今だからこそ求められる記者魂

T.Kasuya

T.Kasuya

粕谷 卓志

 この春うれしい便りが届いた。

 「おかげさまで内定をいただきました」
 「粕谷さんのアドバイスが役に立ちました」

 私が講師をした就職セミナーを受けた学生たちからだ。二人とも民放キー局から総合職の内定を得たのだ。

 こんなときが一番うれしい。

 私が販売部長をしていた2000年にエントリーシートの添削や勉強会など、学生と新聞を繋ぐ就職セミナーを立ち上げた。以後編集に戻ってからも多くの学生を新聞、放送、広告などメディア業界に送り、すでに各社の中堅として活躍している。

 今年もまた、言論の自由の騎士を目指す人たちを送り出せたことを幸せに思う。

 

ブランド力回復がカギ

 

 残念ながら新聞・放送報道のブランド力はこのところ下がっている、と私には映る。

 裏付けるように数字を見ても、新聞発行部数は右肩下がりである。その勢いは止まらない。

 日本新聞協会によると、2000年全国で約5300万部、1世帯あたり1.13部あった新聞発行部数は、2008年に1世帯当たりの購読部数が1.0を割り込み、2015年には4400万部、1世帯あたり0.8部まで落ちた。16年間で約900万部。全国紙1紙がなくなってしまうくらいの大きな落ち込みだ。

 テレビの総世帯視聴率(HUT)も1980年代にかけては19時から22時までのゴールデンタイムで80%近くあったが、これも近年は60%台まで落ちた。

 若い世代の新聞・テレビ離れは本当に顕著だ。

 最近、いくつかの大学で「就職」についての講演・講義をした。毎回聞くことにしていることがある。

 「家で新聞とっている人?」

 自宅から通っている学生以外、一人暮らしの学生からはほとんど手が上がらない。ニュースを知らないわけではない。たいていは携帯やWEBで知る。テレビで知る学生もいる。一報や概要はよく知っている。だが、その背景や解説的な事を知る人は多くない。自分が興味のあることはネットで検索するからだ。一覧性の高い新聞なら興味がなくても目に入ることはあるが、いまはそれもない。興味のないものは、知らないままだ。

 インターネットやSNS、CS放送やBS放送など読者、視聴者の選択肢が広がり、新聞やテレビが従来のような必需品であるとユーザーはもはや感じなくなっている。

 

伝言ゲームの怖さ

 

 では、既存メディアはこのまま絶滅危惧種になってしまうのか。

 その問いに、「努力を怠ればそうなるだろう。しかし、私はまだまだ希望はある、と信じている」と1年前に私はこのサイトの欄で書いた。

 いま、「絶滅危惧種」への危機感は一層増し、同時に「信念のある記者を今こそ育てなければ」と強く強く思うようになっている。

 ネット上にあまりにも無責任で、よって立つところのない不確実な、不誠実な文章が氾濫しているからだ。

 噂や推測が、ネットで引用されるたびに伝言ゲームのように変質する。

 「・・・らしい」「・・・という説を唱える人もいる」が、「・・・だそうだ」「・・・ということだ」と、まるで事実かのように変わる。恐ろしい。

 物事を伝えることは大切なことだが責任も伴う、ということが理解できない、畏怖の念のない人々ばかりになっては、世の中大変なことになる。

 

調べて書く。当たり前の必要性

 

 取材して、調べて、聞いて、自分の目で見て、伝える。

 それは時に、伝えることで傷ついたり悲しんだりする人がいるかもしれない。だからこそ、間違いなく、事実をきちんと伝える。

 当たり前のことを当たり前だと思う記者が必要なのだ。

 新聞やテレビ局など、組織の中で働く記者は、それぞれの組織がいまも記者教育を怠っていない。一定の教育を受けた後も、第一線で取材しながら日々学ぶ、オンザジョブトレーニングを積んでいる。

 大手ニュースサイト編集部と日刊一般紙が人事交流し、編集部員が新聞社に出向して記者として取材し記事を書いているというのをサイトで読んだ。「現場」を歩くことで「情報の第一歩が報道機関なんだとよくわかった」。マスコミの「信頼性は高いと思う」などと感想を述べている。ありがたいことだ。こうした認識がもっと広がってくれればと願う。

 訓練され現場で鍛えられる取材力とそれを公表する実践力は、ニュース素材をもとに再構成する配信記事とは圧倒的に違う。

 とりわけ、こうしたプロの記者たちの取材力とそれを公表する実践力を発揮できるのが「調査報道」だ。

 発表に頼らず、調べて書く。権力が隠したい話を掘り起こして世の中に伝える。一つ一つ事実の裏付けをし、確認されたものだけを書く。そうして書かれた文章の伝える「事実」の重みは、格段に違う。

 私もかつて、調査報道の案件に数多く携わった。

 この件はまだ関係者も多くおり取材経過にかかわることなので具体名は避ける。警察も検察もメディアも、どこも手つかずの案件だった。証拠となるものは入手したが署名が当事者のものかどうかの確認が書く上での一つの関門だった。もちろん最終的には当事者にもあたったが、最初から当事者本人に聞いても自分に不利益になることなので書いたかどうか話すはずはない。本人からの差出郵便物も代理署名が可能なわけで「本人が書いた証」にはならない。

 それでも調べ探せばあるものだ。過去に届いた手書きの手紙、自筆が求められる署名、履歴書、サイン、公的申請書、パスポート・・・数か月をかけて入手した。複数の書類を筆跡鑑定に出し「ほぼ同一人物によるもの」の鑑定を得た。一つの関門を超えた。こうした「事実」を積み重ね、大きく報じた。

 取材メモや取材経過はチーム共有のノートにすべて残した。原稿を記事化する際は、そのノートをもとに原稿の一字一句を点検し、推測はないか、筆が滑っていないかなどを複数の眼で確認した。私たちのチームが書いた記事に対する事実関係の抗議はなく、後に当事者の一方は別の案件で刑事事件となった。

 

どうなるではなく、どうする、の気概を

 

 このところ人々が知らない話を週刊文春が発掘し報じることが目立つ。見事だ。

 「週刊文春すごいですよね」といった後輩に、「すごいと思うのではなく、『今度は自分が掘り起こす』という気概を持て」と叱咤激励したことがある。自省を込めていうならば、既存メディアは週刊誌やライバル社が先行した事例は過小評価し、追いかけずに結局小さな事案で終わらせてしまう悪習が昔からある。だが、本当はどこがスクープしようが大事なものは自分たちの課題として懸命に追いかけきちんとした社会問題にしなくてはいけない。

 そうした互いの競争力が再び「新聞を見なければ、テレビニュースを見なければ、本当のことがわからない」と人々に認識してもらえるブランド力の回復に繋がるのだ。

 私が所属していた朝日新聞についていえば、私が編集担当・編集局長をしていた2008年の入社希望者は全体で6000人近かったが、今年の応募者は2000人台になったという。だが、面接官によると、1次2次と進んで終盤面接に進んだ学生の意欲、思いは2008年当時と変わらず高い志を持った学生諸君がたくさんいるという。ホッとした。

 記者を目指す人たちは、いまのメディアに失望せずに挑んで欲しい。

 「これからこの業界はどうなるのか」と案ずるのではなく、これからこの業界を「私がこうする」という意気込みが必要だ。

 私の話を聞いてこの業界に飛び込み、伝える大切さ、大変さ、喜びを記者として感じてくれいる人たちもいる。求めに応じてこの秋から就活生を対象にした「粕谷塾」を開くことにした。少人数だが、私の想いを伝えたい。記者魂を持ってもらいたい。

 関心のある人は以下のホームページを見ていただきたい。

粕谷塾

 

さわやかな朝の効能

 

 最後に、お読みいただいたすべての就活生のみなさんにちょっといい、参考になる話を。

後輩のアナウンサーは、毎朝、鏡の前で大きな声で「さわやかな朝」というそうだ。「さ・わ・や・か・な・あ・さ」はすべて母音の「あ」である。口を大きく開けて、それこそさわやかに発音しなければ「爽やかさ」は伝わらない。

 私は就活に臨む学生たちに話をするとき、毎回言うことにしている。

 「どの業界も爽やかな印象は好感を持たれる。毎朝あなたもやってごらん!」

 自由にものを言える、人の話をちゃんと聞ける、当たり前の世の中を続けるために、いま、あなたの記者魂が求められている。