欧州国内で育つイスラムテロリスト

G. Kobayashi

G. Kobayashi

小林恭子
 欧州でイスラム教、あるいはイスラム教徒をテロと結び付けて連想する大きな流れを作ったのは、2001年9月11日に発生した、米同時多発テロだった。

 ニューヨークの世界貿易センタービルに突っ込む旅客機の映像は衝撃的だった。軍事力も経済力も世界最大の国への強烈な挑戦だ。同日の国防総省への攻撃も含めると、約3000人が死亡し、6000人以上が負傷した。

 米国側の反撃はあっという間だった。米政権はイスラム教過激派の指導者オサマ・ビンラディンによる国際テロ組織「アルカイダ」のメンバーらを実行犯とした。当時ビンラディンをかくまっていたとされるアフガニスタンのタリバン政府に引渡しを要求した。これが受け入れられなかったことで、アフガニスタン侵攻(01年10月)が始まる。9・11テロからほんの一ヶ月余である。2003年には、イラクが大量破壊兵器を持っているとし、「テロの支援をする国」イラクへの攻撃を開始した(イラク戦争開戦)。

 ブッシュ米政権(当時)が世界に向かって(米国の)「敵か味方か」を迫る中、「イスラム教徒=テロを起こすような悪い人」というイメージが広がった。

 

ISに逆流する若者たち

 

 この時の「テロリスト=イスラム教徒」とは、米国や欧州、特に西欧諸国からすれば外からやってくる人たちだった。「西側」(米国と西欧)に恨みを持ち、テロを起こすような人物はあくまでも「外国人」である、と。

 しかし、実はどうもそうとばかりは言っていられないと欧州社会が気づきだすのは、米テロから数年後である。欧州諸国で生まれ育った人物がイスラム系テロに手を染め、同国人を殺傷するーーそんな現実に向き合わざるを得なくなってゆく。

 

 ここ10年ほどの、欧州社会とイスラムテロの関係を振り返ってみたい。

 

 その前に一つだけ重要な点として付け加えておくと、欧州で言うところのイスラムテロの実行犯たちについて、「イスラム教やイスラム教徒とは一切関係ない」と多くのイスラム教徒たちが言っていることだ。「イスラム教を口実として使っているだけだ」「あの人たちはイスラム教徒ではない。単なる殺人犯だ」と。

 ということでこれから紹介する事件の実行犯を「イスラム教徒」として言及していいのかどうかについて疑問符が付いていることも含み置きいただきたい。

 

オランダで白昼の殺人事件

 

 2004年11月2日朝8時過ぎ、映画監督テオ・フォン・ゴッホ(著名な画家ゴッホの親戚に当たる)はアムステルダムの自宅から自転車で事務所に向かっていた。撮影した映画の件で、旧友でもあるプロデューサーとの打ち合わせがあった。

 途中の路上で、ある若い男が監督に向かって銃を向けた。「やめろ」と監督は制したが男は発砲。監督は通りを渡った反対側に逃げたが、男は続けて発砲し、監督は自転車ごと倒れた。追ってきた男性は持っていたナイフで監督の喉元をかき切った。胸元には用意してきた手紙をナイフで留めた。

 手紙には、イスラム教を批判する短編映画『服従』を作った監督、映画の脚本を書いた国会議員(当時)アヤーン・ヒルシアリ、そして米国に対する脅しの文句が書かれていた。

 近くの公園で男は警察に捕まった。モロッコからの移民の両親を持ち、オランダで生まれ育った20代の若者、モハメド・ブイエリだった。教育程度が比較的高く、オランダ社会に良く溶け込んでいる移民2世として、地方紙に取材されたこともあった人物だったが、イスラム教の過激思想に傾倒していたことが分かる。ブイエリは後に殺人罪で終身刑となる。

 

オランダ映画監督殺害から1年のイベントで (2005年1月)

オランダ映画監督殺害から1年のイベントで (2005年1月)

 

 短編映画は監督殺害の2ヶ月前にテレビで放送されており、映画が犯行の直接の引き金になったようにも見えた。自由な社会の基本的価値の1つである表現の自由が踏みにじられた、と解釈され、殺人事件である以上に許しがたい行為として受け止められた。

 移民2世の青年による犯行だったことが判明すると、政治家たちは移民に対する否定的な発言を発し、これがメディアで頻繫に報道された。「オランダの移民政策は余りにも緩やか過ぎた」「多文化主義は失敗だった」「イスラム教徒とキリスト教徒の間で戦いが起きている」…。

 非イスラム教徒の国民がモスクに、逆にイスラム教徒の国民が教会に放火したり、建物を破損したりする事件が乱発した。

 事件直後からヒルシアリ議員は身を隠さざるを得なくなった。イスラム教批判を繰り返して来た極右派の政治家へールト・ウィルダース議員もイスラム教徒過激派から殺人予告受け、一時は刑務所に住みながら身を守った(現在、ヒルシアリ氏は米国在住。ウィルダース議員はオランダの第3党の党首として一定の支持を得ている。)

 

テロリストは英国で生まれ育った「普通の青年」

 

 9・11テロ以降、英国でも何らかのイスラム系テロが発生するのではないかと予測されたが、しばらくは何も起きなかった。

 英国では「テロ」と言えば英領北アイルランドのカトリックとプロテスタントの住民との間のテロであり、それが英国本土に上陸してのテロ行為だった。英捜査当局や国民は「テロの扱いには慣れている」、「簡単にはイスラムテロは起きないだろう」-そんな意識があったようだ。

 しかし、ある時、そんな希望的観測は破られた。2005年7月7日、数人のイスラム教徒の青年たちがロンドンの地下鉄やバスで自爆テロを行ったのである。50数人が命を落とした。

 ロンドン・テロの実行者4人のうちの3人は英国で生まれ育ったパキスタン系移民2世、1人はジャマイカ生まれだが英国に長年住んでいた青年だった。イスラム教徒だが外からやってきた人物ではなかった。家族や知人らに言わせれば「どこにでもいる普通の青年」たちだった。

 この時から「国産の(ホーム・グロウン)テロリスト」という表現が良く使われるようになった。

 

 

ロンドンテロの様子を伝える英ガーディアンの1面(2005年7月)

ロンドンテロの様子を伝える英ガーディアンの1面(2005年7月)

 

 青年たちは特に熱心なイスラム教徒というわけではなかったようだった――少なくとも、テロ実行直前までは。例えば家庭が貧困であったり、教育程度が低かったり、という事情のために「洗脳」され、社会的な疎外感を感じてテロ行為に走った、というわけでもないようだった。

 フランスの政治学者オリビエ・ロワの分析(欧州政策研究センター、2007年、「欧州のイスラム-公的政策と社会への挑戦」の第5章「欧州におけるイスラムテロの過激化」)によれば、こうした青年たちは「欧州の言語を話し、西欧で教育を受け、特に宗教教育を受けておらず、普通の西欧の若者として育ち、友人や知人を通じて宗教に目覚めて、過激主義に染まってゆく。何らかの理由で自分が置かれている状況に不満を感じ、グローバルなイスラム教徒の集団のほうにアイデンティティーを見出す。イスラム教的な言葉を使いながら、イスラム教世界を抑圧する世界として西欧社会の『帝国主義』を批判的に見ている」。

 当初、こうした青年たちは「例外」とされた。何故どのような過程でテロ行為に走ったのか、日常から非日常へのジャンプがどうやって発生したのか、家族もそして一般市民も納得がいくような説明が得られないままだった。

 

増え続けるイスラム教徒

 

 西欧諸国に住むイスラム市民たちは、主として1960年代以降、労働力不足を補うためにかつての植民地国から欧州にやってきた移民の子孫だ。先の「欧州のイスラム-公的政策と社会への挑戦」によると、60年代末までは「いつか出身国に帰る」ことを前提としていたが、80年代の半ばになると、欧州に永住することが普通になってゆく。1990年代末までに6000を超えるモスクが建設されていった。

 米ピュー・リサーチセンターの調べによると、欧州連合(EU)28カ国中でイスラム教徒の市民は全体の6%(約2000万人、2010年)。1990年には4%だった。2030年は8%に上昇すると見られている。

 西欧諸国の中で人口比率で最も高いのはフランス(7.5%)、これにベルギー(6%)、スイスとオーストリア(それぞれ5.7%)、オランダ(5.5%)、ドイツ(5%)、英国(4.6%)が続く。

 移民たちの出身国は中東、北アフリカ(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)、東欧、トルコなど。

 数だけ見ればそれほど多くはないようだが、実際よりも多いと認識するEU市民がいる。調査会社IPSO-MORIの調査(昨年)では、フランスではイスラム教徒の市民は全体の31%と認識し、ドイツでは19%と認識しているという。

 この認識の差が非イスラム教徒の市民の側の、イスラム教徒の市民に対する圧迫感をいみじくも示しているようだ。

 EU内のイスラム系市民の増加は現在は数パーセント程度だが、複数の調査によると、いくつかの都市(例えばオランダのアムステルダムやロッテルダム、英国のルートン、ブラックバーン、フランスのマルセイユ、スウェーデンのストックホルムなど)では15-30%近くになる。

 また、西欧諸国では低出産率の傾向があるが、移民人口は非移民人口と比べて出生率が高いこともあって、イスラム系市民は今後ますます増えそうだ。

 欧州内の反イスラム感情が大きく表に出た事件として、ドイツの「西洋のイスラム化に反対する愛国的欧州人」(Patriotische Europäer gegen die Islamisierung des Abendlandes、略称:PEGIDA(ペギータ)、Wikipediaを参照)グループによるデモ行為があるだろう。ドイツ各地から欧州各国に広がる動きを見せたが、ドイツの主流の政治家やメルケル政権は、ペギーダは外国人排斥と移民、難民申請者への反感を助長するものだと批判した。

 

風刺画問題が世界的な論争に

 

 人を殺傷するテロ事件にはならなかったものの、イスラム教徒と非イスラム教徒の市民の間の文化や価値観の違いが世界的な論争につながった例を見てみたい。

 2005年秋、デンマークの有力紙「ユランズ・ポステン」の文化部長はイスラム教を題材にした表現が十分にできないことに不満を感じ、預言者ムハンマドなどをテーマにした風刺画の掲載を思いついた。イスラム教では預言者を描くことは冒涜と見なす場合があるが、あえての決断である。

 複数の風刺画が掲載され、その1枚はムハンマドと思しき人物の頭の部分に爆弾がついていた。まるで、「イスラム教徒=ムハンマド=テロリスト」とでも言っているかのようであった。

 

デンマークのある新聞に掲載されたイラストー中央部分のイスラム市民の姿が誰にも見えない

デンマークのある新聞に掲載されたイラスト-中央部分のイスラム市民の姿が誰にも見えない

 

 

デンマーク風刺画問題で、イスラム教「過激集団」ヒズブットタヒリル主催の抗議デモ (2006年2月、 ロンドン)

デンマーク風刺画問題で、イスラム教「過激集団」ヒズブットタヒリル主催の抗議デモ (2006年2月、 ロンドン)

 

 掲載された新聞を見て、いわゆる「穏健」とされるイスラム教徒さえも傷ついたようだ。筆者は現地で、「あれはひどいと思った」という声を数人のイスラム教徒の市民から聞いた。

 これを問題視したイスラム教徒の1人でイマームのアブ・ラバン氏はユランズ・ポステン側と話し合いの機会を持ったが、納得の行く説明が受けられなかった。そこで風刺画が掲載された新聞などの具体例を手に中東諸国を訪ね、イスラム教組織のメンバーと会合したという。本人によれば、「相談した」。しかし、これが大事件に発展する。

 年が明けて、ユランズ・ポステンの風刺画掲載への支持を表明するため、フランスの新聞などが風刺画の一部を転載すると、一連の風刺画掲載を支持するかしないかで、世界的な論争となった。イスラム諸国の一部では掲載への抗議デモが発生し、ユランズ・ポステン紙や風刺画家らは殺害予告を受けた。

 今年1月7日、風刺雑誌「シャルリ・エブド」のパリのオフィスで、風刺画家や編集スタッフなど十数人が殺害される事件が起きた。シャルリ誌はイスラム教の風刺のみを専門にしていたわけではないが、預言者ムハンマドが裸のでん部をこちらに向けている風刺画など、かなりきわどい表現を常としていた。

 襲撃の実行犯はアルジェリア移民のクアシ兄弟で、「アラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫びながら編集室にいた12人を殺害し、さらに複数の人を負傷させた。フランスで起きたものとしては過去50年で最悪のテロとなった

 現在、ユランズ・ポステン紙も、そしてシャルリ・エブド誌も「今後、ムハンマドは描かない」と宣言している。前者は従業員の身を守るというリスク管理の意味合いがあるようだ。後者は「描く必要がなくなった」としている。それぞれの理由でムハンマドをオフリミットにしてしまった。

 

シャルリエブド事件を受けて、パリの共和国広場に捧げられた花 (2015年1月)

シャルリエブド事件を受けて、パリの共和国広場に捧げられた花 (2015年1月)

 

言論の自由と宗教とのせめぎ合い

 

 デンマーク風刺画事件やシャルリ・エブド事件は、あることを欧州社会にはっきりと示した。それは、表現の自由は多くの欧州社会の根幹を成す価値観だが、同じ社会の中に「宗教を嘲笑の対象とされるのは我慢がならない」「止めるためには暴力を使うこともいとわない」と考える人物が存在しているという現実だ。

 政教分離を近代社会の基礎とする西欧社会では、宗教を理由に表現を制限されることへの強い抵抗がある。

 オランダの映画監督殺害事件後、「イスラム教は欧州社会の価値に合わない宗教」という見方が広がった。いくつかのイスラム教徒と称する人物によるテロ行為の発生とあわせ、いわゆるイスラムフォビア=イスラム教嫌い、あるいは反イスラム感情が生成されてしまう一つの要因ともなった。

 表現の自由論争は、社会の中の多数派と少数派のせめぎ合いの問題でもある。社会の少数者(この場合はイスラム教徒)の価値観によって、過半数を占める自分たち(非イスラム教徒)の行動が規定される、制限されることをよしとするのか、しないのか。

 筆者はイスラム教を巡る欧州の表現の自由を調査するためにオランダ、デンマーク、フランスを訪れたときに、「自分たちの価値観を曲げたくない」という気持ちが知識人の間に相当強いことを知った。

 イスラム教徒の市民も欧州市民であるから、どんな形でさえ、差別は許されないが、反イスラム感情をもつ非イスラム市民はいるし、そういう気持ちを汲み取る右派系政党が一定の人気を博している。また、実際にはオランダやフランスでは就職差別は珍しくないようだ(アラブ系、イスラム教徒系の名前だと面接まで行かないなど)。

 2011年、フランスではイスラム教徒の女性が外出時に着用する、顔全体をおおうベールの公的場所での着用が禁止されている。世俗分離を徹底するフランスならではの動きだが、社会の少数派と多数派との軋轢(あつれき)はまだまだ続きそうだ。

 

若者、母親、子供がシリアに向かう

 

 現在、西欧が手を焼いているのが、イスラム国家の樹立を掲げる武装組織「イスラム国」(IS)の存在だ。国内に住むイスラム教徒の若者たちの中にISシンパが増えているのだ。

 朝日新聞の定義によれば、ISは「イラク戦争後にアルカイダ系の反米勢力が合流してできた『イラク・イスラム国(ISI)』が、2011年に始まったシリア内戦に介入して改名した」ものだという。活動の中心地はイラクやシリアだ。

 結成までの流れを見ると、2003年のイラク戦争がきっかけだ。さらにさかのぼれば2001年の9・11テロにつながっている。この点から、イラク戦争を主導した「米英がISを生み出した」と言う人もいる。

 そんなISが昨年8月、米国人ジャーナリスト、ジェームズ・フォーリー氏の斬首動画を公開し、今年に入ってからは日本人2人(そのうちの1人はジャーナリストの後藤健二さん)を殺害したことは、日本人にとって、忘れられない記憶だ。

 かつては若い男性が主としてISに参加するためにシリアに向かっていたが、今は若い女性や母親たちが夫を捨て、子供を連れて家を出てしまうケースが相次いでいる。ソーシャルメディアを通じて誘ってくるISに心を奪われてしまう。

 何故、若者が、母親が、子供たちがシリアに向かうのか、どうやったら止められるのか?実のところ、正確には分かっておらず、止める手段についても決め手はない。

 かつて、イスラム過激主義に心酔し、テロ行為を行う人物は「社会に対する疎外感を持つ」「移民として、アイデンティティーを築けない」「教育程度が低い」「貧困家庭で育った」「刑務所で過激思想に触れる」と言われていた。今は「社会に十分に融合している」「比較的教育程度は高い」「中流家庭出身」といわれる人たちが、国外に出てしまう。生活が安定している欧州を捨てて、戦闘が行われる中東諸国、特にシリアに向かってしまう。

 イスラム系の「テロリスト」はかつては外国からやってくる人だった。今は、殉教者として死ぬことを辞さない人物が「国内から外に戦いに出て行く」ケースが目立つ。捜査当局が懸念を抱くのは、海外で戦闘行為に従事した者が、欧州に戻り、市民にテロ行為を働く可能性だ。

 英週刊誌「エコノミスト」(昨年8月30日号)によると、シリアにいる聖戦兵士のうちで海外から参加した人は81カ国約1万2000人であった。このうち、欧州出身者は約3000人。

 欧州域内で最も多いのがフランス(700人)、続いて英国(400人)、ドイツ(270人)、ベルギーとオーストラリア(それぞれ250人)の順だ。人口当たりでもっとも多いのはベルギー、デンマーク、フランスの順となっている。

 イラク領内でのIS討伐のため、米国が空爆を始めてから、8月でちょうど1年になった。米国を含む有志連合によるシリア領内での空爆も昨年9月に開始している。二つの国での空爆数はこれまでに6000回近い。しかし、IS討伐の面では「ほとんど効果が上がっていない」というのが、共通した認識になっている。

 ISに参加するためにシリアに向かう自国民を止められない一方で、シリアやアフリカ諸国(英仏がカダフィ政権崩壊のために空爆を行ったリビアを含む)からは、ISから逃れるためや、生活水準向上のために粗末なボートに乗って欧州に向かう人々がいる。ギュウギュウ詰めのボートから落ちて命を失う人も少なくない。ギリシャ、イタリア、ハンガリーはこうした「ボートピープル」の急増に悲鳴を上げている。

 人が出てゆくのも入ってくるのも止められない欧州は今、混沌とした状態にある。