原子力の宿命 ~2015年10月・福島無人の被災地を行く~

Kenichiro Kidokoro

Kenichiro Kidokoro

城所 賢一郎

 福島第一原発では毎日、平均7000人もの人たちが廃炉を目指して働いている。シフトで動くので雇用者は1万人、そのうち7000人程度が地元近郷の人たちである。ここで働く人たちは東京電力福島復興本社の幹部から現場で働くテンポラリーな労働者まで、すべて危険も伴う作業の中で必死である。

 目指しているのが「廃炉」であり、「建設」ではない。「廃炉」を目指して毎日毎日働く、その労働は健気でもある。しかも自分が働いている年月の間に作業は完了しない、これは各々にとってどういう精神力や動機付けが必要であろうか、考えさせられた。今回の事故の無情な側面の一つであろう。6個の炉を廃棄するまでに何年かかるか?早くて30年、まずければ40年である。今年10月24日、私は巨大地震と津波、そして原発に苦しむ福島を訪ねた。

 構内に散乱していた放射性の瓦礫は今では殆ど片付けられ、構内の移動は容易になり、防護服を付けなくても炉建屋同士間の区域などは移動できる。緊急対策室などもコンピューターが整然とならび、主な作業場所や東電本社などとはテレビ会議も出来る。

原発を見学する筆者

原発を見学する筆者

 しかし作業は遅れている。予期した以上の障害が幾つも発生してくるから、
(東電の人は言わないが)僕には廃炉完了まで40年コースのペースだと思われる。

 

水・水…二つの水

 

 福島第一原発構内に入ってまず目につくのは巨大なタンクの列である。
これらのタンクには水が入っている。大小あるが平均一個に1000トン入る。それがマイクロバスの窓から見える限り連なっている。現在約1000個あるそうだ。

タンクの列

タンクの列

 中身は汚染されたままの水と処理済みの水と両方である。4号炉は燃料プールから燃料棒を取り出し終えたが、1,2,3、5,6、号炉には燃料が入ったまま止めてある。したがってこれらの炉の冷却は続けなければならぬわけで、それには大量の水が必要なのだ。そして炉に入った水は出て来た時には当然放射能を帯びている。1000個のタンクのうちの大半はこの水である。

 この汚染水はたまり放題と言うわけでもない。大手電機メーカーなどの構内の工場で必死の浄化作業が行われている。ストロンチウム・セシウムなどを含め、放射性物質の除去をしているのである。しかしどうやら除去は、増える水に追いつかないようでタンクは増えて、これまででほぼ1000個になったのである。(当然だが水から除去したストロンチウム・セシウム等の廃棄物は蓄積されている。これを廃棄する場所は無いから構内に置いていると思われる)

 またこの除去作業には一つ限界がある。トリチウムという物質は除去できない。したがって処理済みの水も100パーセント全くクリーンというわけではなく福島では目下廃棄できない。この水も当然タンクに貯めている。

 このトリチウムと言うのは水素の同位体で、炉の中や核爆発で人工的にしかできない。核実験などのせいで今も世界の空中にも微量拡散している。半減期は比較的短く12年4か月。低エネルギーのベータ線を出すが害は少ないと言われる。「危険だ」という意見もあるが、実を言うと世界の原発はこのトリチウム入りの廃水は希釈して海に廃棄している。日本でも同様だが今の福島で海に流すわけにはゆかない。

 以上のような水の処理が今後の難問の一つであるが、福島第一原発はもう一つ別の水の難問に襲われている。

 報道されている地下水の建屋床への流入である。これは建屋に入る前に汲み上げて処理、チェックしたうえで海に流す合意が地元漁協と出来、9月から排水している。また地下水の周囲の土を冷却凍土にして流入を防ぐ手立てが出来つつある。(この工法の効果や持続性については専門家の間に疑問の声もある)

 以上のように福島が抱えている「水の難問」は、実は世界中の原発共通の問題である。ひとたび冷却水の循環に異変が起きれば皆同じ問題に直面するわけである。1000個のタンクの群れを見たときにこれは果たして人間の力で処理できるのか?という疑問が頭をかすめたのは事実である。

 

廃棄物、廃棄物、廃棄物

 

 第一原発1,2,3,4、号炉のある大熊町から海岸を50キロ以上走りそのあと山地に入って飯館村などを経て福島に抜けた。国道6号線は開通しているが、そこから脇道に出て町や村にむやみに入る事は許されない。国道と直角に交差する街への道は遮断され全国からの警察官が警備している。許可を得て街に入り、かつての駅前や桜並木に行く。寂しい、むなしい、わびしい、悲しい。

 旅館・中華料理店・薬屋さん、そして立派な2階建てバルコニー付きの民家、皆4年半前のままの姿で建って居る。庭木もそのまま。しかし動くものは風だけ。人も犬もいない。

 津波で流されて街ごと跡形も無くなった景色も勿論怖いが、目に見えない放射能が居るだけであとは昔のままという場所の住民は、本当に悔しいだろうと思う。見えないものによって阻まれて、すぐそこの健在な街に帰られないのだ。

人々が帰ることができない町並み

人々が帰ることができない町並み

 国道6号線が脇道と交差してかつての街からの風が通る場所では、今でも急に線量計が上がって30マイクロシーベルトを越える数値を指す。(案内役は常に線量計を携帯していた)これでは街に帰られない事も理解できる。

<除染物>
 道脇の畑やもと田圃には除染して集めた土や葉の入った例の黒いビニール袋が延々と積まれている。今のこの地域の風景の一つになってしまって居るかのようだが、外から来て見れば「怒り」が湧く。

 原発事故が発生してから4年半経ってなぜこうなのか?

 政府、県、市町村や東電は何をやっているのだろうか?

 もちろん除染作業は放射能の中でやるのであるから作業効率が低いのは分かる。でも黒い袋をいつまでこうやって積み上げておくのであろうか。

 中間貯蔵施設候補地の一時保管所にでもよいから早く運び込まねば、土壌などの放射能が下がっても畑も田圃も家の庭も使えない。所々に黒い袋が大量に集められてグリーンのカバーがかけられているところがある。これは一応一か所にまとめて本格的な廃棄場所を待つ姿である。

 当面ここまででも良いから早く!(僕はオリンピックをやっている場合かと思ってしまう)

除染物の堆積

除染物の堆積

 この除染物の堆積は今のところ福島第一原発固有の問題である。地震と津波、予想を超える規模の津波で電気も止まり、冷却水も止まり、建屋が水素爆発を起こすなどして発生したものである。

<核廃棄物>

 原子力は発電や研究用など平和利用にせよ、核兵器に福島の後、ある程度巨大な地震や津波にも耐える規制が敷かれているから今後どの原発でも起きると言うものではない。しかし起きないと言いきれるものでもない。カルデラ噴火や巨大な(日本では必ず来る)直下型地震のような大規模な事態の想定は出来ないからである。

 使用済みにせよ途中で廃棄するにせよ、核廃棄物は必ず出る。この廃棄物は良く言われるように目下廃棄する場所は無い。これらは地底何百メートルかの深みに埋めるしかないと言われている。(これも長いタームで見て本当に安全かどうか、保障は無い)

 この地底処理施設にしてもフィンランドに完成した施設があるが、まだ稼働して居ないという事である。他にはスウェーデンで建設に向けた動きがあるだけで、日本にもアメリカにも中国にもロシアにも西ヨーロッパにもない。捨てる場のメドは無いのにどんどん作っているわけである。

 この矛盾については以前から指摘され続けているが、具体的な対応をしている国も人もない。

 

廃炉!廃炉!廃炉?

 

 原発については福島の事故以降急速に反対論が増えている。「再稼働もダメで即廃炉」と言う意見もあるし「安全が確認されれば再稼働するが、やがて廃炉」「三十年後には全部廃炉」など様々な意見がある。

 経済的効率や危険性や廃棄物処理が出来ない事などが議論の中心になっている。

 しかし私は福島の教訓は「廃炉も困難」と言う所にあると思った。日本には54基の原発があり、他に比較的小さな研究用の炉なども有る。(核兵器がないのは平和憲法と非核三原則、平和への国民の努力の賜物だ)

 福島で6基の廃棄をするのに10000人が働いて30~40年かかる。これだけ考えても全部即時廃炉は不可能である。労働力も電力会社の能力も足りないし廃炉途中のリスク管理も出来ない。廃炉にして廃棄物をどうするのかの見通しもない。また福島の水のように、途中でそれぞれに固有の難問が発生するに違いない。

 

原子力と心中?・・・人類の選択

 

 では止めてある炉はどうか?動かすのもダメ廃炉も出来ないとすれば当面止めて置いたらどうか?現実に今日本では54基のうち52基が止めてある。止めてあっても燃料棒は炉の中に有るか燃料保存プールに置いてあるのだから、天変地異の時の危険性は無くならない。

 現に福島第一の4号炉は停止中に津波に会った。建屋の屋根は飛び燃料プールに瓦礫が落ち、燃料棒の取り出しに4年半かかったことは記憶に新しい。

 国際エネルギー機関(IEA)によれば世界では原発434基が稼働しているがそのうち約200(半分という事)が老朽化しつつある。そして原発はまだまだ世界中で(ドイツや日本を除けば)増加中である。日本で新設は許されるものではないし必要もないが、2040年には世界の原発による発電量は今より60%も増えるとIEAは予測している。(日経新聞による)この他に核兵器の数は不明で、兵器に積んである核物質の量も不明である。研究用の炉も幾つあるか分からない。

 こうしてみると原子力利用に踏み切った我々人類は引き返すことの出来ない、また途中でやめる事も大変困難な道を既に選んでしまったことになる。福島の教訓は日本だけではない世界全体の教訓である。大規模な地震・津波・火山噴火・地面の隆起や陥没など自然が牙をむいた時、また稀には人為ミスや故意の破壊の時には我々は原子力と「心中」するしかないのが既に現実なのである。

 この現実はエネルギーをふんだんに使ってきた私たちの選択の結果である。「進み過ぎた国」「飽食」の国の一つに住む我々が自分で立ち止まってみる事が必要ではないであろうか。

 これから発展しようとする国の人々の生活向上を止める事はフェアーではない。安全なエネルギーを開発することはもちろん必要だが、良く把握管理されるなら原発を途上国が作ることを我々は止められないのではないだろうか。「心中かも知れない」という覚悟は必要だが。

 超便利・超快適・超清潔・こんな生活が本当に必要か。こんな生活を享受している僕も「福島」には責任を負っているというのが今の思いだ。