この国は自己責任を葬ったのか

M. Kimiwada

M. Kimiwada

君和田 正夫

 「自己責任」がニュースの中心になることが増えましたので、この問題を考えてみたいと思います。「イスラム国」による後藤健二氏と湯川陽菜氏の人質事件は大変残念な結果になってしまいましたが、この事件と2004年のイラク人質事件(注1)は、この国における「自己責任」の在り様をあからさまに見せ付ける結果になりました。

 2004年の人質事件では「自己責任論」が噴出しました。有力政治家が率先して自己責任論を述べ、また世論も一斉に人質の行動を批判し、さらに家族にまで批判は広がりました。

 ところが、米国国務長官コリン・パウエル氏の発言(注2)で、日本の政治家はあっという間に沈黙したのです。「日本人は誇りに思うべきだ」という発言は日本のテレビ局TBSのインタビューで伝えられました。

 

「自己責任」と「自業自得」

 

 それから10年余、自己責任論が脈々と受け継がれてきていることを、あらためて確認させられました。そして多くの場合、「自己責任」があたかも「自業自得」と同じかのように論じられ、受け継がれてきたのです。後藤さんの戦時下の市民との関わり、とくに子どもたちに視点を定めた行動が評価されていること、そして後藤さんも湯川さんもあまりに不幸な結果を迎えてしまったことから、2004年のような露骨な自己責任論(自業自得論)は出ていないように見えます。政治家もパウエル発言を意識しているのでしょうか、発言に注意しています。

 しかし、ジャーナリズムの立場から見ると、実態は悪化の一途をたどっているように見えます。朝日新聞は2月1日付朝刊で『「イスラム国」震える街』という見出しで、シリア北部アレッポのルポルタージュを掲載しました。これに対して一部メディアは「外務省が退避要請しているシリアに入った」と報道し、ネットでは朝日批判が続いています。

 朝日新聞は「Re:お答えします」という読者からの質問や意見に答える欄(2月4日付け朝刊)で「どんなに注意してもリスクはゼロになりません。それでも取材するのはなぜか。虐殺や人道被害では、現場で記者が取材することが真実にたどりつく限られた方法だからです」と答えました。この答えは、外務省の「退避勧告」を無視することもありうる、というジャーナリズムの本質、あるいはジャーナリズムの本能をとらえた答えだと思います。

 個人の場合はどう考えたらいいのでしょうか。またジャーナリストでない人の場合はどう考えたらいいのでしょうか。なかなか答えを出しにくい問題です。ジャーナリストとは誰を指すのか、はっきり定義できないからです。

 2月7日、外務省はシリア渡航を計画していたフリーカメラマンに対して旅券法に基づいて旅券の返納を命じました。カメラマンは「渡航と取材の自由はどうなるのか」(朝日新聞2月8日付け朝刊)と疑問を呈しています。法的措置で渡航を止められた、ということは、自己責任の議論以前の段階の話になります。大新聞、大テレビ局といえども、危険地域への取材が法的に抑えられる日が来るかもしれない、ということを予感させる事件です。

 

掌(たなごころ)の上の自己責任

 

 日本の「自己責任」には際立った特徴があります。ジャーナリストやNGO,NPOの活動家などが「自己責任」で危険地帯に行く、あるいは行こうとするとき、たとえ「自己責任」であっても批判の対象になってしまう。ましてや政府に「迷惑」をかけた時の批判は想像を絶します。「自業自得だろう」ということです。そう考えると日本では「自己責任」という概念は無いに等しい、ということになります。あったとしても政府・世論の「掌(たなごころ)」の上だけで許される「自己責任」です。掌から外れた行動は「自業自得」となるでしょう。ただし、どちらであるかを問わず、国は救出に全力を挙げる、ということは当然のことです。

 寺島実郎氏は2004年の人質事件で「自己責任論を巡って」と題して、ジャーナリストの役割を次のように述べています。(「世界」2004年7月号『脳力のレッスン』)
 「ヘミングウェイをはじめ多くのジャーナリストが戦場に立ち、現場からの報道に文字通り命をかけてきた。それこそジャーナリストの誇りでもあった。ジャーナリストは権力に対して常に『御(ぎょ)しがたい懲りない人』でなければならない」

 私も原則この通りだと思います。ただ問題は、先ほど書いたように、ジャーナリストとは誰を指すのか、という点です。ジャーナリストには弁護士や会計士のような資格がありません。だれでも「ジャーナリスト」を名乗ることが可能です。私の周辺には「ジャーナリスト」の肩書を印刷した名刺を持っている人が沢山います。「人道支援」の活動をしている人たちも似た状況に置かれているのかもしれません。

 ジャーナリストの定義は人によって異なるでしょう。だからと言って無理やり定義を統一したり、場合によって国によって格付けされたりするより、曖昧なままに置いておく方がはるかにいい、と私は考えています。

 私が考えるジャーナリストの条件は三つあります。一つは現場を持っている、ということです。この「現場」は事件・事故の現場だけを意味しません。インタビューも立派な現場です。ジャーナリストの仕事はインタビューで始まり、インタビューで終わる、と言っても過言ではありません。二つ目は何らかの発信手段を持っている、ということです。大新聞、大テレビ局だけが相手ではなく、ウェブでもよし、ミニ媒体でもよし、必ず取材の結果を伝える術を持っていなければなりません。

 三つ目は危機管理を十分に行えることです。危機管理は危険地域に入る時はとりわけ十分すぎるほどの対応が必要ですが、日常の取材でも不可欠です。誤った情報をつかんでいないか、誤ったときどのように対応するか、すべて危機管理です。

 

アラームが鳴っている

 

 ジャーナリストが危険地帯に入る意味を、もう一度考えてみると、ジャーナリズムの本能は、今の時代に次のようなアラーム(警報)を鳴らすでしょう。

 集団的自衛権を行使することは、海外で自衛隊が活動することになるけれど、その活動状況や戦地の情報は誰が伝えるのか? 特定秘密保護法のおかげで外国政府の情報が得られるようになると政府が言う、その外国情報か?それとも海外の報道機関が流す情報か?日本の在外公館の収集能力は、著しく低い、と言えるので、日本は他人任せの情報だけが頼りになってしまうのか?

 特定機密保護法で外交上の重要情報がコントロールされることになると、政府に都合の悪い情報は流れにくくなる事は、多くの識者が指摘する通りです。そう考えると、「自己責任」で取材しようとすることが、今後ますます意味を持ってくるはずなのに、「自己責任」を主張しにくい状況が日本の潮流になってきています。

 2004年の事件以来、インターネット上で、「自己責任だろう」と批判する人たちは、ほとんど匿名です。自らの身を安全地帯に置いて、つまり「自己責任」は放棄して「他人責任」を追及している、その姿は日本の文化水準がひどく落ちてしまったか、もともとそんな文化など持ち合わせていなかったか、のどちらかではないか、と絶望させられます。

 最初にパウエル氏の談話を書きましたが、今回の事件で、世界食糧計画(WFP)の事務局長声明は、似たような役割を果たすのでしょうか。WFPは後藤さんについて、難民たちの窮状に心から関心を抱いていた、と次のように哀悼の意を表明しました。(2月6日、国連WFPニュース)

 「人生最後の数年間において難民キャンプに何度も足を運ばれた後藤さんは、飢餓のない世界を目指す私たちの同士です」
「後藤さんと仕事をする機会に恵まれた職員は、後藤さんが非常に優れたジャーナリストであり、人々の苦しみに真摯に耳を傾ける正真正銘の人道主義者であった、と証言しています」

 私事ですが、私はWFP協会の顧問を仰せつかっています。後藤さんとは面識がありませんでしたが、フリージャーナリストの顔だけでなく、人道支援の広い顔を持っていたことを、今回の事件で初めて知った次第です。

 「言論の自由」は常に脅かされてきました。脅かされない時代ってあったのだろうか、多分ないでしょう。だからこそ、この自由が崇高な理念としての位置を維持し続けているのだと思います。

 フランスの「シャルリ・エブド」襲撃事件(1月7日)や「イスラム国」による後藤健二氏の殺害事件のような暴力に依らなくても、「自己責任」という日常的な言葉も言論の自由を脅かす武器になりうるのです。

 <注1>
 2004年4月、イラクで日本人のボランティア、フリーカメラマンら3人がイラクの武装勢力に誘拐された。武装勢力はイラクに駐留していた自衛隊の撤退を要求したが、日本政府は拒否した。続いて2人の誘拐事件も起きたが、5人とも解放された。10月には1人が誘拐されて殺害される事件も起きた。

 <注2>
 2004年4月15日、TBSのインタビューに答えた。パウエル氏の発言要旨は以下の通り。(TBS報道から)
 「全ての人は危険地域に入るリスクを理解しなければなりません。しかし、危険地域に入るリスクを誰も引き受けなくなれば、世界は前に進まなくなってしまう。彼らは自ら危険を引き受けているのです。ですから、私は日本の国民が進んで、良い目的のために身を呈したことを嬉しく思います。日本人は自ら行動した国民がいることを誇りに思うべきです。また、イラクに自衛隊を派遣したことも誇りに思うべきです。彼らは自ら危険を引き受けているのです。たとえ彼らが危険を冒したために人質になっても、それを責めて良いわけではありません」