『メディア一本締め』

H.Sekiguchi

H.Sekiguchi

関口 宏

「お手を拝借、よーっ、ポン!」・・・の季節になってしまいました。子供のころは、それ冬休み、ほらクリスマス、そしてお正月、お年玉と楽しみ満載のこの時期も、歳をとるほどに寂しさが増すのは、それこそ歳のせいなのでしょうか。

 そこで老爺心ながら、この一年の我が業界を振り返れば、私個人としては、「やっぱり」「もういい」「パイ生地」ということになりました。

 で、先ずは「やっぱり」。

 これはこのコラム欄、2014年2月号「BSと里山」(カテゴリーに残っています)に書かせてもらった話しなのですが、悪い予感が当たってしまいました。
いずれBSも、地上波と同じ道をたどるのではないかとの危惧が、今年の春からBSに導入された機械による視聴率調査によって、現実のものとなってしまったのです。

 数字が出れば数字優先。つまり地上波の「視聴率至上主義」が、これまでの、のんびり・ゆったり・じっくり、といったBSの特性を壊し始めてしまいました。

 早いところではもうすでに、定時始まりの原則を破り、他局よりも1分でも2分でも早くスタートさせて、視聴者を取り込もうとする作戦がとられていますし、数字のせいで終わってしまう番組も出始めています。

 お次は「もういい」。

 「NETFLIX」「TVer」・・・・・何の事だか分かりもしませんし、また分かろうともしない私が悪いと言われそうですが、新メディアが今年も続々登場。私の中では「もういい!」と悲鳴を上げています。

 出来る事はやってしまう、これが人間ではありますが、人口は減る一方なのにメディアは増え続ける。これって、どこか矛盾しているように思ってしまうのは私だけでしょうか。

 

メディア一本締め

メディア一本締め

 

 そこで「パイ生地」の登場ということになるのです。

 メディアが増え続けるということは、業界が広く広くなることで、人口が減っているなら、それは薄く薄くにつながり、パイの生地ならどこか破けてしまうのでしょう。

 そして何よりも、多くの人が共有すべき「マスコミ」の存在が薄れてしまわないかという心配が一番なのです。

 メディアが広がり続ける事によって、「マスコミ」は「ミニコミ化」し、さらには細分化されて、そのひとつの極く少数の意見が、さも世間を代表する意見のように受けとられてしまう事が起こらなければいいが、と老爺心が働いてしまいます。

 こうした現象のもと、テレビ離れが更に進んでしまうことは、テレビ屋の一人としては寂しいかぎりですが、それが「今」という時代であるならば、受け入れざるを得ないのでしょう。

 そしてこれも今年の2月号「緊急コラム」に書かせてもらったのですが、メディアの肝ともいうべき「速報性」において、テレビはネットに適わない実感を見せつけられた一年でもありました。

 それは早くから言われていたことではあったのですが、少なくとも私にとっては、この一年が決定的になりました。

 

メディア一本締め

メディア一本締め

 

 IS(イスラム国)による犯行に際し、テレビはネットの後追いを強いられました。その信憑性はともかく、ある意味、何でもかんでも流れてしまうネット。

 一方、「裏とり」をして信憑性を求められるテレビ。「速報性」においては勝負あった、なのです。

 ジャーナリスト・後藤健二さんの時も、11月のパリ・同時多発テロの時もそうであったように、これからもネット先行、テレビ後追いは変わらぬパターンになりました。

 これもいちテレビ屋としては、多少の悔しさはあるものの、それならそれで、お互いの特性を生かし、「補い合う関係」になれればいいのではと思えるようになったのも、今年の私でした。

 では、テレビの特性とはなんぞや。

 それは、しっかりした情報と映像は勿論のこと、そこに、疑似・生・ハプニングの要素を適宜、生かして行くということになると思われます。

 さぁー、来年も頑張りましょう、テレビ屋諸君!
 よーっ、ポン!・・・・・・良いお年を!

テレビ屋  関口 宏