる概念であると思います。セン氏はインドの経済学者で、貧困の問題に取り組み、アジアで初のノーベル経済学賞を受賞しました。IS(イスラム国)のような過激集団への若者の参加を阻止するためには、世界が一致団結して「まともに生きる権利」が若者たちに与えられるよう、教育や医療や仕事や生活環境を整える、地道で辛抱強い、不断の支援が欠かせない、という現状に繋がっていくものです。

 

差異と多様性を奨励する寛容な「民主主義」

 

 そして、敗戦です。敗戦翌年の1946年夏、ウォーナー宛の長文の書簡で、朝河は、次のように書いています。

 「私は民主主義の重要性に気づいて以来、アメリカに於ける私の長い生涯の間(帰国は2回)、個人的行動で決して妥協しませんでしたし、私の周りの人々が譲歩しても、時にはたった一人になった時も民主主義に踏みとどまってきました。そうしなければ、私は自分と同国の人々の弱点を公然と非難する権利を持たないと感じました。もし日本が真に民主主義国になりたいのなら、民主主義は他の政治形態にまして、市民にふさわしい良心を持とうと、一人ひとりが個人的責任感を持って始めて成り立つと固く信じております」

 彼の外交理念は、「民主主義」だったのです。では、彼が理想とする「民主主義」をどのように体得したのでしょう。

 朝河は、福島県の二本松に1873(明治6)年に生まれ、福島県立尋常中学校(現: 福島県立安積高校)を首席で卒業後、東京専門学校に入学しました。そのわずか6ヶ月後に本郷教会(現: 弓町本郷教会)横井時雄牧師から受洗したのです。横井牧師は、横井小楠の長男(後に同志社総長、政友会代議士)です。1895(明治28)年7月、東京専門学校を首席で卒業した苦学生朝河の夢は、アメリカ留学でした。大隈重信、勝海舟、徳富蘇峰、大西祝や福島の友人から渡航費の援助を受け、横井の友人のダートマス大学学長タッカー牧師から学費と寮費免除を受けて、ようやく留学が実現します。朝河は、このタッカー牧師から、理想とする「民主主義」を体得するのです。その「民主主義」は、ピューリタニズムの頑なさを克服した、リベラルで寛容なプロテスタントの倫理から生まれたものでした。

 

asakawa留学前1895

福島県立図書館所蔵。留学前の1895年(明治28年)10月23日、東京専門学校文学科哲学会のメンバーとの記念写真。後列中央が朝河。右端は島村抱月(共著『朝河貫一資料』増井由紀美キャプションより)。

 

 

 宗教を利用する人は尊敬されませんが、マザー・テレサのような人は、他の宗教の人々からも尊敬され、宗教を超えることが出来ます。宗教の寛容とはこのようなことではないでしょうか。

 近代民主主義の主たる要素は、①基本的人権、②平等権、③思想・言論・表現・結社の自由権、④多数決原理、⑤法治主義の5つです。近代民主主義の源泉となったのは、マルティン・ルターの「万人司祭」宣言(the priesthood of all believers,キリスト教信者は誰もが祭司であるという考え)であり、人々は特権を与えられると共に責任を担うこととなったことも、忘れてはなりません。制度としての多数決だけでは、民主主義とは言えないでしょう。朝河がタッカー牧師から体得した理想とする「民主主義」は、国家至上主義の対極にあって、集団ではなく個人相互の敬愛と信頼に重きを置くものです。また平等は公平ではなく差異と多様性を奨励するものであり、自由を重んじる民主主義でした。反対の論も「平気に淡白に面と向って説くことができる」思いやりをこめた批判精神を尊び、他人の成功と成長を喜ぶ度量の広さと常にユーモアを忘れない「民主主義」です。

 朝河は、徳富蘇峰の『国民新聞』に31回寄稿しています。1896(明治29)年12 月7日には、「日本国内不敬を責むる如く西人は個人円満の成長を防ぐるものを責め候」と書いています。日本で不敬が一番責められるのと対照的に、アメリカでは個人の成長を阻む者が一番責められると知らせているのです。タッカー学長は、いち早く東西相互理解の必要を認識し、率先してカリキュラムの改革に力を入れ、朝河をイェール大学大学院に学費を出して学ばせました。1902年にタッカーは朝河による東西交渉史の講座を、ダートマス大学に開設します。世界史の中に西洋と違った賜物を持つ日本史を確立することの意義を朝河が確信できたのも、天皇制度と「民主主義」の共存という戦後構想を提言できたのも、タッカーの差異と多様性を奨励するリベラルで寛容なプロテスタントの精神の影響なしには考えられません。

 多様性の奨励と寛容な精神は、現代でも平和を希求する者にとって、最も大切にすべきことと思います。自分と違った考えを持つ人は愚かな人だから、話し合っても無駄だ、ヘイトスピーチの対象にしても構わない、攻撃しても構わない、殺しても構わない、破壊しても構わないという憎悪の拡大再生産こそが、戦争や紛争や破壊の火種だからです。

 

「武士道は都合よく忠君愛国の心と化した」

 

 1898年、24歳の朝河は初めての外交に関する論文「日本の対外方針」を蘇峰の『国民之友』に発表します。日露戦争は不可避と考えた朝河は、日本が外交方針を文明最高の思想と一致させて初めて東洋における義務を悟ることができ、世界において地位を獲得することができる、と書いています。日本は文明最高の思想を外交方針にすれば、世界で尊敬され役立つ国になれるというのです。

 日本は、2大原則(中国での領土保全と列国の貿易の機会均等)の実現のためにロシアと戦うと公言して、英米の支援を受けました。朝河も、『日露衝突』(The Russo-Japanese Conflict: Its Causes and Issues)を、英米で出版しました。この本は現在でも引用されており、経済学者が書いたかと思われるほど統計を駆使した日露近代史です。しかし、日露戦争に勝利すると、日本はロシアの利権を手にします。日本は、中国や韓国を侵略して、満州を支配し始めたのです。

 1906年に一時帰国した朝河は、大国ロシアに勝利して傲慢になった日本人の精神的荒廃を憂いました。翌年、島村抱月に促されて、『早稲田学報』に時事論評を寄稿します。「武士道は都合よく今日の忠君愛国の心と化し」たが、日本人の危機的状況の第一原因は、「国家教育と称する厳格なる一定の鋳型にて作りたる公立学校における道徳教育」である。愛国忠君の精神を養って戦勝の一大原因となったが、平和時の日本国民の道徳形成に役立っていないと指摘します。無教育の者は依然として旧来の迷信を信じ、貴族は旧態然で、富豪は安逸を貪り利害に心忙しく、役人は仲間との駆引(かけひき)に心を労し、知識人は自尊の病にかかっており、最も多感な青年に日本の精神的危機がまず表われている、と警告します。

 

日本の敗戦を予言

 

 そして、帰米後の1909年に、『日本の禍機』(現在、講談社学術文庫)を出版するのです。朝河はこのまま日本がアジア膨張外交を続ければ、国際社会から孤立して「文明の敵」として戦うことになり、必ず負ける、今、日本は国家存亡の危機にある、と強く警告します。つまり朝河は、1909年に1945年の日本の敗戦を予言したのです。金子堅太郎は、『日本の禍機』を高く評価し、伊藤博文や桂太郎にも配りました。翌年伊藤が安重根に暗殺された時、『日本の禍機』を持っていたことを、朝河は後になって知ります。

 大隈重信内閣の加藤高明外務大臣が第1次大戦への参戦に積極的で、ドイツの膠州湾を要求します。朝河は1915年に恩師の大隈に「もし文明世界の憎まれもの」になったら、頼むところは兵力しかなく、「其負担は恐るべきもの」になるだろうと、膠州を還付するよう長文の書簡を出します。青島領有は、満州から中国大陸への植民地拡大だからです。対中国21か条要求後にも、大隈に膠州還付を強く訴え、今後は「日支共進、東洋自由、東西共同」を2大原則に代る方針とすべきと進言します。しかし、78歳の大隈は、聞く耳を持ちません。日本は英米の反感を買い、ワシントン条約で日英同盟を破棄され、24年には排日移民法が成立します。しかし、日本の知識人や指導者は、日英同盟破棄や排日移民法の原因が、日本の中国侵略にあることに気付かないのです。

 現在も海外からのあふれるほどの情報の渦の中で、重要な情報を見逃し、世界が目指すべき「文明最高の思想」が何であるか把握できないとしたら、知識人の責任は極めて大きいということになります。

 

asakawaイェール大助教授

福島県立図書館所蔵。エール大学助教授時代(共著『朝河貫一資料』増井由紀美キャプションより)。

 

知識人の沈黙を批判

 

 1931年に満州事変が起こると、朝河の軍部批判はさらに明確になっていきました。1932年2月に大久保利武(大久保利通の三男)宛てたopen letter(回覧書簡)には、日中の難局を兵力で一気に解決できると思っていることが根本的に間違っていること、そして

 「私ハ数月来日本ニ雷同を見るのみニて、正直の論を試むる勇気ある人あるを聞かざるを憾(うら)み候。日本将来のために、かかる強制的沈黙こそ最も危険なるべきを信じ候」

 と知識人の沈黙を強く批判します。この書簡は、天皇の信頼が最も厚かった牧野伸顕内大臣(大久保利武兄)に回覧してくれるよう依頼しています。

 徳富蘇峰は、明治から昭和にかけて知識人や指導者層に大きな影響力を持ち、世論を動かす力を持ったジャーナリストでした。朝河は1933年の徳富蘇峰宛書簡で、蘇峰が反動勢力に貢献すれば、将来の日本に災いを招くと、蘇峰の一番尊敬する新島襄の名を出して強い口調で翻意を促します。日本軍部の方針は、ドイツの方針の日本化で、表面は爽快で、国民的虚栄心を満足させるが、根本の禍を軍部が蒔いている、軍部が威勢の良い掛け声で日本を滅びの道に誘導しているのだ、と最大限の警告を発したのです。しかし、蘇峰は聴く耳を持たず、ついに手紙も来なくなりました。

 日本は、朝河が憂慮した方向に突き進みました。軍事費の膨張を、政治力によってある程度食い止めていた高橋是清が、1936年2・26事件によって暗殺されます。1931年に国家予算(約17億円)の31%であった軍事費は、1936年には47%へと急膨張し、軍部の独走は止められないものになっていきました。1937年盧溝橋事件で日中戦争に突入し、敗戦への道を転がり落ちていったのです。

 

眼前の重大事を考えない危機

 

 1936年から1940年までに、総理大臣が6人も交代しました。40年の1月28日付鳩山一郎(政友会代議士)宛書簡では、

 「何故ニ日本ノ政府が度々変ッテ小人物ガ頻りに出没スルヨウニナッタカ」

 と問い、なぜ利害が少ないドイツと国運を結ばんとして失敗したか、なぜ将来、最も国運が繫がっていなくてはいけない英米を敵とせざるをえなくなったのか、このまま満州事変以来の態度を継続していけば、危機という言葉が今ほど妥当する言葉はない、と強い警告を発します。日本の政治全般に共通する弊害は、眼前の重大事について徹底的に考えないことで、「将来ノ危難ノ原因」はここにあり、両目を閉じて「禍難ノ深淵ニ馳セ向イツゝアルニ戦慄」すると最大級の危機を訴えました。

 現在も日本人は、とかく内向きです。まず、世界の潮流に関心を持つために、中学・高校では日本史と世界史を現代からさかのぼって、同時代的に学ぶ必須科目にしたらどうでしょう。

 今年2月11日、英国国際戦略研究所は、2013年~2014年にかけてのアジア全体の国防費増額のうち、中国が63.4%、インドが14.3%、日本が5.7%、韓国が4.2%と発表しました。中国は力づくで、東シナ海や南シナ海で現状変更をしようとしています。昨年10月末の「第10回東京―北京フォーラム」の基調講演で、福田康夫元総理大臣は、『日本の禍機』から『中国の禍機』を学んでほしい、「高齢化していくアジアは、高い経済成長を遂げている間に、様々な課題に取り組む必要があり、日中がいがみ合っている時間はない」と呼び掛けました。この発言は中国メディアにも好意的に受け取られたと、報道されました。日本も歴史認識で強硬な意見が勢いを増していますから、東アジアの平和と安定のために、日中双方にとって『日本の禍機』のメッセージは大切だと思います。そのためには、『日本の禍機』の口語訳、中国語訳、英訳に取り組まなければなりません。支援に値するプロジェクトだと思われませんか。

 次号では、天皇制度と「民主主義」の共存という朝河の敗戦後構想についてご紹介したいと思います。