一丸節夫
(東京大学名誉教授・科学者・執筆家)
百年前に他界した夏目漱石は、その2年前の大正3(1914)年11月25日、学習院輔仁会に招かれ『私の個人主義』と題する深遠な講話をしました。そしてその終段で、個人と国家権力との相互関係を語り、そこで安倍政権が安保関連法制の基盤とする“積極的平和主義”の欺瞞を、先取りするかのように指し示していたのです。
「権力」とは「金力」とは
漱石はその講話の前半でイギリス留学中に見出した「自己本位」の大義について述べます。文藝に対する自己の立脚地を探し求めて茫然自失の日々を送っていた漱石は、その四字を自分の手に握ってから大変強くなったと語りました。
後半ではまた「権力」や「金力」が「自己本位」の道とはそぐわず、むしろ弊害になると説きます。そこで漱石が導いた等式は、鮮烈です。〈権力=自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に押し付ける道具〉
〈金力=個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重宝なもの〉
「個人主義」と「國家主義」は撲殺し合うものではない
漱石は『私の個人主義』の結言の一節で、次のように「個人主義」と「國家主義」の関連を語ります。(旧字体を当用漢字などに変えました)
– 一体国家といふものが危くなれば誰だつて国家の安否を考へないものは一人もない。国が強く戦争の憂が少なく、さうして他から犯される憂がなければない程、国家的観念は少なくなって然るべき訳で、其空虚を充たす為に個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すより外に仕方がないのです。今の日本はそれほど安泰でもないでせう。貧乏である上に、国が小さい。従って何時どんな事が起ってくるかも知れない。さういふ意味から見て吾々は国家の事を考へていなければならんのです。けれども其日本が今が今潰れるとか滅亡の憂目にあふとかいふ国柄でない以上は、さう国家々々と騒ぎまわる必要はない筈です。・・・必竟(ひっきやう)ずるに斯ういふ事は実際程度問題で、愈(いよいよ)戦争が起つた時とか、危急存亡の場合とかになれば、考へられる頭の人、――考へなくてはいられない人格の修養の積んだ人は、自然そちらへ向いて行くわけで、個人の自由を束縛し個人の活動を切り詰めても、国家のためにつくすやうになるのは天然自然と云っていゝ位なものです。だから此二つの主義はいつでも矛盾して、何時でも撲殺し合ふなどゝいふやうな厄介なものでは萬々ないと私は信じているのです。・・・ただもう一つ御注意までに申し上げて置きたいのは、国家的道徳といふものは個人的道徳に比べると、ずつと段の低いものの様に見える事です。元来国と国とは辭令(注、応対の言葉)はいくら八釜(やかま)しくつても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でゐなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考へなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義に矢張重きを置く方が、私にはどうしても當然のやうに思はれます。
安倍首相の「積極的平和主義」
漱石がこのように懸念した個人主義と国家主義間の相克は、わが国の現況に深い関わりをもちます。それは、安倍首相が「積極的平和主義」なるものを前面に押し出して、国家の根幹を変えているからです。
2015年4月28日の日米首脳会談で、オバマ米大統領と安倍首相は「不動の同盟」として安保協力を大幅に広げ、「日本はアジア太平洋地域や世界でより大きな役割と責任を担うだろう」との米側の期待を、安倍首相が「積極的平和主義で」と応じました。それは、日米防衛協力や集団的自衛権の行使といった、〝平和主義〟とは裏腹の戦争に関わる行為と密接に関わっているのです。岩波『広辞苑』によると、平和主義 (pacifism) とは、
1 平和を理想として一切を律する思想上・行動上の立場
2 狭義には 一切の戦争 (民族解放戦争などをも含めて) を悪として否定する立場
だからです。
安倍首相は翌29日米国の上下両院で戦後70年の日本について演説をしました。ロイター通信の伝える演説の原稿によりますと、彼はその終盤で、自ら提唱する“積極的平和主義”を、JAPAN’S NEW BANNER (日本の新しい旗印) として次のように言います。 (傍線は筆者)
That’s why we now hold up high a new banner that is “proactive contribution to peace based on the principle of international cooperation.”
Let me repeat. “Proactive contribution to peace based on the principle of international cooperation” should lead Japan along its road for the future.
と繰り返し、新たな安全保障関連法案をこの夏までに成立させると約束しました。ちなみに、上記の“”内を翻訳しますと「国際協力の原則に基づく平和への先制的な貢献」を意味し、真の平和主義とは裏腹の行動原理のようです。
「積極的平和主義」の欺瞞
ここで、2003年3月20日、当時のブッシュ米大統領が「イラクの所有する大量破壊兵器を発見・廃棄し、フセイン政権やテロリスト集団がそれにより米国やアラブ周辺諸国などを攻撃するのを防ぐため」との大義を掲げ、米英連合軍による対イラク先制攻撃の火蓋を切った行動を思い出しましょう。「米英連合軍」ですから国際協力の原則には適合しています。「イラクの所有する大量破壊兵器を発見・廃棄し、……」は、そのまま「平和への先制的貢献」にあたると強弁が可能でしょう。だから、この先制攻撃は安倍首相の称える積極的平和主義にかなう、と解釈されても仕方がありません。
当時の小泉純一郎首相は、他国にさきがけ、ブッシュ大統領のこの決断を支持しました。そして「イラク特措法」をつくってまで、自衛隊をイラクへ派遣したのです。
そのイラク派兵は、当時米国務副長官であったアーミテージ氏の “Boots on the ground!” (地上軍をイラクに!) なる掛け声により行われました。そのアーミテージ氏は2007年の2月に、2020年に至るアジアでの日米軍事同盟のあり方を提言する「アーミテージ・リポート2」“THE U.S.-JAPAN ALLIANCE Getting Asia Right through 2020” を発表、その中には
Japan’s new leaders are arguing for a more proactive security and …
なる一文 (傍線は筆者) が見受けられます。
安倍「積極的平和主義」には、かくも恣意的で胡散臭いゴマカシが含まれているのです。そして、漱石が言うように 「元来国と国とは辞令はいくら八釜しくつても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なもの」 なのです。このことは、イラクへの先制攻撃と、その後のわが国をふくむ各国政府首脳たちの対応からも明らかです。
当時も今も、世界では多くの人々が、貧困、飢餓、そして戦禍に苦しんでいます。テロの真因は世界を覆う相互不信と経済社会構造の歪みにあります。圧倒的な軍事・経済力を背景とした先進諸国は、開発途上国のそのような苦境に適切な配慮を示さず、テロを自由主義体制への挑戦としてのみとらえ、テロ撲滅は過当な火器行使の免罪符となりました。そして、アフガニスタン、イラク、シリアなどでは、苛烈な空爆攻撃により無辜の民が殺傷され、国土が荒廃に瀕し、おびただしい数の難民が残されたのです。
安倍「積極的平和主義」にもとづく (憲法違反の) 安保関連法は、彼が米議会に約束した通り、2015年9月17日に参院特別委員会で強行採決され、19日未明に参院本会議で成立し、そして2016年3月29日の未明に施行されました。そして、たとえばアメリカが他国に空爆を仕掛ける際、後方支援と称してわが国が弾薬やミサイルなどを供給することも可能になったのです。