H.Sekiguchi

 春の海が見たくなって、湘南海岸から真鶴半島までドライブしてみました。が、免許は返納してしまった身。若い人に運転を頼んで出かけたのですが、一人で気ままにあちこち行ける楽しさは失われたものの、真鶴半島に入って海辺に降り立ってみると、間違いなく、少し早い「春」が待ってくれていました。
 
 眩しいくらい晴れわたった空、どこまでも青く澄んだ海。沖合に白い釣り船が三艘、ゆったりと浮かんでいます。砂浜から突き出た岩場には、暖かくなると姿を消す鵜(ウ)が、まだ十羽ほど翼を休めていて、少し離れた所には足の長い白鷺が二羽、その美しい姿をじっと誇っているかのようです。よく見るとそのすぐ側に少し小振りの白鷺がもう一羽。多分そのツガイの雛と思われました。そこに数羽のカモメが飛来して、♪ カモメは低く、波に飛ぶ・・・・ ♪が思い浮かびました。
 そして、岩場を優しく撫でる白波を見ながら、久しぶりに心静まる時を得て、「しばらくこのまま何も考えずに海をみつめていよう・・・・」と思ったところに、ジャンジャラジャラジャラ、ジャンジャラジャラジャラとけたたましい音が鳴り響き、現実に引き戻されました。
 スマホです。「えーっ、こんな時に・・・・」と思いながらも仕方なく出てみれば、事務所からのスケジュールの件。2、3連絡を取らねばならない羽目になりました。

 

 

 その面倒な用を済ませて、再び海に向かってみたのですが、今連絡した件はあれで大丈夫か、そういえばあの人の奥さんの体調が芳しくなかったのではなかったか、体調といえばあの人もあの人も不安を抱えているのだが、特にあの人のことが気になる。そういえばあの人と進めているあの仕事の件をそろそろ煮詰めなければいけなかったな、それにはあの人と相談しなければいけないな・・・・・と次から次に考え事が浮かんで来て、海にも白波にも鳥達にも神経を集中することができなくなってしまいました。

 

 そもそも私達の「意識」というものは目まぐるしく動き回ります。仕事のことを考えているかと思えば、今夜の食べ物のことが気になり出したり、本を読んでいるのに、それとは何の関係もないことが思い浮かんだり「一つのことに神経を集中して!」なんてことを言いますが、それがなかなかできないのが私達。だから「禅」などで「無」を求める修行があるのでしょう。

 

 思えばこの時代に生きる我々は、何かに追いまくられているような脅迫観念の中で生きていて、「無」とはかけ離れた日常になっているのではないでしょうか。スマホ・携帯は四六時中持ち歩かねばならなくなりましたし、数人で食事をしていても誰かがスマホを打っていて、全員の意思統一が難しくなりました。そして世界のどこにいようとスマホ・携帯が執拗に追いかけて来ます。「放っておけばいい」という人もいますが、仕事を抱えるほとんどの人が、放っておけないのです。

 

 何かにせっつかれているようで落ち着きのない日々を、少しでも離れてみたくなって海を見に来たはずなのに・・・・・海辺を離れる私を、ゆっくりゆったり大空を旋回するトンビが見下ろしていました。

 

 帰り際、知り合いの蕎麦屋に立ち寄り、旬の新ワカメでぬる燗をやりました。
「・・・・春だな」と、そこでちょっぴり嬉しさを味わいました。

     テレビ屋  関口 宏