社会の「潤滑油」バリアフリー ~障害者と健常者の共生社会を目指して~

Y. Hori

Y. Hori

堀 雄太第2回優秀賞受賞

 私が、独立メディア塾で「障害者」や「バリアフリー」について書かせていただいてから、約2年が経過しました。その間、世間の認知は、急激に広がっているように感じます。ネットニュースで「バリアフリー」と検索すれば、数多くの記事がヒットします。これは社会の進化でしょうし、ほんの少し前の時代から考えると隔世の感があります。しかし、記事内容を見ているとどうしても違和感を覚えてしまうことが多々あります。
 自分の中に生じた疑問を辿りながら、障害当事者の視点から「バリアフリー」のあるべき姿を考えていきたいと思います。
 身体にハンディキャップをお持ちでないなど方には、このテーマはイメージしづらいかもしれません。それは無理もありません。ただ、病気、事故、加齢などが原因で人は誰しも障害者になる可能性があるのです。現状は、「バリアフリー」と縁が薄い方も、ちょっと捉え方を変えて記事を読んでみてください。

 なお、私自身が、幼年期の骨肉腫による右足切断(右足義足)の身体障害者ということもあり、私が指す「障害者」とは、身体障害の意味合いが強くなってしまうことにご容赦いただきたいと思います。広い意味で「障害者」を定義づけると、「精神障害」「知的障害」の方々も含まれてきますが、この記事については概ね「障害者=身体障害者」として受け取ってください。

 

普及率が数値目標化することへの危惧

 

 「〇〇電鉄、バリアフリー状況96,7%達成!」などというバリアフリーの達成状況を伝える記事に違和感を覚えませんでしょうか。もちろん、状況が日々よくなっていくこと自体は大変素晴らしいことですし、現在をバリアフリー黎明期として捉えるとしたら、今後の展開が楽しみになります。しかし、記事を少し詳しく見ると、将来的な展望は少なくバリアフリーを数値目標としてのみ扱っており、健常者側の義務感としての面を感じてしまうのです。本来は障害者の社会参加を助け・促すものであるはずのものが、普及率などの数字達成の方が重視されるツールになってしまっていることに危惧を感じるのです。

 では、「バリアフリー」の本質とは何なのでしょうか?
 先に結論を言ってしまうと、「バリアフリー」とは障害者・健常者の双方にとって成長のきっかけとなる、社会の潤滑油であると私は考えています。その結論に達するまでのプロセスをもう少しみていきます。

 今、障害当事者の肌感覚として感じるのは、世の中でバリアフリー等、障害者の社会参加を促す動きが活発化していることです。正確に数をカウントしているわけではありませんが、街中では車椅子の方や白杖の方を見かける機会も多くなりました。駅や商業施設、宿泊施設などではバリアフリー対応のトイレなどが無い方を見つけることが困難になってきています。顕著な例として、今年のリオパラリンピックについてメディアでの取り扱いも、前回のロンドンパラリンピックよりも大きかったと感じています。自分が障害者であるから人よりも目がいくのかもしれませんが、至る所で障害者の社会参加とそれを後押しするバリアフリー設備などが高まる気運にあると感じています。

 

主体的に人生を楽しむ

 

 さて、バリアフリーを推進させる第一歩は、障害者側の「主体的に人生を楽しみたい」という姿勢が一番早いと考えています。こちらの動画や写真をご覧ください。

車椅子昇降機付き観光バス

車椅子昇降機付き観光バス


沖縄ゆいレールの車椅子乗車用自動ステップ

 

 日本有数の観光都市・沖縄での一枚です。東京などの都心では見かけないサービスですが、観光都市ならではのサービスです。初めて見た時はその習熟度には驚きを隠せませんでした。しかし、これらも「沖縄観光を存分に楽しみたい!」という障害者側の気持ちが一番最初にあり、それが無ければ、まさに「仏作って魂入れず」ならぬ「バリアフリー作って障害者使わず」という状況になってしまいます。

 障害者の主体的な気持ちが先か、健常者側のシステム作りが先かはハッキリしたことは言えませんが、私としては、前者が先にあってバリアフリーが発達する社会の方が、本当の意味で健全ではないかと考えます。障害者の主体的な気持ちは、もちろん本人の人生のためでもありますが、それだけではなく、障害者本人やその背景にいる人たちの消費を促すことにもつながってきます。つまり、まわり回って健常者側にも雇用の発生やマネーの循環などの影響が及んでくるのです。もちろん消費活動だけではなく、障害の有無にかかわらず純粋に人間同士が共生していくためのバリアフリーでもありますが、どちらか一方だけではなく両輪の側面で考えていくことが必要です。ヒューマニズムも大事、経済も大事なのです。

 バリアフリーの起点は障害者の主体的な姿勢が先にきた方が良い、というのは別に道徳的な話ではなく、単純に健常者側が手を差し伸べるのを待つよりもそちらの方が早いと考えるからです

 そうは言いつつ、障害者側に対して「主体的に生きよう!」という自己啓発的なモノを促すには、私自身まだまだ経験が足りません。ただ、現在、障害者自身が主体的に生きられるような社会の雰囲気は形成され始めてきています。当然昔から主体的に生きている障害者は一定数いたでしょうが、今はその裾野が広がりつつあるのです。今年のブラジル・リオデジェネイロで開催されたパラリンピックスポーツ大会に象徴されるように、障害の有無に関係なく健常者と同じように自身の人生に挑戦する障害者が増え、それをバックアップする社会的な活動もよく目にします。
 また、2013年に政府が決定した障害者雇用促進の取り組みにより、障害者の雇用状況改善も進んでいます。障害が原因で、自身の人生に悩んでいる方が、ちょっとしたことを見直すことで人生をより楽しむ一歩を踏み出せるための環境は出来上がってきているのです。かくいう私も人生に迷っている時期がありましたが、一念発起して、それまでの民間企業における一般採用から一転して、障害者雇用を利用して素晴らしい環境が整った職場に転職し、人生を大いに好転させることが出来ました。もちろん、人生を大きく変えることにそれ相応の痛みを伴うことにもなりましたが、社会の制度を利用して障害によって生じたハンディキャップを挽回することが出来た、と大変感謝しています。

 

社会が成長するチャンス

 

 主体的に生きようとする障害者が増えつつあり、障害が原因で生じたハンディキャップを挽回できるための社会制度などが整い始めている現在の日本。障害者たちが普通に社会生活を送れるためのバリアフリー環境を築いていかないと、健常者側も世界の流れからどんどん取り残されることになると懸念します。

 その一つに、少子高齢化に伴う生産人口の減少があります。どこにいっても人手不足が叫ばれる現在日本において、障害の有無にかかわらずしっかりと働いて成果を出してもらわねば企業・組織は存在できなくなってきます。ある程度、障害者でも働きやすい環境(バリアフリー)を整えることは雇用側にとって必須になってきます。もちろん、障害者側もちゃんとしたパフォーマンスを発揮することは必要です。

 また、2020年には東京オリンピック・パラリンピックが開催され、世界各地から様々な障害者が日本を訪れることになります。パラリンピック開催期間中も、それ以降も、そうした人たちが日本を漫喫できる環境を整えられるか、日本社会が成長・成熟していく大きなチャンスであると想像します。

 

決してお題目ではない「共生社会」

 

 繰り返しとなりますが、バリアフリーについて障害者サポートを主目的とした単なるヒューマニズとして捉えるか、健常者自身においても物心ともに成長するきっかけとして捉えるか、考え方は自由です。しかし、バリアフリーを障害者の社会参加を促すためだけのものではなく、自身も変わるきっかけとして考えてみれば、その見方も変わってくるのではないでしょうか。

 私は、バリアフリーは障害者側の主体的な姿勢が大事だと言いました。確かにそうなのですが、やはり心情的には健常者側からの積極的な働きかけも期待したいと思っています。そして、障害者でありながら、ほぼ健常者と同じ生活を送っている自分の役割は、両者の架け橋であると考えています。障害者も健常者も別に焦ることはなく、お互いにとってバリアフリーという概念を自分自身が成長できるきっかけとして捉え、考えてみてはどうでしょうか。

■堀雄太の記事

  1. 障害者と健常者の世界をつなぐ“翻訳”目指す(2014年11月)
  2. 「バリアフリー」という言葉を一人歩きさせないために。障害当事者からの提言。(2015年5月)