ゴーン事件の深層海流

Y.Watanabe

渡辺 良行

 “ゴーン・ショック”が世界を駆け巡った。日産自動前会長のカルロス・ゴーン被告について昨年11月の逮捕以来、国内外で連日のように報道されている。高額の報酬、社内資金の私的流用、カリスマ的な経営手法など、もはや出身母体の仏ルノーさえ、愛想をつかしたように見える。半面彼がいなければ日産の経営再建はなかったと評価する声も多い。約20年にわたり日産の経営のかじ取りをしてきたゴーン被告。その功罪は今後法廷でつまびらかになるだろうが、今は冷静に歴史を振り返るときでもある。
 なぜなら日産がゴーン氏に助けを求めたのは、同社の経営危機が招いたものだが、その遠因を探ると、この事件の背景にある日産の企業体質にたどり着くからだ。

 
「他力本願」の日産
 

 舞台は今から60年ほどさかのぼる。1957年11月、日本興業銀行(現在のみずほ銀行)出身の川又克二氏が日産の社長に就任した。主取引銀行の興銀は戦後多くの企業に経営者を送り込み、川又氏もその一人だった。しかしこうした天下り組は、大半が絹のハンカチを胸にさすバンカーであり、メーカーの現場経営に手慣れていない。とくに経営不振の企業、労働争議が活発な企業は御し難かった。そこで興銀はプロの再建屋を呼び込んだ。例えば1975年に佐世保重工業の社長になった坪内寿夫氏(1914~1999年)、池貝鉄工、ツガミなどの再建に関わった大山梅雄氏(1910~1990年)などである。
 日産の場合、その役割を演じたのが塩路一郎(1927~2013年)という男だった。
 塩路氏が担ったのは「第二組合」づくり。苦学して明大夜間部を卒業した同氏は、口八丁手八丁のやり手として川又社長に見込まれ58年に労組書記長に。そこを足場に組合を牛耳り、川又―塩路の労使協調路線が確立した。塩路氏は組合内だけでなく、日産社内でも「天皇」と呼ばれる実力者になり、本体の幹部人事にも介入。当時日産新入社員の入社式では、川又社長があいさつした後の二番手を塩路氏が受け持つほどだった。
 塩路氏は論功行賞で米国に留学させてもらったが、その経験を生かして海外に人脈を広げた。当時の日米関係を振り返ると、80年代に入って日本車の大量輸出で米国の自動車産業が苦境に立ち、自動車摩擦が半導体と並ぶ大きな貿易案件になった。米国の自動車産業の本場デトロイトでは、労働者が輸入された日本車をハンマーでたたき壊すという光景が、テレビを通じて繰り返し流れた。

 
日米自動車摩擦と塩路一郎
 

 米国自動車産業にあって、自動車労働者を束ねていたのが全米自動車労組(UAW)のダグラス・フレーザー会長。すでに日本の自動車総連会長になっていた塩路氏はフレーザー会長と懇意になり、80年2月には同会長を日本に呼び寄せた。同会長は来日時、日本のメーカーや政府関係者に会い、対米進出を促した。
 表向き貿易摩擦の解消に動くのはもちろん政府、当時の通産省だが、裏面では日米労働界が影響力を発揮していたのだ。言うまでもなくUAWは米国民主党の有力な支援勢力であり、日本の自動車総連も労働組織の同盟を通じて時の政権に食い込んでいたからだ。日米自動車摩擦は81年から年168万台という日本の対米輸出自主規制で決着するが、その背後に塩路――フレーザーラインがあったことは十分想像できる。
 塩路氏は私生活の面でも目立ち、写真週刊誌で所有するヨットや、夜の社交場での女性との交際写真が報じられ、「労働貴族」の典型と揶揄された。しかし塩路氏は「労働界のリーダーがヨットを持って何がいけないのか」とうそぶいた。

 
プロパー社長、石原俊の登場
 

 こうした中で日産社内には、川又・塩路の二頭体制に反発する動きも出てきた。そのリーダーが石原俊氏(1912~2003年)である。川又氏の2代後の社長になる石原氏はことごとく対立、塩路氏はことあるごとに「石原を潰す」と激しく叫んでいた。
 石原氏は東北大学から日産にはいったプロパーだった。もともと大学時代はラガーマン。がっしりした体格でニックネームは「ライオン丸」。猪突猛進的な気性もあってか自動車摩擦の折、VWとの提携、対英進出など積極的な海外戦力を打ち出した。またのちの経済同友会代表幹事も務めた。
 しかし「川又・塩路対石原」の確執は社内に影を落とした。労使双方で派閥争いが激しくなり、社員のやる気を削いだ。日米自動車摩擦、メーカー同士の競争の激化という背景のもと、日産の業績は悪化、経営危機が叫ばれた。一部では倒産のうわささえ出始めたのである。ここで同社はフランスのルノーと提携、99年にゴーン氏に経営再建のかじ取りを任せたのだ。
 その後村山工場の閉鎖などゴーン氏の「血も涙もない」と言われた合理化で、日産は経営危機を免れた。それまでの日産経営陣では、こんな思い切ったリストラは不可能だったであろう。川又元社長が「塩路天皇」と手を握ったのと同じように、カリスマ呼ばれと呼ばれたゴーン氏は、それまでの日産経営陣にはできない荒療治を断行したわけである。
 振り返ってみると日産という企業は、いつもマスコミの話題の中心にあった。ライバルのトヨタが愛知県三河に本社を構え、首都東京と距離を置いていたのは好対照だった。表面的にはスマートで、新車の開発でも脚光を浴びた。名車と言われた「ケンとメリー」のスカイラインを覚えている方も多いだろう。北海道美瑛町にはケンとメリーの木が今も観光名所になっている。在京の自動車担当記者の多くは「田舎臭いトヨタとスマートな日産」という肌合いの違いを口にした。しかし実際の経営の面では、国内のみならず世界でも三河の田舎メーカーが自動車産業をリードしたのである。
 当時のエピソードを披露すれば、日産社内では「うちの経営陣は本当にクルマが好きなのか?」という素朴な疑問が噴出していた。新車が開発されるとトヨタは幹部がこぞって試乗にやってくる。現在の豊田章夫社長が自動車レースに熱心なのは同社のDNAだ。ところが日産ではそうした動きがあまり見られなかった。スマートな社風なのにクルマへの愛着がない。試走場が離れているという事情もあるが、トヨタとの違いはこんなところにも表れている。しかし再建請負人としてボードに入ったゴーン氏はクルマが大好き。真っ先にハンドルを握っていたそうだ。

 
ナンバー2の悲劇
 

 さて最後に「ナンバー2の悲劇」という特徴に触れておこう。トヨタに続く日産はいつも業界第二位。新型車の開発、排気ガス対策、海外進出、コストカット、労務対策など多くの面で日産はおおむねトヨタの後を追いかけてきた。第三位のホンダや下位にあったマツダが空冷ンジンやロータリーエンジンなど自由な発想で売り上げを伸ばしてきたのとは大きな違いがある。常にトップを意識し、トップ企業のミニモデルで追随しながら、いつしかトップに水をあけられる企業の悲劇である。
 日本の産業界には同じようなナンバー2の悲劇があちこちに見られる。業界再編前の新日鉄に対する日本鋼管、興銀に対する日本長期信用銀行、三菱商事に対する三井物産(化学プラントの分野で)など枚挙にいとまがない。もう少し視野を広げれば、中国が台頭してくる前の米国に対する日本も、経済対立を通じてある面似たような悲劇性を読み取ることができよう。今話題の大阪都構想は、斜め読みすればナンバー2の悲喜劇と言ったら言い過ぎか。
 ゴーンショックは長引きそうだ。今後法廷での争いになろう。目が離せないが、冥界にいる川又、塩路、石原氏が今健在ならば、どんな感想をもらすか。それを想像するのも老自動車記者にとってひそかな楽しみである。