兪 華濬
佐賀県有田町の小高い丘の上に巨大な石碑がある。正面に『陶祖李参平碑』と記されている。16世紀頃、文禄・慶長の朝鮮出兵の折に連れ帰ったとされる一人の陶工を顕彰するものだ。
世界的に有名な「有田焼」の本場である有田町は、人口一万数千の半分が窯業に携わっている。碑の裏側には、その有田が今日あるのは、朝鮮半島出身の陶工李参平のおかげであるという内容の碑文が刻まれている。そして、『…李参平公は有田のみならず、日本窯業界の大(・)恩人(・・)なり…』(現代訳)と続く。
25年前に旅の途中で出合ったこの言葉が、私をこの地にとどまらせた。
日韓併合の7年後に
この碑が建てられたのは大正6年(1917年)、李参平が有田の泉山で磁石を発見し、日本で最初に磁器を造ったとされる元和2年(1616年)から3百年を迎えたことを記念して、町民県民の心を合わせて形となった。
その頃と言えば、日韓併合による植民地支配が推し進められている朝鮮半島では、内鮮一体を謳う数々の政策に対して、民衆の怒りは募り、抗日運動が日増しに強くなっている時であった。そんな時代に、九州の小さな町では朝鮮出身の一人の陶工を、神と奉り、陶芸の祖として崇め、「大恩人」と認めて感謝を表していたのである。
故郷を離れ、遠く日本に連れてこられた朝鮮陶工たちも、また、その技を受け入れ、花開かせた九州の人々も、共に力を合わせて生み出した陶磁器が、以来四百年も世界の人々の心をつかんでいるのであろうと思うと、言葉にならない感動を覚えた。異なる立場の中で、緩やかに認め合い、共に先に進むことを願った先人の知恵とそのおおらかさを見たような気がした。
二つの国を生きてつなぐ
李参平の別の名は「金ヶ江三兵衛」という。彼は、朝鮮人であり、また、日本人として生きたのだ。玄海灘を挟んで二つの国を生きた陶工李参平も、そして国や民族を超えて彼を「大恩人」と謳う有田の人々も、共に「玄海人」ではないか、とその時、私の胸には父が遺した言葉がよみがえった。
「日本と朝鮮半島は、玄海灘でつながっている。二つの地域の二億の人々は、玄海人である」と言っていた父の私への遺言は、『二つの国を生きてつなぐ玄海人になれ』であった。その近さゆえに、波風が絶えず、積み重ねた歴史の中で深いしこりを残してしまった日韓の現状を打開する道は、お互いの主張を譲らず、背を向けるのではなく、並んで共に同じ方向の前を見据えることであると教えたその父に、60年前の幼い私もあの玄海灘の上を渡って日本に連れて来られたのだった。それは、日韓の国交正常化が実現する1965年より10年以上も前のことで、父は領事として福岡に赴いていた。
李参平のように、私も韓国生まれで日本に生きる玄海人でありたい。そして、どんな時にも、互いを意識しつつ、交わることを止めなかった父をはじめ、多くの両国の先人たちの思いを、共に生きた足跡が色濃く残るこの地で、その心を継ぐ者として、また、次の世代に伝える責任を果たさなければと思った。
同一の文化圏、一つの生活圏
日本と韓国は数千年の交流の歴史を持ち、四百年前の文禄・慶長の朝鮮出兵や近世の植民地支配等、幾度かの不幸を繰り返してきている。その結果、時に感情的にもなり、お互い相反する立場で考えるという隣国関係になったまま半世紀以上を過ごしてきた。
しかし、その一方で両国は自然環境や生活習慣などに類似点が多く、思想や文化等、良質の東洋的価値観を共有している。ただ、それを生かす道を上手く見つけられないでいるだけだ。
情報不足から来るお互いの価値観の違いは、しばしば新たな摩擦と誤解を招く。長い間引きずってきた旧世代のわだかまりを無くす作業と同時に、次世代のために先入観をなくし、基礎知識を正しく注入する作業――それを早急に行う必要がある。
広く民間を巻き込んだ地域レベルの交流の機会を多く作ることで、心のわだかまりが解消し、お互いに対する純粋な関心が生まれ、すべての国民による真の友好関係を構築することができるのではないか。
九州の地で改めて日韓の関わりと多くの痕跡に出合って、突き動かされるように取材と記録に没頭していた私は、これらの事実を両国の人々に伝えなければならないと気づかされた。そして、思いを同じくする人々と共に、平成6年(1994年)6月に「玄海人クラブ」を設立した。
設立目的は真の日韓友好関係を実現することである。そのためには「それぞれの国を分けて考えるのではなく、同一の文化圏、一つの生活圏とし捉えて連体意識を求め、両国間の最も近い距離を象徴する『玄界灘(韓国では玄海灘)』に自分を位置づけることによって、半分に縮まった等距離の見方が出来る」のではないか――それが「玄海人」という考え方だ。
玄海人の合言葉
「玄海人クラブ」は設立以来、両国のすべての世代の交流の拡大を目指して活動してきた。「交流茶会」「交流音楽会」「陶芸フォーラム」など、お互いの文化と歴史を学び合い、共に触れ合う機会を作ることに力を注いだ。1人でも多くの両国の人々が出会い、知り合い、理解し合えるようになるための舞台を作る黒子の役割を担いたいと願った。
「知らせる努力・知る勇気」、これは玄海人として生きたいと願う仲間たちの合言葉である。長い間、互いを認めず、許せず、わだかまりに苦しみ続けて来た両国の人々が、共に前へと進むためには、知らなかった歴史を正しく学び合い、真実を伝え合うことが大切であると信じるからだ。
心ならずも、少し長めの梅雨に入ったような日韓のこの頃である。今は手を取り合って、一緒に友情を高らかに歌った感動の声は聞こえない。しかし、厚く立ち込める雲が取れて、晴れ晴れとした空を見上げる日は必ず訪れるはず。そして、心の中にある思いを言葉にすることを恐れなくてもよい日を、きっと近いうちに迎えられるという希望を持ち続けたい。