川村 由莉子
「仏文の大学院に行くんだってね!大学院、向いてそう!」
就職活動を無事に終え、久しぶりに大学の教室の席に着こうとすると、突然知人に声をかけられた。数か月ぶりに会った、さほど深い関係にはない人物が、私の進路に関心を持っていることに、私は少し動揺した。何より、この情報そのものが誤報だったのだ。
これはただの知人の勘違い、尾ひれのついた噂だったのだろうか。就職活動を通じて色々な事柄を自分なりに分析することが癖になっていた私は、この出来事についても思わずあれやこれや考えを巡らせてしまった。そしてそれはこの一件に留まらなかった。私の頭の中では「自己分析」ならぬ「現代の若者分析」が始まってしまったのである。
現代の若者は「静か」か
私達の世代は「静か」とやや皮肉めいて表現されることが多いような気がする。つまり、意見を言わない、どこか白けているということなのだろう。就職活動に関しても一部の上の世代の方々から「採用時期の度重なる変更、そもそも日本の就活の在り方に不満はないのか、あるならばなぜ声をあげないのか。おとなしすぎる。」といった指摘を受けたこともあった。そもそも私自身の頭の中に「就職活動という日本の堅固な慣例に抵抗して何かを変える」という発想自体が全くなく、このご意見は新鮮なものにすら感じられた。そのような若者の反発的な行動精神は、小説『赤頭巾ちゃん気を付けて』と『されどわれらが日々――』の世界観と同じようでもあり、どこか歴史の話のような遠い感覚だった。勿論、昨年の安保法案問題に際して話題になった通り、現代の若者が60年代を彷彿とさせるような積極的な行動を起こしていたことは知っていたが、彼らが若者の多数派かと言われれば容易に頷くことはできない。確かに公に声をあげ、実際に行動するという観点では、私達の世代は「静か」と表現されても仕方ないかもしれない。
しかし、目に見える形で行動を起こす者は活発で、それ以外は「静か」なのだろうか。冒頭の誤報エピソードには「静かさ」どころか現代の若者独特の「やかましさ」が如実に表れていると思う。
他人に対して「やかましい」世代
そもそも彼女はどこからこの情報を入手してきたのだろう。入手経路は三つだったらしい。共通の知人、大学構内で見かける私の身なり、そしてSNSだ。彼女は当時、私の眉上でまっすぐに切りそろえられていた前髪、大学での私服率、私のSNSが美術や映画、読書に関する話が多いことから、就活生の気配が皆無であると考えたらしい。好奇心旺盛な彼女は、共通の知人に私の進路情報を訊ねたところ、その知人達もまた同様のことを感じていたようで、なぜか皆で「川村の進路予想大会」が始まったそうなのだ。そこで誰かが、私がたまに発していた「大学院もいいな」発言を持ち出すと、たちまち「川村は大学院に行くのだ」という結論でおさまったらしい。
当事者の知らないところで、その人に関する噂がなされることは、世代関係なく人間の常である。しかし、私達の世代の他人への興味は、上の世代のそれに比べてより無意識でより細かく、深いと思う。というのもSNSに絶え間なく接する私達は、他人の生活を日常的に垣間見、無意識に赤の他人のそれを想像しているからだ。たまにではない。毎日、いや、人によっては数時間ごとに他人の生活の一部に触れている。その情報量は膨大だ。繰り返される想像は、やがて妄想へと変わり、さらにそれを他人と共有することによって虚構の事実が次々と生み出される。私自身も他人のネット上での行動から様々なことを意識せずとも想像してしまうことがある。特に就活の最中は、SNS上で(当然細かいことは明言しないものの)選考の感想らしきものを見かけると何となく意識してしまった。明らかに就活終了オーラ漂う友人の投稿を目にすると、何だか複雑な思いになることもあった。しかし、自分のことをあれこれ想像される側の人間にしてみれば、冒頭の一件で私がそうであったように、一連の想像や噂は余計なお世話に過ぎず、「静かにしていてくれ。」と感じるのである。自分の生活のほんの一部を露出したにすぎない投稿に対して、必要以上にあれこれ思われ妄想を繰り広げられることは、大変「やかましい」のである。
自分について「やかましい」世代
ここまでSNSを見る側の「やかましさ」について考えてきたが、今度は情報を発信する側について考えたい。就職活動の最中は、SNSの使われ方が大きく二分化されていたように思う。私はこれを勝手に「幽霊派」と「実況中継派」と名付けたい。前者は文字通り、SNS上では「幽霊」、つまり一切の情報発信を行わず、他人の投稿を見ることに徹する者達である。彼らの中には「他人にやかましい」人々も含まれる。後者は、自らの行動をまるで「実況中継」するかのように頻繁に発信する者達だ。よって、就活中の彼らの最終形態は「内定報告」の投稿となる。「実況中継派」は更に二分化できる。一つ目はいわゆる「意識高い系」だ。つまり、就活のためにするあらゆる努力や面接の感想、成功例などを逐一、友人に対して報告する者達である。二つ目はこれとは真逆、「意識低い系」だ。いかに就活の準備が滞っているか、いかに自分が努力できていないか、面接で自らがした珍回答や失敗談を面白おかしく記述する。内容は正反対の両者であるが、彼らの根底には共通する精神が宿っているように思う。ひとつは言うまでもなく自己顕示欲の強さである。ではもうひとつは何か。「意識の高さ」にも「低さ」にも自分の中に押しとどめておけない、他人に発せずにはいられない何かがあるのではないか。その何か、が実は自信のなさではないかと私は秘かに思っている。そして私達の世代はその自信のなさを実際の行動ではなく、言葉という無限に誇張可能な機能の力を借りて、埋めようとする傾向にあると思う。これは大変危険な特徴であると言わざるをえない。
現代の若者は読書嫌いか
若者の読書離れが叫ばれるようになって久しい。私は文学部に在籍しているため、若者全体の中では読書量の多い集団の中にいると思うのだが、それでもやはり、スマートフォンよりも本を手にする時間が長いという人はかなり少ないと思う。しかしこれは本に限った話ではなく、テレビや映画についても同様である。一方で音楽ライブ等のイベントは若者の客足が右肩上がりとの話も耳にする。私がここで感じるのは、若者の間で、読書離れというよりも「フィクション離れ」が進んでいるのではないかということだ。私達は、本やテレビ、映画に触れる際、そこに非日常を求め、それを楽しむことが多い。フィクションの世界では自分の身に起きる事柄以外の何らかの出来事を疑似体験できる。しかし、現代の若者はこの疑似体験を日常的に行っているとはいえないだろうか。ネットではいとも簡単に他人の生活という異空間に触れることができる。私達はフィクション作品の作り手が考えている以上に、ある種のフィクションをごく当たり前に日々体験している。若者の言う「今の本やテレビはつまらない。ネットの方が面白い。」というのは、このように言い換え可能なのかもしれない。本やテレビが作り出す非日常は、自分たちが日々経験する出来事、現実と他人の生活の入り混じった複雑な日常を超えていない、と感じる若者が多い、と。その点、この間芥川賞を受賞した『コンビニ人間』(村田沙耶香著)は現実世界の舞台の中の圧倒的な非日常性が新鮮に感じられた。普段読書をしない友人に多数勧めたが、現実では体験したことのない世界観を楽しんでいたように感じた。勿論、「フィクション離れ」の原因を作り手に帰しているわけではない。大学受験勉強の過程で、行間を読まずに理論一本で文章を読解していく訓練が染みついており、フィクションをじっくり味わう体験が損なわれているなど、教育上の原因も大いにあると思う。しかし若者とフィクション作品の関係性が、ネットの発達により、上の世代のそれとは異なるものになりつつある、と言うことができないだろうか。
現代の若者は無関心か
「政治についてあまり知らないし、自信がないので、、、。」
若者の投票率、政治への関心の低さの原因を探るべく、テレビ番組等では若者への街頭インタビューやアンケートがなされている。そこでよく目にする回答が上記の発言だ。ここにはその発言そのまま、ストレートに若者の特徴、自信のなさが表れていると思う。しかし、若者と政治という話題でなされる様々な企画が、そもそも「若者は政治への関心がない」という揺るがぬ結論から出発していることに最近違和感を覚えるようになった。というのも、つい最近こんなことがあったからだ。友人と映画『怒り』を観に行った時のことである。この映画では沖縄基地の問題が内容の一つの大きな軸としてあった。私はその友人と長い付き合いであるが、彼女と政治に関する話をしたことなど一度もなかった。しかし、映画を観た帰り道、私達は気が付いたら沖縄問題について思うことをざっくばらんに意見交換していたのだ。これは互いにとって全く意図せぬ展開であり、話の途中で「あれ、私達、政治の話してるね」と思わず二人で驚いてしまった。完全に無意識だったのである。きっとこれは私達だけではない。事実、『怒り』を観たという友人達のSNSには、問題意識といって良いような感想がいくつも見受けられた。『怒り』だけではない。今夏大ヒットした『シンゴジラ』についても、その裏に政治的メッセージを読み取る類の感想、逆にそうした意見に反対する感想が多数見受けられた。とある映画をきっかけに政治や社会に対する思いをSNS上で言語化する段階にまできている若者は多いのだ。しかし彼らは、ほとんどがそれを「政治に関心がある」という意識はもたずに行っている。そのため「政治についてどう思いますか」とメディア等を通じ真正面から聞かれると、上記のように「自信がないので、、、」と意見を言うのを憚る可能性が高いような気がする。つまりこういうことである。「君たち、政治に興味ないよね」から始めるのではなく、「気づいていないだけで、意外と興味持っているのかもよ」というアプローチにしてみる。そこで若者特有の自信のなさを少しずつ改善していく。『怒り』の一件からそんなことを考えるようになった。
「何者かになんてなれない」私達のこれから
「私たちは、何者かになんてなれない」
「ダサくてカッコ悪い自分を理想の自分に近づけることしか、もう私にできることはないんだよ」
就職活動をテーマにした、朝井リョウ氏の小説『何者』に出てくる台詞である。自己顕示欲は強いのに、根底には自信のなさが付きまとい、他人を意識し、影響される。その事実を覆い隠すかのように言葉でもう一人の自分を作り上げてしまう私達。「政治のことはあまり詳しくなくて、、、」と投票にも行かない「ダサくてカッコ悪い」謙虚な姿勢を見せたかと思えば、「どこどこのインターンに行って貴重な経験をした」「理想の自分」を言葉を通じて世に発信し続ける私達。謙虚さと傲慢さの間で揺れ動く私達はまさに今、「言葉のバブル」の真っただ中にいるのかもしれない。しかしバブルというものはいずれ弾けてしまう。その時、本当に「何者かになんてなれ」ていない人間になるわけにはいくまい。今こそその危険性に気づくべきだと私は思う。将来の理想像や充実した生活ぶりを投稿することは決して悪いことではない。時に言葉によって私達は自分を鼓舞することもできる。しかし時折、振り返ってみよう。SNS上で巧みに作り上げた素敵な自分と現実をはき違えてはいないだろうか。言葉や加工した写真で綺麗に彩られたSNS上の自分にこだわるあまり、現実の自分を見失ってはいないだろうか。以上を自戒にしつつ、現実世界で、私は残りの学生生活を精一杯楽しみたいと思う。
参考文献
*『何者』 朝井リョウ著 平成二十七年発行 新潮文庫