中川 美帆
東京にいると、奄美群島(注1)は沖縄の一部という認識の人が多いと感じます。海のきれいなリゾート地というイメージを抱く人も多いでしょう。しかし、民族文化映像記録の現場にいた私にとっては、奄美は長い時間をかけて積み上げてきた固有の文化を垣間見ることができる貴重な場所なのです。心惹かれる場所といってもいいでしょう。沖縄県ではなく鹿児島県に所属しますが、その薩摩藩から三百年にわたり強いられた圧政の歴史もあります。「黒糖地獄」という時代です。明治維新の時は薩摩藩にとって大きな資金源になっていました。そうした過去と、山に囲まれたシマ(集落)、美しい海や川や自然が一体となって、歴史を作ってきました。
独自性に富む島々
奄美群島は九州から南下した位置にあり、約200キロに渡り14の島が連なります。そのうち無人島を除いた島は8つです。8つの島は奄美大島、喜界島、加計呂麻島、与路島、請島、徳之島、沖永良部島、与論島。どの島も個性が豊かです。アダンの葉が揺れる亜熱帯性気候で南方の伝統行事が数多く残っています。その中で最も広いのが奄美大島。面積は東京23区を上回ります。東京からは飛行機を利用すると2時間30分で到着します。
地球上で奄美にしか生息しない希少種や固有種が多く、生物多様性の面で国際的にも評価され、世界自然遺産の登録候補地になっています。(メモ「琉球弧
」参照)島々は地質から大きく2つにわけられます。山地や河川が多く海岸線が変化に豊む島と、山は台地程度で地下水が発達した隆起珊瑚の島です。
奄美大島と加計呂麻島は深い山が多く起伏が大きい。面積の8、9割が海岸のすぐそばまで切り立つ山に覆われています。集落は山を背にし、その先に美しい海が広がります。山からは日に何度も蒸気が立ち上りすぐそばで太古から息づく原生林の呼吸を感じることができます。
喜界島は高い山がなく地平線が見渡せる平地が広がります。珊瑚地形のため土壌はミネラルに豊み、多くの島固有の作物が作られています。喜界の土で育てないとその味は出ないと言われる程です。中でも99.9%を輸入に頼っている白胡麻の国内生産は日本一です。百年以上にわたり自家用に栽培し受け継がれてきた島固有の胡麻は香りが高く、濃い味がします。9月頃が収穫期ですが、貴重なため年内で売り切れてしまう生産者もあります。
夏の正月 〜 聖なる三八月・ミハチガツ
奄美は今でも多くの行事が旧暦で行われています。稲刈りの終わる旧暦八月(9月ごろ)を奄美ではミハチガツ(三八月)と呼んでいます。夏の正月です。一年の大事な節目としてアラセツ・シバサシ・ドゥンガと呼ばれる三つの祭祀を行う集落もあります。そこでは、火の神や土の神、祖霊を祀り、豊年祭を始めとした予祝(前祝い)行事などが行われます。豊年祭では本州で仕事をしている多くの人が故郷のシマ(集落)に戻り、島中が祈りと踊りの輪に包まれます。
行事は集落ごとにそれぞれ特徴を持っています。豊年祭を始め祝い事や祭りのときに踊る八月踊りを例にしても、踊り方や唄が集落で違うため、踊りをみればどの集落出身か分かると言われる程です。祭りは情念を発散させるものですが、明日から生きていく力を八月踊りの輪から受け継いできた、と言います。
私が初めて奄美を訪れたのは、龍郷(たつごう)町の秋名・幾里集落で行われるアラセツ行事「ショチョガマ」と「平瀬マンカイ」を見るためでした。これは、山と海から稲魂を招いて五穀豊穣を祈願し感謝する行事です。「ショチョガマ」は早朝の日の出とともに田んぼを見下ろす山の中腹で行なわれます。「平瀬マンカイ」は同じ日の夕方、集落の浜で行なわれます。昭和60年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。今では島内外、全国から何百人の方が集まり会場は人や撮影のカメラやマイクであふれかえります。
驚いたのは、保存会の会長のお宅で同じ龍郷町出身の方とお話をしたときのことです。その方は「ショチョガマと平瀬マンカイを観たことがない」と言いました。私は龍郷町の人だから当然みなさんは観ているものだと思い込んでいたのです。よく聞くと龍郷町の集落はいくつもあります。その集落が同じ時期に行事を行うため、他の地域の行事を観られない、というのはごく当然のことだったのです。
奄美大島は8割が山に覆われた起伏の大きい島です。今ではその山を貫くトンネルが掘られ、各集落間の移動が便利になっています。トンネルがない時代は隣の集落に行くためには、山を尾根伝いに上り下りしていました。だから「シマを出る」という言葉がありますが、これは一世代前までは奄美大島を出ることではなく、集落を出るという意味だったのです。
複雑な島の輪郭がつくる万葉の世界
奄美では、集落ごとに行事も多様なのですが、島の輪郭は複雑に入り組み、その地形の複雑さがつくり出す風景も様々です。入り組んだ海岸線の奥にある入り江に集落はあり、車で進むごとに新しい風景が現れます。この自然の移ろいは万葉の世界を思わせます。
奄美大島の宇検(うけん)村は島の南西部にあり、三方を山で囲まれた、入り江が深くさしこむ焼内(やきうち)湾沿いの村です。湾の中央には奄美大島の最高峰、湯湾岳(ゆわんだけ・694.4m)がそびえる湯湾集落があります。湯湾岳は奄美大島の創造神、シニレク、アマミコが降り立ったといわれる伝説を持つ霊山です。夕暮れどき、山々から霧が立ちこめ、湖面を思わせる湾は霞がかかりいっそう静けさが増してきます。夕闇までのほんの数十分。湯湾から宇検まで東シナ海へ向かう一本道は霞たつ万葉の世界に包まれます。
シマ(集落)ごとに、違う個性を持っている
宇検村の焼内湾沿いには14の集落があり、海岸線も複雑に入り組んでいます。このため一番西の宇検から向かいの集落、屋鈍(やどん)までは船なら20分、車だと1時間を超える距離にありますが、顔つきや体型、話し方が、随分違うと言います。屋鈍(やどん)はがっちりした体格で彫りが深く声が大きめ。宇検は華奢で彫りも深くなく穏やかな話し方といった具合です。屋鈍(やどん)は東シナの荒波が打ち寄せるので、小さい声では話が聞こえないから声が大きくなったのだろうと言います。宇検は目の前にある無人島の枝手久島が自然の防波堤となり海は湖のように穏やか。県民性という言葉がありますが、こんな近距離の場所でも、集落の自然環境が違えば、暮らす人の気風が異なることに驚かされました。
焼内湾に限りません。多くの集落が海、山、川に囲まれ、島人は季節に合わせ、自然を利用して暮らしています。2月から3月頃までは潮が引いた岩場でアオサが採れます。3月から5月頃はモズクの時期。奄美大島の北部の龍郷町では川のモズクが生息しています。山で猪狩りやキノコ採り。釣りや海に潜って魚や貝を採るのは一年中。畑がなくてもたいてい庭で家庭菜園をしています。龍郷町の秋名では浜をほんの数分散歩するだけで、葉を摘み、石を裏返しただけで貝を採ることが出来ました。
一つの島に塩をつくる工房や、製糖工場が何軒もあります。海水を採る場所、土や品種の違い、灰汁抜きの過程で各工房の個性が出てきます。同じ島の中で多様な味わいの塩や砂糖が作られています。島では本職ではないのに家を自分で建ててしまう男性が少なくありません。海に出て釣りや潜り貝を採る女性も多いです。どこの集落に行っても、自然は時に厳しいですが、生きるたくましさと優しさ、そんな方々に出会うことばかりです。
集落独自の文化を、シマ(集落)遺産として、島人が参加する集落ごとの聞き取り調査が行われています。文化の記録、保存、継承の気運が高まっているのを感じます。
重なる歴史、支配者のいない島
奄美には中央権力という考えや侵略や覇権の拡大という発想はありませんでした。奄美はシマ(集落)ごとに、海から浜、集落のある里、山へと垂直方向に自然を利用してきました。山には天上から神が降り、海の彼方の世界から来訪神を迎えます。宇宙を含めたとも言える循環する文化が形成されています。
奄美は海洋の民。縄文時代から島との間や本州鹿児島と海の交易を行ってきました。山の幸、海の幸が豊富なため、人々の生活の中心は狩猟採集。栽培は芋などを作る程度で農業が中心ではありませんでした。奈良・平安時代初期(8〜9世紀)はアマンユ(奄美世)と呼ばれ、家族や親戚等が共同で暮らしていた社会でした。邪馬台国のように集落の中心になる家の男子がまとめ役で、女子の一人が集団の祭祀を司り支えました。
その後、海を通じた交易が盛んになると、利益をあげた人が勢力を伸ばしますが、奄美大島全体の王になることはなかったのです。(アジユ=司世=の時代)集落は山に囲まれ孤立している。耕作地が少い。領土よりも海の交易を大事にした。大島全体を統一する必要がなかったのです。
しかし、海の彼方から来たものたちから侵略され影響を受ける時代に入っていきます。1440年前後から琉球王の支配を受けたナハンユ(那覇世)の時代、1609年に薩摩が琉球を侵攻し、薩摩藩の統治が始まったヤマトユ(大和世)の時代。
特に薩摩の圧政は聞くのも辛くなります。「黒糖地獄」は代表例かもしれません。薩摩藩はサトウキビの栽培と買い上げを奄美に強制しました。1830年代に入ると、取り立ては厳しさを増し、奄美から絞るだけ絞ったのです。
奄美の島々は江戸三百年もの間、薩摩藩にとって利権の島だったのです。薩摩藩が官軍と戦う費用はどこで調達したのか?なんて考えてしまいます。教科書には書いてないですが、明治維新を支えたのは奄美の砂糖だったとも言えます。
実は明治維新後の新政府に変わってからも島民をだまし、サトウキビを島民につくらせ専売権を独占し続けたのです。その取り立ても維新後の方が厳しかったためか、薩摩世の厳しい時代の話は、高齢の方々からの伝聞が多いです。
海の彼方から支配される歴史はまだ終わりません。奄美大島の南と加計呂麻島の間に大島海峡があります。太平洋戦争の際に、この浦々は海軍の活動を支える要港となりました。終戦直後の1946年1月、奄美は沖縄と共にアメリカの統治下に入ります。アメリカ世。島民が祖国復帰運動を行い、1953年の12月、沖縄より19年も早く本土復帰しました。この復帰60周年にあたる平成25年に、台湾を含む琉球弧の視点で、シンポジウムなどが開かれました。(メモ「琉球弧」「シシサミット」参照)今でも山の中から戦跡が発見されています。こうして何世代にも渡り、奄美は海の向こうから来た支配者の影響を受けてきました。しかし、いつの時代も島人は、ただ影響されるだけではなく、利用しながら自らの道を切り開いてきたのです。
神様が身近にあったシマの姿
奄美の集落も神様と共にありました。ノロと呼ばれる女性が神役となり集落の特別な祭祀を執り行ってきました。
山や海から神様を集落にお迎えし、節目に合わせた行事を行います。地域により違いがありますが、集落にはミャーと呼ばれる祭りの広場があり、トネヤ、アシャゲと呼ばれる建物で祭祀を行い、土俵では相撲が奉納されます。神様が通る特別な道があります。神道(カンミチ)と呼ばれ、山や浜から集落を通りミャーに通じます。
加計呂麻島の西側は、かつて神様と共にいたシマの面影を残す集落がいくつかあります。須子茂集落はその一つ。神道(カンミチ)は掃除をし整えられ、小学校は休校になった今でもシマの人がきれいにしています。ノロの行事も行われなくなりましたが、トネヤ、アシャゲは今でもあります。空席になっていますが、座る場所は守られています。かつて日本の各地でもそうであったように、神と共にあった人間の生活。風景だけでなく今でも島人の心に残っていることを感じます。
島を訪れるたび、人が持つ力に励まされます。ある女性は本州に渡った頃は島出身ということを隠せという雰囲気でした。なぜと疑問に思いながら彼女はやがてシマに戻りました。芭蕉紙づくりを始め、かつて芭蕉が身近にあった暮らしの姿を復活させています。集落を紹介する冊子やグッズをつくり、訪れる人たちに配っています。
奄美大島のすぐ南に位置する、加計呂麻島では、シマで唯一人、ナリ味噌(ソテツの実が入った味噌)を作り続けてきた古老から、作り方を教わりかつての味を復活させた若者もいます。ソテツの実を採るときは昔使っていた道具を使おうと、今では飾られることの方が多くなった道具が少しずつ生活の場に戻ってきています。こうした人に出会うだけでも嬉しく力をもらいます。
宇検でお世話になったおじいさんは米寿を迎えたばかり。昔の味を復活させたナリ味噌と古式製法を今に守る含蜜黒糖を渡すと、「真実を見つけましたね」とおっしゃった。はっとさせられました。古老は、いつも私たちが気づいていないことに光さす言葉をなげかけてくるのです。
(注1)東京から奄美大島までは羽田や成田から飛行機で2時間30分。アダンの葉が揺れる自然豊かな亜熱帯の島で、南方の伝統行事が数多く残る島。奄美群島は無人島を除くと8つの島からなりどの島も個性が豊か。8つの島は奄美大島、喜界島、加計呂麻島、与路島、請島、徳之島、沖永良部島、与論島
<メモ>シシサミット 奄美群島日本復帰60周年記念の平成25年、第四回、シシサミットが奄美大島で行われ、沖縄、奄美、本州、台湾からはパイ湾族の方々が集まりました。山で猪を狩ることを軸に自然を活用した文化を相互に理解する会です。琉球弧の視点で奄美を知るフィールドワークとシンポジウムが開かれました。(主催:猪(シシ)サミットin奄美実行委員会、共催:けんむん村、奄美哺乳類研究会)
フィールドワークでは奄美大島の自然林に入り、耕作跡の近くにつくられた、シシごもり(猪を捉える落とし穴)跡をみることが出来ました。台湾と奄美、国は違いますが琉球弧の島。台湾のパイ湾族の方は、山に入るなり一人で奥に分け入り、猪の狩りで使っているものと同じ木を担いで戻ってきました。台湾でも自分たち部族の暮らしを若者が体験する山ごもりツアーが行われています。
<メモ>琉球弧 琉球弧は鹿児島から台湾まで68島が有人島で188の島があります。地形と地質の形成過程から3つのグループに分けられ、奄美群島は生物相の境でもある渡瀬ラインを隔てる中琉球弧に位置します。奄美群島を含む琉球諸島は次のような生物多様性の面で国際的にも評価され、世界自然遺産の登録候補地にもなっています。
・森林や海に、絶滅しかねない希少種や、太古の姿を今に残す固有種が数多く生息する生態系を持つ地域。
・海、川、湖の沿岸域は珊瑚礁や亜熱帯性の海岸林が広がり多様な生き物の揺りかごになっている。
・ウミガメが産卵に訪れ、渡り鳥が中継地にするなど、空、海といった流れを広範囲に渡り移動して生きる生物の営みを守る上でも重要な地域。
参考・引用:
「奄美の歴史入門」(麓純雄著 2011年 南方新社)
「奄美群島の自然」 http://www.amami.or.jp/isan/jap/nature.html