初小説

Y. Yang

ヤン ヨンヒ

 生まれて初めて小説を書いている。勧められるままに書き始めいつの間にか二年以上の時が過ぎた。執筆だけに集中出来る身分ではない。映画の紹介記事やコメントを書き、テレビのインタビュー番組の聞き役を務めるなど、色々な仕事の合間に書き進めている。母がひとりで暮らす実家に通うたび集中力が途切れ、東京に戻り机に向かうとイライラが募る。落ち込んだ時にタイミング良く届くハンサム編集者からの「原稿お待ちしています」メールに励まされながら、頭の中の妄想動画を言葉に置き換えている。いきなり書き下ろしの長編小説に挑戦するという無謀な試みだが、余分な文章をバッサバッサと切り落としシェイプアップさせている。

 小説は限りなく自由だ。物語が進行する時間と空間を自由に行き来出来、何より予算の心配がない。初めてのシナリオ「かぞくのくに」を書いた時、軍資金ないから無理!と自分に言い聞かせながらいくつものシーンを諦めたことを思い出す。旧型の携帯電話や車を借りる費用が心配で胃がキリキリしたことが懐かしい。「映画はシナリオで決まる」とも言うが、書かれた言葉は、美術、照明、衣装等のスタッフや俳優たちがチームワークとしてディテールを作り上げるための叩き台でもある。一方、小説原稿はそれ自体が完成品として読者の目に触れる。細部までの作家の孤独な決定を、言葉そのまま「客」の前に直に晒すという、ヌーディーな全くもって恐ろしい表現手段だと実感している。

 初めての小説は、1980年代を舞台にしている。物語の背景や設定は私自身のかつての大学生活をデフォルメし、東京都にある特殊な大学に通う主人公パク・ミヨン(朴美英)の青春を描いている。全寮制の大学で与えられる教育内容への不信感に悩みながらも自分の人生を切り開こうと葛藤する女子大生ミヨンは、日本人の青年と恋に落ちたりもする。空想と実体験をブレンドしたフィクションだ。

 私は今まで「一貫して家族をテーマに作品をつくる映画監督」としてメディアで紹介されてきた。「かぞくのくに」「ディア・ピョンヤン」「愛しきソナ」という三本の映画だけではなく関連書籍でも自身の家族について語ってきたのだから当然と言える。しかし最近、私が描きたかったのは必ずしも「家族」ではなく、追求しているのは「個」の尊重と「自由」なのでは?と思い始めている。家庭、会社、組織、コミュニティ、社会、国家など、枠の大小を超え、それらが踏みにじられアンフェアな状況で苦しむ人を見た時、私は怒る。激しい違和感がモチベーションであり、怒りが創作のエネルギー源となるようだ。テーマやイシューで物語を考えることはない。主要な登場人物のキャラクターを組み立て、必ず入れたいセリフからシーンを構築していく。

 小説で、主人公ミヨンの姉ミヒ(美姫)が登場する。1959年以降、所謂「帰国事業」で日本から北朝鮮に集団移住した約9万4千人の在日朝鮮人の中の一人という設定だ。北朝鮮で生きる姉のミヒは、生きる場所によって「自由」を奪われナンセンスな義務を背負わされる不条理を見せる役柄だ。今まで語られて来なかった「キム・イルソンの還暦祝いに人間プレゼントとして捧げられた100人の朝鮮大学校生」の存在や北朝鮮社会の一端も描いている。「帰国事業」を推し進めた朝鮮総連が最も触れて欲しくない隠された歴史の一部を、その活動家として生きた両親を持つ私が晒すことに対して、親不孝な裏切り者だと罵る人もいるだろう。私の作品がピョンヤンで暮らす兄たちの生活に危険を及ぼすかも知れないという心配も常にある。が、今まで語られてこなかった物語を伝えたいと思う。暴露や告発ではなく、負の遺産も含め記憶と記録を昇華させた作品を残したいと思っている。これは私の誠心誠意を込めた、家族や歴史との向き合い方なのだ。

 “祖国の悪口は厳禁”というコミュニティで育った。思春期の頃から教科書の内容や両親の思想に疑問を抱きつつも沈黙を装ったのは、正直な“発言”にはリスクが伴うと肌で感じていたからだ。ピョンヤンにいる家族が“人質”のような状況で、大きな力に怯まず「個」でいるためには、小さな勇気が必要だった。そして少し逞しくなるまでには時間がかかった。

 思いを吐き出したい衝動を抑えられず自分の言葉や表現を探していた20代の頃から30年が過ぎようとしている。辛い思い出が溢れ悪夢にうなされる日が続いたが、感傷的になるまいと記憶の断片を突き放した。ウオーミングアップのようにドキュメンタリー映画をつくる中でフィクションの可能性が溢れ、物語を構成しながら記憶の中を泳いでいると、いつの間にか自棄酒を飲まなくなり泣かなくなった。

 女であり、コリアンであり、マイノリティであり、外国人であり、アウトサイダーであり、両親の娘であり、兄たちの妹であり。その全てから解放される唯一の方法は、生々しい現実と向き合いポジティブに受け入れることだと知った。私にとってその方法が映像だ。そして小説という新しい表現手段と出会った。

 文学や映画の素晴らしさは、愚かさを含めた人間の愛おしさを感じさせることにあると信じたい。説明で理解するのではなく、生活の具体を通して感じられた時、作品は普遍に到達し国も人種も超え共感し合える。こんな事も知らなかったのかと自分の無知をスリリングに自覚し、新しい好奇心を育てる醍醐味を味わいたい。エンドレスな至福を噛み締めるためまた本を読み映画を見よう! そして、伝えたい物語がある限り発信する、のだー!