君和田 正夫
私の社説に対する考えは、時代の移り変わりや自身の年齢の積み重ねにつれて揺れ動いています。ある時は「社説は新聞のへそ」と思ったり、ある時は「社説なんていらない」と思ったりしたこともあります。しかし、小泉内閣が任期を全うして、第一次安倍内閣にバトンタッチして以降、日替わりのように変わる首相を見ていると、「誰がこの国の進路を考えているのだろう」と強く思うようになりました。有権者一人一人が考えなければいけないことですが、メディアも当然、大きな役割を負っている、その中でもとりわけ社説だろうか、と思い至ります。
同時に、「国の進路を社説に任せられるか」という大いなる疑問も生じます。社説に対するこの矛盾した気分は、どこから生まれるか、自問自答すると、それは歴史の節々で主張を展開してきた社説の功罪と「世相を反映する」という新聞自身の本能ともいうべき役割にたどり着きます。
まず歴史の方ですが、日本の近代化に社説(新聞)の果たした役割は、大きなものがあった、と言っていいでしょう。普通選挙(昭和3年)実現に向けた取り組み、さまざまな言論統制との戦いなどです。大正から昭和にかけて、国民世論を反映する形で、報道各社による「共同声明」「共同宣言」が何回か出されました。社説のさらに大掛かりなものと考えていいでしょう。当時は国民が一つの目標に向かって進める時代だったのでしょう。
逆の例としてよく挙げられるのは、歴史の転換点になった国際聯盟脱退を巡る動きです。「満州国を承認しない」というリットン報告書の受け入れに反対する意見を、新聞・通信132社が共同宣言の形で発表しました。昭和8年の事です。朝日新聞は聯盟脱退には反対の論陣を張ったものの、共同宣言を出した流れは変わりませんでした。『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(半藤一利・保阪正康著、東洋経済)で知ったことですが、当時、東京日日新聞(現・毎日新聞)は「聯盟を脱退したら日本はどうなる?」という小冊子を出版しました。早速探してみると、冊子は脱退した場合の経済封鎖について次のように言います。
「経済封鎖をすれば、困るのはやられた国ばかりでなくて、やる国も困る」
したがって「経済封鎖恐るゝに足らず」
また「日本は孤立するか」という見出しの項目では
「聯盟国は五十七ケ国あるが、米、露等の大国が現に非聯盟国であることを思へば、この疑問は自ずから解消しやう」
社説の果たした役割を振り返ると、いい意味でも悪い意味でも世相から逃れることの難しさです。これが「世相を映すことを本能とする新聞(メディア)」が抱えた罠とでも言ったらいいのでしょうか。論説委員であれば誰でも「後世の検証に耐えられる社説を書こう」と思うのは当然ですし、読者としてはぜひそうあって欲しいと思うのですが、世相、世論との距離感が最大の課題になるように思います。国民の声を代弁することの意義と危険が併存しているからです。「社説」というタイトル自身に問題があるかもしれません。
お断りしておきますが、私は論説委員の経験がありません。肩書きだけなら名古屋の経済部長をした時に論説委員を兼務しましたが、論説は一本も書いたことがなく、会議に出席したこともありません。
最初に戻って、それでもこの国の在り様を論じ続けることは必要だと、とくに最近は思うようになりました。しかし、そのためには、この原稿の「上」で書きましたが、一日2本の社説は不要でしょう。年間700本前後を量産している勘定になりますが、これでは日々のニュースを追う一般記事と大差がなくなる恐れがあります。日々の出来事に追われずに一週間に一回、しかも一本か二本でいい、一週間を振り返る、あるいは一カ月を振り返る、そのくらいの、ゆったりしたペースと、また世論との距離感を保つことが、日本の在り様、進路を示すために必要ではないでしょうか。もちろん大きな出来事があれば、随時、掲載しなければいけないことは申し上げるまでもありません。
社説を魅力的なものにするために、ある問題について参考になる資料、書籍、歴史的出来事などを列記して欲しい、と思います。これは細かい注文のように感じる人が多いと思いますが、原発、TPP,消費税、財政再建、日米・日中・日韓、震災など難しいテーマが増えているだけに、賛成・反対の立場に関係なく、さまざまなデータを示してもらうことは、自分で考えようとする読者や考えるとっかかりを探している読者にとって大変貴重なデータになるはずです。もちろんグラフや表も使って欲しい。そうすることによって、論説と読者の距離は確実に近づくはずです。
資料を示すことは、筆者の個人的輪郭を読者に示すことにもつながります。さらに進むと、それは論説、一般記事を問わず、署名問題につながる要素も持っています。署名については別の機会に書きたいと思っていますが、最近は新聞記事に署名入りが増えていて、私は大歓迎しています。とりわけ最近、その思いを強くするのは、ソーシャルネットワークの世界が、匿名の文化を形成し始めた、と感じてならないからです。かつて匿名・実名論争がありました。私が覚えているのは作家と評論家の間の論争で、評論家が匿名または記号名で評論することについてだったと思います。今はだれでも匿名で議論に参加できる時代になりました。
こんな時こそ、署名の力、実名の魅力を多くの人に感じて欲しいのです。署名入り原稿の持つ迫力は匿名ではあり得ません。言論史をめくると、必ずと言っていいほど出てくる名前があります。桐生悠々、清沢洌、正木ひろし、石橋湛山などです。まさに固有名詞のもつ力が歴史を飾っているのです。
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