志村一隆
先日、雑誌編集者のOさん(42歳)と話しをしていたら、「厄年」の話になった。なんでも、最近「鬱」気味で、全然やる気が出ない。こういう時に、ポジティブ全快の投稿で埋められたフェイスブックでも開こうものなら、また底無し沼に落ちて行きそうだという。「厄年」侮りがたしという話だった。
自分も、40代後半で突然カラダに変調をきたした。ベル麻痺(顔面神経麻痺)になって、顔が半分ダラーと弛緩してしまった。回復に一年以上。驚いたことに、同じベル麻痺経験者が身の回りに結構いた。1年ぶりに会った大学の先生も、とある会社の社長も、大学の同窓生も、同い歳だが、みんなベル麻痺に罹っていた。
日めくりテレビ「シジュウカラ」
去年11月から始まった「日めくりテレビ:シジュウカラ」というコーナーは、40代の人たちが日頃思っていることを語る番組である。自分は、普通の40代が普通に政治や社会のことなどを話せる場になったら面白いなぁと思っていたが、40代といえば、やはり厄年のイメージが強いのか、ストレス社会の影響か、テーマは「人間関係」や「曲がり角」といった身の回りものが多いようである。
ただ、厄年というものもいい経験かもしれない。とかく世間では、ゴールを決め、その道筋をロジカルに説明できなければスグ馬鹿にされる風潮に侵されている。米国のMBA課程で教えていることの受け売りであり、その教えの一部を全てと売り込む人たちがそんな風潮を作り上げているのだろう。ところが、厄年でかかる突然変異を体感すると、そうしたポジティブ路線の憑き物から解放されて気分がいい。
ポジティブ=ポエム
このポジティブ路線をマジメに追求すると、コラムニスト小田嶋隆さんの著書「ポエムに万歳!」に詳しい「ポエム」となる。ポエムとは、あいだみつをさんの一連の作品とか、マンションの広告に見られる「劇的に千葉。」「緑を纏う都心に棲まう。」「光景(シーン)となる象徴(シンボル)」的な表現である。あるいは、「すご『過ぎ』る」とか、あり『得ない』光景」のような、比較級を超えた最上級の言葉たち。また「心を打たれました」「させて頂くようお願い申し上げ奉ります」のような過剰な尊敬語もその範疇に入るだろうか。
厄年を体験した人は、そんな過剰表現には釣られないハズだが、40代がメインのユーザー層なヤフーもフェイスブックも、結局ポジティブなポエムで溢れているのは何故なのか。それでも、平和なポジティブは、まだいい。ただ、それが異質なモノを排除する考えに純化しながら、全体主義と結びついた時の怖さは、メディア人がなんども言及してきたことだ。
死が身近な大家族
冒頭の編集者Oさんは、4世代の大家族で育った。思春期までにひい爺さん・ひい婆さんと爺さん・婆さんの4人が死んだ。身近な人が4人もいなくなる経験は彼の人格に大きな影響を与えているそうだ。「結局、人間死んでしまうんだから。。」という虚無的な要素をカラダの奥に感じるらしい。「どこかネガティブなんですが、それが自分を複雑にしてるのかな」と言っていた。
その話を聞いて、「世界の色々な国で右翼的な政権が出来てしまうのは、戦争経験世代がいなくなってきてるからだろう」とあるメディア界の大先輩が言っていたのを思い出した。関口宏さんのコラム「もどかしき世代」にも「戦争の悲惨さを身体で知る人が少なくなりました」とある。厄年と同じで、体験してない人には怖れというか物事のネガティブな部分を捉える感覚がないのだろう。
単純化=効率化=レコメンドと違うテクノロジー
その意味で、DeNA「WELQ」などのコピペ問題や、米国大統領選挙におけるフェイクニュース問題は、メディア自身の厄年的な経験となるのだろうか。いつだったか、自分の水墨画が人気ゲームにパクられたことについて書いたが(【悲報】パクりの機械化とキース・リチャーズ)、その時のゲームデザイナーはまだ30代後半だった。彼も厄年を迎えた暁には、パクることもしなくなるんだろうか。それとも、効率よくお金になるならどちら側にでも転び続けるのがメディアなのだろうか。
編集者Oさんは「核家族と長寿化は、死に触れる機会がない。死に触れないまま成長すると人間は単純化する。ポジティブな方向にばかり流れるメディアと同じな気がする」と言っていた。テクノロジーは自分好みのレコメンドサービスばかりがもてはやされるが、それと正反対のサービスやテクノロジーをもっと考える必要があるのではないか。