老後万歳『老いの名演奏‐ニューオルリンズジャズに惹かれて』

M. Kimiwada

M. Kimiwada

君和田 正夫

  「下流老人」や「老後破産」という言葉が流行語のようになっています。「嫌老」なる言葉まであるようです。高齢化社会は高齢者にとって住みにくい社会になりつつあります。
 私も74歳になりました。仕事を辞めた後、みんなどうしているのだろうか、という思いで身近な人に聞いてみました。学校仲間、会社仲間…、そうしたらいる、いる、退職後、充実人生を送っている人たちがいるではありませんか。「どうせ恵まれた連中ばかりだろう」という声が聞こえてきそうです。そのとおりかもしれませんが、「恵まれた道」を切り開いたのは本人の努力であることに頭が下がります。
 「高齢者万歳」のインタビューを二カ月にわたり、掲載します。お二方とも私の知り合いで、子供のころからの趣味が原点です。まず高橋三雄さんのインタビューです。高橋さんは、私の中学・高校時代の同級生です。

 

M.Takahashi

M.Takahashi

「老いの名演奏――ニューオルリンズジャズに惹かれて」

 
高橋三雄さん
1942年生まれ(73歳)。1964年、上智大学卒業、厚木ナイロン入社。1999年途中退社。退社後、ニューオルリンズジャズのサックス、クラリネット奏者として、神奈川、東京を中心に活躍。昨年11月、初リーダーアルバム「Stars  fell on Alabama (アラバマに星落ちて)」をリリースした。
高橋三雄公式WEBサイト
 

――あなたは若いころからニューオルリンズジャズ奏者(サックス・クラリネット)として、関係者の間では高く評価されていたと聞いています。同時に、あなたはサラリーマンとしての人生もしっかり送りつつ、寸暇を惜しんで演奏活動に全力を投入した、しかも会社には全く迷惑をかけずに、というか秘密にして活動していた、という話も聞こえてきます。本当に秘密だったんですか。

 

会社に秘密の音楽人生

 

 高橋 入社してから50歳過ぎまで、30年間ほどは会社には知らせませんでした。「なにかやっているな」くらいは思っていたかもしれませんが、会社は知らなかったと思います。
――すぐ分かってしまいそうに思いますが、会社に伝えたきっかけはなんだったのですか。
高橋 分かってしまったのは、ある大手広告代理店の社員が会社に来て、来期のCM計画を打ち合わせた時のことです。大阪から転勤してきた広告会社のカメラマンが、私を見ていきなり「高橋さん、大阪のラスカルズでやってましたよね」と言い始めたのです。私はあわてて「いや、ほんのすこし。それより来期の話をしましょう」と話題を切り替えようとしたのですが、役員は「すこしやっていたというのは、なにをやっていたんだ」とか「ラスカルズって何だ」とか聞かれて万事休すです。やむを得ずニューオルリンズジャズをやっていることを話しました。それが50歳すぎの時ですね。

――そうは言っても、社員時代にニューオルリンズ市から名誉市民の称号を授与されましたね。授賞式に合わせて訪米して、各地を演奏して回った、とあなたの記録にあります。そうすると会社に内緒というわけにはいかなかったのでは、と思いますが。
高橋 名誉市民の称号を頂いたのは、確か1973年ごろでしょうか。30歳を少し過ぎたころです。授与式に合わせて2週間ほど米国各地を演奏旅行したのは事実です。でも、私がジャズをやっているなんて会社には一切言っておりませんでしたので自費で行きました。

 

「ナイロンストッキングの市場調査に」

 

――しかし、2週間休むと言ったら、言わないわけにいかないでしょう。会社が出張費を出してくれなかったのですか。
高橋 当時の社風は「趣味なんてやっている暇があったら仕事をしろ」でした。ですから秘密にせざるを得なかったのですが、米国行きについては、当時大流行していたナイロンストッキングの市場調査に行きたい、ナイロンストッキングの本場を見たい、と言って休みを取りました。もし会社が本気で市場調査の必要性を認めたら、専門の会社に頼めばいいわけですから会社が出張費を出してくれるはずもありませんでした。

――役員の前で暴露された「ニューオルリンズ・ラスカルズ」というのは、大阪の有名なバンドですね。
高橋 ええ、当時梅田に「ニューサントリーファイブ」という店があって、大阪に転勤していた2年間、毎週土曜日に演奏していました。20代半ばのころです。会社を辞めて大阪に住んでいる人が聴きに来てくれていましたが、もちろん会社には内緒にしてもらいました。当時「ラスカルズ」は東京で考えるよりはるかにすごいバンドで、国際的なネットワークを持っていました。現在、CDを30枚くらい出していると思います。今でも海外での評価が高いのです。

――大阪転勤は、ラスカルズ目当てに希望したものですか。
高橋 いや違います。私がいた「厚木ナイロン」は本社が神奈川の海老名にありました。大学を卒業後、本社に3年ほどいましたが、私は東京勤務が希望だと言ったところ、間もなく東京に転勤させてくれました。ところが東京へ行ったと思ったら、すぐ大阪勤務を命ぜられました。
 大阪に行ったら大学時代に一緒に演奏していた早稲田大学ニューオルリンズジャズバンドのOBがいて、「ラスカルズに入れ」と誘ってくれたのです。ここでは本当に勉強しました。

 

寮の空き室を探して練習

 

――そんな生活だと、いつ仕事をしていつ練習するのか分からなくなりませんか。
高橋 いいえ、仕事が忙しくて練習なんかしている暇がありませんでした。入社した海老名の本社は全寮制で、朝7時の始業でした。「明日打ち合わせをするぞ」というと、6時ごろには会社に行っていなければなりません。6時に行ったから、今日は早く帰れる、なんていう甘い会社ではありませんでした。
 そんななか、練習したのは、寮にある女子社員のための読書室とか教室みたいな部屋でした。仕事が終わると、誰もいない部屋を探して、毎晩のように一人で吹いていました。練習場所の確保はなかなか難しいものです。会社を辞めてから我が家を立て替えて防音の部屋を作りましたので、今は練習場がありますが、それまでは空いている公民館の部屋を借りたり、転々とする日々でした。練習場が見つからない時や仕事が忙しい時は、吹かずに指だけ楽器に触るようにしていました。

――では大阪へ行くまでは練習もままならなかったのですね。
高橋 大阪へ行っても変わりませんでした。本番の演奏だけが練習なんですね。海老名の時代もそうでした。横浜銀行のジャズバンドを指導していました。月2回、日曜日に浜銀の人たちと演奏したりするのが練習でした。大阪でも「ラスカルズ」での演奏が練習を兼ねていました。大阪では日本のトランぺッタ―の草分けである南里文雄さんやジャズ評論家の野口久光さんがよく聴きに来てくれました。野口さんは「高橋のアルトがいい」と褒めてくれました。何年かのち、野口さんの紫綬褒章を祝う会でお会いしたので、挨拶したのですが、全く私のことを覚えていなかった。ところがプレーヤーたちの演奏が繰り広げられ、私も一員として演奏したら「高橋君じゃないか、今、音を聴いて思い出したよ」と言ってくれました。嬉しかったですね。

――あなたを引き付けるニューオルリンズジャズとの出会いはいつでしたか。
高橋 子供のころから音楽、特に洋楽が好きでした。生まれ育った横須賀という土地柄でジャズに親しんできましたので、将来は絶対にジャズ演奏者になろうと思っていました。中学に入ったらブラスバンド部ができるというので、早速入部を申し出ました。大学では当時ニューオルリンズジャズをやっていたのは早稲田しかありませんでしたので、早稲田の連中と組んで演奏していました。

――「厚木ナイロン」では何をしていたのですか。就職先に選んだのも、ブラスバンド部があるから、といった理由ですか。
高橋 まったく違います。ブラスバンド部なんてあるはずもありませんでした。卒業当時、厚木ナイロンは売上、利益が急上昇していた優良会社だったので就職先に選びました。入社して最初の仕事は資材の購入などをする購買部でした。

 

部長の時代に退職

 

――みんなにうらやましがられたのではないですか。購買部と言えばメーカーにとって要の職場ですから。
高橋 皆にそう言われました。でも大阪に転勤してからは営業でした。東京へ戻ってからは販売などいろいろやって、辞める時はマーケティング部長でした。テレビや雑誌などへのCMをどうするか、とか市場調査とかが仕事でしたが、パッケージデザインの制作では、デザインを知らないと、デザイナーをうまく使えないので、個人的にデザインスクールに通って勉強しました。

――優秀な社員だったじゃないですか。それなのに1999年に退職していますが、定年前ですよね。どうして辞めたのですか。マーケティング部長もいいポストと思います。もう少し頑張っていたら役員になっていたのではありませんか。
高橋 マーケティング部長になったとき、副社長に呼ばれて注意事項を言われました。「昔、菓子折を貰った部長がいた。菓子の下には札束が入っていたんだ。彼はそれで首になった。君だったらそういうことはないだろう、ということで、部長にした」という話でしたから、少しは評価されていたのかもしれません。

――辞めるにあたって生活の不安はなかったのですか。退職金と年金が頼り、ということになりますよね。
高橋 不安はありましたが、幸い若い時に家を買ったので、住宅ローンが終わっていました。贅沢さえしなければ何とか食べていける、と思いました。私を見ていた家内や娘も早く辞めたほうがいい、と賛成してくれました。結婚してからもウィークデーは仕事、休みの日は演奏会という生活だったので、子供の運動会に行ったことがない。それなのに辞めることを支援してくれたのは、私の音楽好きを理解していてくれたのだと思います。有難いと思いました。ちょうど会社で早期退職制度が導入されたので申し込みました。私が申し込みの第一号ということでした。
 演奏会というのはあまり収入にならないので、しばらく不安定な生活でしたが、落ち着いてきたのは退職して7年くらいたった2006年ごろからでしょうか、サックスやクラリネットを教える教室を開設しました。特別宣伝もしませんでしたが、ネットや口コミで生徒が徐々に増えてきました。

M.Takahashi [Stars  fell on Alabama ]

M.Takahashi [Stars  fell on Alabama ]

 

選曲に生きるサラリーマンの経験

 

――退職前と退職後で音楽が変わりましたか。
高橋 一皮むけた、と自分で思っています。まず練習量が圧倒的に増えた。レパートリーも増えました。お客様を大事にするということでは、他のプレーヤーより自分の方が上だという自信もある。
 プロの奏者の中には客が題名も分からないような曲を演奏し、「分からない方が悪い」みたいな人もいるけれど、やはりお客さんあっての私たちです。あるときお客さんにアンケートに答えてもらったら、一番人気は映画音楽でした。ところが「映画音楽なんて」という奏者も結構多いのです。私は「シャレード」なら「シャレード」をジャズ風に演奏してみせる、そしてその間に自分の好みの曲を入れていく、という兼ね合いを大事したいと思うのです。こう考えるのはサラリーマン時代にマーケティングを担当したおかげなのでしょう。

 

会社と異なるコミュニティー参加を

M.Takahashi

M.Takahashi

――現役のサラリーマン、あるいは退職した人たちに、自分の体験から伝えたいことはありますか。
高橋 まず趣味を持っている人はそれを大事にすることです。老後のどこかで趣味が顔を出します。そしてついで大事なことは、退職後は会社とは異なる「コミュニティー」が生まれる、その「コミュニティー」に参加することです。私が教えている人たちは中高年の人、とくに女性が多いのですが、そこには生徒同士、生徒と私という人付き合いが生まれました。今まで付き合ったことがない人たちとの付き合いを広げることが大切です。それと、現役を退いてからやることを探すのではなく、現役時代からある程度やりたいことを定めて「助走期間」を持つことが大切です。
 もう一つは、年をとると他人の話を聞かなくなる傾向があります。二人で話してもお互い自分の言いたいことだけ話して、相手の言っていることを聞かない。この点は会社を離れてから自戒していることですし、第三者として老人同士の会話を聴いて痛感するところです。