ニュースはどこからくるのか

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Y.Nakae

 中江 有里

 この一年、テレビ番組「国語表現」で高校生たちと共演している。

 「国語表現」とは、読むだけでなく書いたり表現したりする力を身につけるための授業で、主に通信制高校生の自主学習のために制作されている。論文作成が最終目標だそうで、現役時代に国語表現の授業がなかった身としては「今の高校生がうらやましい」と思うばかりだ。

 授業内容としては、論文作成以外に、自己紹介ならぬ他己紹介、スピーチ、二次創作、敬語、手紙の書き方、電話のかけ方と受け方など、ゲーム感覚で楽しめるものから、社会に出たらすぐ役立ちそうなことまで内容満載だ。

 パソコンでメールを書く、という授業では「メールの書き方も学ぶの?」と驚いたが、当の高校生たちは異口同音に「パソコンではメールしたことがない」と言う。よくよく聞くと

 メールはスマートフォンで打つのが普通で、パソコンは使わないそう。ツワモノになると、二千字くらいの文章はスマホで打ってしまうらしい。

 ある日「投書する」という授業があった。新聞の投書欄に投書するつもりで、高校生それぞれの主張を書いてもらうというものだ。ところがその日の生徒四人ともが、家で新聞を購読していなかった。正確に言うと二人は家で購読しておらず、あとの二人は購読していたが、途中でやめたという。

 「ニュースはネットで読めます」と高校生たちは言った。新聞を取る、取らないという判断は生徒ではなく親がするものだろうから、生徒の言葉はその家庭の意向と言ってもいいだろう。わたしの周囲のスタッフにも新聞を取っている人は少ない。取らない理由を聞くと「ニュースはテレビとネットで十分です」と答えた。

 わたしが子供の頃は、どの家も当たり前のように新聞を取っていた。そして現在、新聞を取らない人が増えた理由は自明である。わざわざお金を出さずとも、情報はただで入るのだから。パソコン・スマホのニュースサイト、SNS むろん有料記事もあるが、検索すればたいていの記事はネット上でただで読める(厳密に言えば通信料はかかるのだけど)。親切な他人がわざわざ新聞や週刊誌の内容をコンパクトにまとめて、ネット上でシェアしてくれていたりもする。

 スマホ世代の高校生たちは、手紙を書かない。年賀状の代わりにおめでとうメールを送る。その方が楽だし、お金もかからない。わたしがもし今高校生だったら、きっと彼らと同じだったに違いない。たまたま携帯もメールもない時代に生まれてしまったので、新聞を読み、手紙を書いた。電話のかけ方と受け方も自然に覚えた。学校で学ぶまでもなかったのだ。

 かつて母が洗濯機を回しながら「昔は洗濯板で洗ったものだ」と誰にともなく言っていたことを思いだす。「給食の脱脂粉乳はまずかった」だの「家に風呂がなくて不便だった」などと、目の前にある便利なものを見るたびに、同じ話を繰り返した。

 洗濯板も脱脂粉乳も知らないわたしには、現在のそれと比べることができない。不便で不快な思い出だということはわかる。

 ところで新聞の件である。

 ネットでニュースを読む人は、おそらく新聞などなくても何も困らない。洗濯板や脱脂粉乳がなくても困らないように。あらゆる情報は無償で、スマホで読めるのが当然なのだ。

 洗濯板は洗濯機に発展し、脱脂粉乳はよりおいしくて栄養バランスのとれたメニューが生まれたからなくなったのだ。家風呂が増えた代わりに、需要のなくなった銭湯はどんどん消えていった。それと同じように新聞が消えたとしても、スマホがあるからかまわない。

 しかしスマホのニュースは、スマホが生んでいるわけではない。

 ネット上で読めるニュースは、主に新聞の部分コピーだということに、どれだけの人が自覚的だろうか。新聞社はネットに自社ニュースを提供しているが、自らの首を絞めているように思えて仕方がない。

 だれもがニュースの矛先に目を向けるが、どこからニュースがくるのかには興味を示す人は少ない。

 新聞がなくなったら、ニュースはどこからくるのだろう。