クールメディア

H.Sekiguchi

H.Sekiguchi

関口 宏

 先日、私の担当するインタビュー番組(BS・TBS,「人生の詩」)で、「人は誰しも心の中に、獣(けもの)のような衝動を抱え込んでいて、きっかけさえ与えられれば、狂気に走るのが人間だ。」というような話になりました。
 諏訪中央病院の鎌田實さんの、「人間」というものを考える上で示唆に富むこの話に、つい私も聞き入ってしまいました。

 となるとテレビは、良きにつけ悪しきにつけ、そのきっかけ作りの一翼を担っていやしないか、テレビ屋として、考えておかねばならない事だと思われるのです。
 半世紀ほど前、「テレビの本質」を研究した、マクルーハンというアメリカ人がいました。
 彼の理論は実に難解で、限りあるこの欄でご紹介し切れませんし、正直、消化不良気味の私ではあるのですが、とにかく彼は、映画・ラジオは「HOTメディア」、それに対し、テレビを「COOLメディア」と言い切って、異なるメディアであることを強調していました。

 

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「人生の詩」 関口宏 × 医師鎌田實

 

 [COOL]・・・・・・
 たとえば「クールジャパン」などに代表されるように、「格好いい」という意味合いもありますが、本来の直感的響きは、「冷たい」とか「さめた」なのでしょう。

 では、テレビは冷たい、テレビはさめている、とはどういうことなのか。

 多少私なりの解釈も交えますと、つまり、「冷静」「客観的」というようなニアンスになるのでしょうか。
 暗い空間でドップリ浸かって、時には登場人物に自らを重ね合わせて観る映画に比べ、テレビの視聴者は、結構「冷静」に画面を見ていて、送られてくる情報を、「客観的」に判断しようとするメディアだと、マクルーハンは言いたかったのだろうと思います。

 「客観的」・・・・・それは情報の確認、分析には優れた一面を発揮しますが、一方で、その「客観性」が度を越すとどうなるか・・・・・

 大体テレビというものは、火燵に入って煎餅ポリポリとか、ソフアーに寝っ転がってコーヒーを啜りながら見るようなもの。
 しかしその時、テレビの画面に悲惨な事件の現場が写し出されたりして、煎餅ポリポリと悲惨な事件という、なんともアンバランスな状態の中で見ることが、自然に許されてしまうメディアではあるのです。

 そしてそれは、個人差はあるでしょうが、度を越した「客観性」が、人の中から、更なる「客観性」を引っぱり出し、事件は遠くの出来事になり、ひいては、「他人事」、になってしまう傾向があるように思われます。

 やがてそれは、現代文明の「闇」とも呼ばれる《ニヒリズム》(虚無主義、現実逃避的考え方)に結びついて行くことになりはしないか・・・・・・

 

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ニヒリズム

 

 一時(今でも時々見かけますが)、「いじめ」要素が含まれた番組がもてはやされたり、ニヒルな笑いがうけたりしたのも、テレビのこうした一面、つまり「他人事」感覚を刺激した結果なのでしょう。
 また、必要以上にスキャンダルを追いかけ回すことも、同様のことのように思われます。

 ある日、出版社の友人が、私にこう言いました。
 「親しき仲にもスキャンダル」。

 「上手いっ!」と思わず拍手してしまいましたが、これとて「他人事」、ひいては《ニヒリズム》の危険性を孕んだものなのかもしれません。
さて、雹だの豪雨だの猛暑だの、テレビは異常気象のニュースに事欠かない昨今、これも、我々の文明の偏りが、「温暖化」を招いている結果なのだろうと、テレビでいくら説明されても、なかなか「自分事」にならない悲しさ。
 これもある種、テレビの「客観性」の成せる業かと、思わされるのです。

 そして今、日本の国の形が大きく転換されようとしている「集団的自衛権」などが、もうひとつ盛り上がらないのは、「テレビ」、「客観性」、そして《ニヒリズム》の所為でなければよいが・・・・・と思っているのです。

テレビ屋  関口 宏