君和田 正夫
福井県・池田町は人口3000人ほどの町です。平成9年に39歳の若さで町長に就任した杉本博文氏は、平成15年に市町村合併には加わらない、という決断をしました。以来、独自の路線を歩み続け、次々に新しい試みに挑戦しています。その町にも厳しい現実が押し寄せています。896もの市町村が消えかねないというレポート『地方消滅』(増田寛也編・著=中公新書)が公表されました。池田町も消滅市町村に含まれています。「独立メディア塾」は昨年「土からのごほうび」という、池田町を取り上げたドキュメンタリー番組(福井放送制作)を紹介しました。今どきこれほど自立している自治体があるのか、と強く印象付けられました。杉本町長にこれまでの路線と今後の課題などを伺いました。
<杉本 博文>(すぎもと ひろぶみ)
1957年、池田町生まれ。県立武生高校、鯉淵学園農業栄養専門学校卒業後、福井県池田町農協に就職。86年退職後、農業請負会社を設立。91年町議会議員に当選。97年、町長に当選。福井県町村会会長
――市町村合併と言えば、明治の大合併、昭和の大合併、そして平成の大合併と大きな合併が行われてきました。総務省のホームページによりますと、明治21年に7万1314あった町村が明治22年には1万5859市町村に減りました。その後、昭和、平成の大合併の結果、平成26年の市町村は1713にまで減りました。明治21年と比べて40分の1です。そうした大きな流れに逆らうように、合併をしなかった理由をお聞かせください。
「戦わずして亡びるを待ちはしない」
杉本 今の合併は行政の効率化を目指したものでしょう。効率化を目指すなら、東京への人口集中を何とかしなければ、とか言わないで、みんな東京に集めてしまえばいいんですよ。これが一番効率的ですよ。
私は合併を拒否したわけではなくて、この町は私だけの町ではないんだ、町民みんなの町なんだ、だから皆さんの意見を聞いて最終判断をしたい、と考えていました。
5か所位ですかね、町民の皆さんへ財政や行政の見通しを報告する会を開きました。ある会場では、会社の役員をされている人が「町長は座して死を待つつもりですか」と質問された。私はこれにうまく答えられなかった。またある会場では若い世代がいて「町長の思いってないんですか。思いがあるなら、町長なんだから言えばいいじゃないですか」と言われました。
その時、映画の「インディペンデンス・デイ」を思い出しました。映画の中でアメリカ大統領のセリフがあります。「戦わずして亡びるを待ちはしない」。私はこの言葉が好きなんですよ、それで「もし許していただけるなら、闘わせていただきたい」と申し上げました。そしたら若い人たちは「いいんじゃない」と言ってくれました。
あるお年寄りが「合併しないと何もできなくなってしまうのか」と質問しました。「そんなことないでしょう」と言って、こう答えました。「今年、道路の舗装が100メートルできたとして、合併しなかったら100メートル舗装するのに3,4年かかってしまうかもしれませんね」。
町の議員もそわそわしていたけれど、「それで行こう」ということになった。
――それは二期目に入ってすぐのことでしたよね。
杉本 私が町長になったのが平成9年でした。13年に合併構想が出て、15年に「ノー」を決めた、ということですね。
――合併を断って、補助金とかで嫌がらせを受けた、というような不利益はありましたか。
杉本 強く感じたことはありません。ある機会に県選出の国会議員にお会いした時、合併しない方針で行きたい、と伝えた時、「町長、殺しはせんわい」と言ってくれたんですね。それを町議会に伝えたら「よし、行こう、行こう」となったんですね。
嫌がらせといえば、よっぽどメディアの方が嫌がらせをしてくれましたね。あるテレビ局は、合併しないという決定に対して「町長は成りたてだから、立場を守るために合併しないのか」という質問をしました。私の保身で合併しない、ということですよね。本当に腹が立ちました。偉そうに言わせてもらいますが、取材しない、勉強しない、という記者が多い。予算書を精査せずにどれが大事なのか、と聞いて来たりする。予算書をきちっと読みもしないし、継続した取材もしない。金額の大小だけでなく、この部分はどうなんだ、と施策のねらいを聞いてほしい。
県庁も嫌がらせをしましたね。県庁の役人が来て「池田町みたいな町は合併しなかったらやっていけない」と言ったんですね。「池田町みたいな」とは何事だ、と怒りました。貧乏な町かもしれないが、侮辱されている姿を町民が見たら何と言うか。私はすぐ「帰れ!」と怒鳴りました。
まず議員定数を減らし、半減を目指す
――合併はしないぞ、ということになりました。予算編成、行政などに大きな変化があったのでしょうか。
杉本 まず議会が定数を減らしました。町が経費削減体制に入ったので、議会も何か考えなければいけない、ということで、当初、議員報酬を減らすか、という案が出てきたのですが、報酬削減では大きな効果は出ない、思い切って定数を減らそう、ということになりました。2期連続で2人ずつ減らしました。12人だった定数が10人になり、現在は8人です。
8人の中に共産党の議員が一人当選しました。この先生が立候補しなかったら1人欠員でした。いい意味で刺激を受けています。議会もすごく締まりました。
ただ町が頑張れば頑張るほど、住民自治から遠ざかる、もっと一体となってやらないといけません。
――大きな流れが合併に向かっている時に、取り残されるという不安は無かったのですか。
杉本 当時福井県には4つの村がありました。二つは早々と合併を決め、あと二つは「お互い頑張ろうな」と話していた。ところがそこにさらなる合併を推進するための「片山プラン」(片山虎之助総務大臣が平成15年に発表)が出てきたことや、人口一万人以下の町村は自治体としての基礎的な能力を欠いているから合併させよ、といった考えが出て来て、「頑張ろう」と言っていた二つの村も合併に動いてしまいました。
ところが今になって合併しなければよかった、という声が聞こえるようになってきました。こんな例があります。合併した二つの地区の除雪基準が異なるのです。片方は道路幅が2メートル50センチあれば除雪してくれたのに、片方は3メートルが基準なので、結果として2メートル50センチの道路は除雪の対象にならなくなった。困った地元住民はお金を出し合って自分たちで除雪している。雪国ですから、この違いは大きいですね。本当は弱いところに合わせるのが行政というものなんですがね。
――合併によって医療などの施設が遠くなった、という不満が出ている、と聞きます。
杉本 水道料金一つとっても変わるし、町だった時は無かった都市計画税などの対象になる。合併したある村の元議会関係者が言ってましたよ。合併前に20数億円の予算があったのが、「今いくらだと思う」と聞くから「2,3億円か」と答えたら、何と「1500万円しか来ないんだよ」と嘆いていました。道路をちょこちょこと直す程度、そんなものなんです。合併後は市長にも会えない、部長クラスに会えたら上の方でしょうね。「こんなはずじゃなかった」と嘆いていますよ。そういう愚痴が出れば出るほど、うちの町民はほくそ笑むんです。「合併しなくてよかったな」って。
「地方消滅」の危機に「集落自治」で対抗
――町長5期、18年目に入っています。今、『地方消滅』というレポートが話題になっていますが、まとめたのは岩手県知事や総務大臣を経験した増田寛也氏です。放っておけば896の市町村が消える、という衝撃のレポートですが、その中に池田町も含まれています。杉本さんはこれからどんな取り組みをしていく考えですか。
杉本 政府は地方創生だ、という。増田さんはレポートを出す、国土交通省はコンパクトシティーとネットワークだと言い、農水省は小さな拠点を核としたふるさと集落生活圏だと言い、総務省は定住自立圏だと言い、そして道州制も消えてはいない。正直言ってこれにあらがえるか、抵抗できるか、と言ったら自信はありません。行政の効率化というわけです。要するに役場をなくせ、ということなんです。
ただ大事なことは住民の「魂(たましい)」までは取られない、ということなんです。だから町民には集落自治、地域自治をもっと考えてくれ、と言っています。役場なんて無くなってもいいんです。町長なんていなくてもいい。保健・医療といった行政サービスまで無くなるわけではないんだから。早く地域自治、集落自治を育てて、集落で福祉をやる、集落で子育てをする、集落で農業の6次産業化を進める。すぐにはできないかもしれないけれど、できるだけ早く自立できるようにしなさい、そういう取り組みには必ず若い人が来る、と言ってるんですね。年寄りがねじり鉢巻きで野良仕事して「俺はこの村が好きだ、出ていかねぇ」と言って頑張ったら、必ず助けが来るんです。そうなれば役所も町長もいらない。理想かもしれないけれど。
そのためには、農村の民主化も必要なんです。年寄りが決めて、若い人や女子供は言うことを聞け、というのはダメ。女の人はどう思うんだ、子供はどうなっているのか、そう言うことが聞ける親父連中になってください、そうなれば池田町は無くなっても、周囲から声をかけてもらえる地域になるのではないか、と。それをしましょう、と言っています。
――集落の自治ということで、今具体的にはどんなことをしているのですか。
杉本 9集落で1地区というところがあるのです。そこは小学校が廃校になりました。ここに地域自治振興会ができました。また、池田町にある33集落のうち21が集落農業、つまり隣近所が集まって農業をする仕組みを作っています。その21のうち11が既に法人化しています。ただ、今は生産だけを請け負っているんですね。補助金もあるからまずまず順調です。積立金もあります。これを生産現場から生活現場まで広げてください、と言っています。
自助・共助…近助
――生活現場まで広げるとは?
杉本 まず民主的なルールを作りましょう、ということです。これまでみたいに、声の大きい人や年寄りだけが出て来て、お祭りのときだけ青年団出て来い、というのではダメですよ、みんなが分かるルールを作れば、新たに転居してきた人、あるいはUターン組も参画しやすくなる、と言ってます。そこでは地域の問題点は何か、強みは何か、理想とする町はどんな町か、そんな町が国内にあるか探して、あったら見物に行ってこよう、という仕組みです。若者を入れなさい、というのがポイントですね。これを本気でやったら、池田町交付金を入れてあげると言ってるんですが(笑)
もう一つ仕掛けています。自助、共助、公助、近助そして相互扶助という仕組みです。池田町は平成16年の福井豪雨で激甚災害の指定された経験があります。町民はみんな頭の中に記憶が残っている。この時近所が助け合った。ご近助防災力向上計画みたいなものができた。これを使おう、と思いました。各集落の谷川に水位を測る物差しを設置しました。大きい川にはもともとあるんですが、生活に身近な川で自分たちも水位を測る、そのデータを全体で共有するんです。
普通ですと、すぐ役所の気象情報ということになるのだけれど、身近な川がいま何センチかということをデータベース化しているわけです。
――集落の規模はどのくらいの人数ですか。
杉本 これはばらばらですね。50軒もあれば100軒もある。20軒、10軒というところもありますよ。小さいところは農作業は連合でやってますね。機械化していますから、機械は若い人が担当し、水周りのような仕事は、几帳面なお年寄りがやる、といった感じですね。若い人は土日が欲しいし。まぁ共同体ですね。
子供の声が聞こえる、という素晴らしさ
――町長になられた時、大分県の「一村一品」ではなくて「百匠一品」(注1)を始められました。100人の一品を集めて特産品にしようということでした。少し曲がったキュウリでもいいから、出しなさい、自給自足ではなくて、外に売りましょう、という方針が成功しているように見えますが、これからの課題は何でしょう。
杉本 偉そうに聞こえてしまいますが、うちは政府が言う前から「住み家、仕事、仲間」を作ろう、と言っているんです。必ず若い力が必要になってくる。一人ポツンとしているのでは何のために田舎で暮らすのか分からなくなってしまう。必要としてくれる隣や仲間がいないと田舎に暮らせない。まだ数は少ないですが、広島から来て池田の嫁さんを貰い、家を建て、目下改装中、という人もいますよ。持続するためには若い人が必要ですね。子供の声が聞こえる、って素晴らしいことですよ。ワーワーキャーキャーという声は年寄りの張り合いにもなりますし。
今、東京の都立芝商業高校と交流しています。下調べに5人の生徒が町に来ました。面白いのは暗闇に向かって写真を撮っているんですね、なにしているの、と聞いたら「暗闇を撮っている」。暗闇と言っても街燈くらいはついているんですよ。撮ってどうするのと聞くと、「帰ったらみんなに見せる」と言うんですね。なんとなくわかった気持ちにはなりましたが、不思議ですね。
校長先生にもお会いしました。失礼ながら「東北とか北関東、長野なんかの方が手ごろではないですか」と聞いてみました。校長先生曰く「全部調べました。しかし、生徒が池田に行って良かった、と言うんですよ」。
9月に50人の生徒が来る予定です。今、小学校の改造計画を進めているのですが、そこに泊ってもらうため、急ピッチで進めています。地域でも協力したいということで「白いかっぽう着」というおばさん達が13人集まって、飯炊きを担当してくれることになりました。
今、「農村で合宿しよう」というテーマで、事業化を考えています。芝商業高校の生徒も改造中の学校に泊まってもらう。スポーツで合宿、学びで合宿、町おこしで合宿。「農村がキャンパス、風土が教科書」がキャッチフレーズです。改造を担当している設計事務所の若い人が、自分たちも使ってもいいか、と言うので「みんな仲間にしてしまえ」と言っています。分からないことを応援してもらったり、ダメなものはダメと言ってもらったり、時に助けてもらったり、別にここに泊りこんだり生活してくれなくても、お助けに行ってやるとか、そこに交流、交歓が生まれて、にぎわいが生まれる。そうしろ、と言っています。
――先ほど話した「百匠一品」の他にも「土塊壌」(注2)とか「白いかっぽう着」とかキャッチフレーズの付け方に工夫されていると思いました。
杉本 いやぁ、そんなこともないと思います。「土魂壌」は職員のアイディアですよ。最初詰まんない案を持ってきたので「土に力」で「土力(どりょく)」はどうだ、と私が言ったら「3日考えさせてくれ」といって持ってきたんですよ。今のところ池田町の最高傑作ですね。
増田さん、田舎にはこんな豊かさがある、と言ってくれ
――地域発でいろいろな試みをされていますが、東京発の「地方創生」をどう考えられますか。
杉本 Uターンがどうだとか、数値目標がどうだとか言いますが、そんなことはいくらでも言える。結果は後から来るものです。増田さんを始め多くの人がいろいろ言うけれど、結局、恐怖を煽ったんですね。増田さんは現実をとらまえて強烈に示されました。私はそれを否定するつもりはありません。ただ、残念なことは、これだけ現状の厳しさを言っておいて「さぁ地方頑張れ」というだけ。「田舎暮らしの面白さはこんなところにある」とか「地方にはこんないいところがある」とか言うようなことを、どうして付け加えてくれないんですか、と思います。ただ厳しい、辛い、人口減少だ、潰れる、だからああせい、こうせいという。俺たちは何もしてこなかったのか、と聞きたい。都会ではマンション建設だ、都市再開発だ、便利さ追求だと言いながら、「地方、頑張れ」という。卑怯だと思いませんか。スタートラインから残念です。本当に地方のことが分かっているんですか。
人口減少にしても、20代、30代の女性が少ないのは地方行政の責任だ、みたいなことになると、ちょっと待てよ、と思うんですね。みんなの責任じゃないか、と。東京の生活を否定する気はありません。便利で刺激的な東京を言うのもいい。だけど同時に、田舎は不便だけどこんな豊かさがあるよ、ということを言ってくれないと困る。暮らし方や人生の価値観は選べる時代になったのだから。農村には都市の機能が必要だし、都市にとっては農村の価値や役割が必ず必要なはずです。今こそ都市と農村が共生する社会を提案しなければなりません。
「人口ダム論」のこわさ
――政府の方針は地方に中核都市を作って、そこで人口の流出を食い止めようということですが、止めることができるとお考えですか。
杉本 いわゆる人口ダム論ですよね。上流はどうでもいいから、ダムで止めて待機させる、都会へは行かせない、という考え方は心配です。人々がどこで豊かに暮らすか、はその人に任せればいい。ところが病院一つとっても、病院の近くに人を住まわせば、行政コストが下がる。つまり財政赤字の付けが人々の人生にまで影響を与えているわけです。国の財政健全化のためですね。
――町長としていま取り組む最優先は何ですか。
杉本 その気にさせること、ですね。前に出た集落自治ですよ。地域づくり街づくり、村興しなんていうのは、行政がやるものではありません。住民が実践し、自覚を持つことが大事なんです。
実は20代のころ、私は池田町が嫌だった。町を歩くでしょ、そうすると、両親の名前だとか、みんな知っている。まるでバーコードをぶら下げて歩いているみたいなもんですよ。ところが最近の若い人は違う。「この子はあの家の子だね」なんて言われると嬉しくなるっていうんですね。
私が農協の青年部にいたころ「体験 ザ 百姓」という企画をやりました。その時大阪から毎春、子供さんを連れてきたお母さんがこんな話をしてくれたんですね。「子供に人を信用してはいけない、と教えてきたのですが、この町に来るようになって、信頼できる人もいる、と教えるようになりました」。嬉しかったですね。町に来た人に子供たちが挨拶してくれるのがいいと言ってくれる人もいます。
町民が無報酬でゴミ収集
――私の町内ではアパートの住人が町内会に入らなくなっています。各地で同じ問題が起きているようですが、住人が結束するって相当難しい。
杉本 よく聞かれることですが、生ゴミの収集は町民が無報酬でやっていますが、どういうやり方をしたんですか、と。いやぁ、お願いします、助けてください、手伝ってください、そう言って頭を下げただけですよ、と答えるのです。しかも頭を下げたのは私ではなく職員です。上から目線で、こう決まったからよろしく、なんていうやり方ではないんですね。町民と役場の距離感の問題ですね。
私は若いころ営農指導をしていました。町のお年寄りが農作業の合間に一服していて、私を見ると「あの稲の葉っぱ、ちょっと変なんだけど見てくれ」と言うんですよ。そのお年寄りは私なんかに聞かなくても、自分でちゃーんと分かっているんですよ。分かった上で、私に聞いてみる。若い時に町長になったから心配なんでしょうね。私を試しているような気がします。
――長く町長を務められて、最初のころと今とで変わった事、変わらないことは何でしょう。
杉本 私39歳で町長になったでしょう、役場に行くと課長候補以上の職員は全員年上だったですね。プレッシャーがかかりました。県庁へ行けば池田町の若造が来たぞ、という目で見られる、そこで負けちゃあいけない、笑われるということは、池田の町民が笑われるということだ、そんな風に考えると、ますますプレッシャーが強くなるんですね。そんな中で町長を続けていくうちに、だんだんお愛想をしてくれる人も出てくる。今度はそれが奢りになったりして来るんですね。だから後輩たちにも聞くようにしています。演説の後は後輩に「どうだった?」と聞いたりしています。そうしないと「いつから偉くなったんだ」ということになります。
私が若いころから好きだったのが上杉鷹山の「興譲」です。「自らの道を真摯に務め、これでいいかと譲る」という意味です。
「あたりまえが ふつうにあるまち」
――池田はブータンと比較されているようです。豊かさとか幸せとか連想させるものが共通しているのでしょうか。「あたりまえがふつうにあるまち 池田町」のキャッチフレーズも思い浮かべます。
杉本 うちとブータンは全然違う。ただ指標としての幸福度が高いといところが似ているということでしょう。新聞に「日本のブータン」と書かれた後、知事がブータンに行くのでついて来い、と言われて同行しました。帰国してしばらくしたら、ブータンの経済大臣がお見えになったので、町を案内しました。大都会や大企業の視察のようなことはできないので、信用金庫をやめた二人の女性が始めた餅屋とか、若手農家が始めたパン工房とかそんな所ばかり案内しました。「会社を作ったり、誘致したりして雇用を増やすということをなぜ考えないのか」と質問されました。私は「そんなことはしない。小さくていい。小さいビジネスを足す、つなげる、そうすることで町のビジネスになる」と答えました。私は直接聞いたわけではないのですが、彼らが日本滞在で参考になったのは大企業でも大都市でもなく、池田町だった、と答えたそうです。
「あたりまえ」のキャッチフレーズは私が考えたんですよ。「町勢要覧」を作るにあたって、表紙にいい言葉が欲しいな、と思ったのです。人と人の関係はそれぞれ違うのが当たり前ですよね。格好つけなくていい町、とでも言うんでしょうか。
町長になって「幸せとは何か」「豊かさとは何か」ということをよく考えるようになりました。家庭から「生産」が消えてしまった。前はあったんですね。じいちゃんが大根を運んでくる、ばあちゃんが洗って、母ちゃんが料理する。それが今は「チーン」で終わり。経済発展を否定する気はありませんが、豊かさって何なんだろうと考えます。
(2015年7月23日、東京で)
<注1> 池田町の農業はコメ中心。農家はコメ以外の農産物を販売した経験がほとんどなかった。自家用の野菜は、無農薬に近い栽培で多品目が生産されている。そこで、一品ずつの生産量は少なくても「もう一株」「もう一畦」多く作ることで、販売分を確保、平成17年に福井市のショッピングセンター内に池田町ショップ「こっぽい屋」(方言で幸せ、ありがたいの意味)を開き、170人を超える人たちが出荷した。12坪の店舗で売り上げは、町村週報によると、年間1億4千万円。
<注2> 安全な作物栽培と肥えた土を目標に、堆肥利用に熱心だった池田町では、生ごみを堆肥化するために「食Uターン事業」を始めた。生ごみを堆肥センターで牛糞と混ぜ合わせて完熟堆肥を製造する仕組み。生ごみは週3回、町民がボランティアで担当する。出来上がった堆肥が「土魂壌」。堆肥、液肥、園芸用培土として販売している
<編集後記>杉本町長のインタビューを終えて
君和田 正夫
インタビューしながら、数年前に東京開発を積極的に計画している大手ディベロッパー社長との議論を思い出しました。個性豊かな社長でした。東京に超高層ビルをつくり、緑地を増やす。そうすることによって過密化を緩和し、東京の居住環境を向上させたい、という開発構想を話されました。過密化に対応するということは、さらに東京に人が集まれるようにする、ということです。私は若干の疑問を持ちましたので質問しました。「東京の開発が進んだ後の地方の姿は、どのように描いていらっしゃるのでしょうか」。大議論になりましたが、他の人もいる懇親の場でしたので、議論は途中で終わりました。
杉本町長の「都会では高層マンションだ、都市再開発だ、と言いながら、地方頑張れ、は卑怯だ」という発言は強烈です。
合併の道を選ばなかった町長自身、「地方創生」の大きな波に、これからも抵抗できるか自信は無い、と明言しています。町長は「私の町ではなく住民の町だ」とも話しています。住民が「自治」にどう取り組むか、町長とのタッグマッチが焦点です。