「東海道五十七次」を葬り続けて良いのか

T.Shida

東海道町民生活歴史館 館主兼館長
志田 威

「大坂から監視」の家康戦略

 「東海道は53次」と教えられた人が多いだろう。しかし正しくは「57次」ということを知っていただきたいと思う。

 今年は明治150年。慶応から明治へと改元した激動の年だ。1月3日の鳥羽・伏見の戦いから始まり徐々に全国的な内戦へと発展した。東海道伏見宿(京都)には今なお商店街などに銃弾跡が残り、戦火の激しさを伝えている。次の淀宿に至っては完全に廃塵に帰し、現在宿場町を伝えるものは全く見当たらない。三日間の戦闘の後、幕府軍は大坂城へと敗走した。途中の枚方(ひらかた)宿、守口宿等には、小さな灯を頼りに夜道を逃げまわる様子が語り継がれている。1月6日、徳川慶喜は大坂城を放棄し会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬と共に軍艦開陽丸で江戸に向かった。

 伏見・淀・枚方・守口の沿線4宿を含めいわゆる大津追分(髭茶屋追分=ひげちゃやおいわけ)から大坂高麗橋に至る街道筋は戊辰戦争の勃発地だ。日本橋から始まり京都までの最後の宿、大津宿がよく言われる「53次」目の宿場だ。しかし、「西国に配した外様大名を大坂から監視する」という大坂を重視する家康の意を受けて、2代将軍秀忠が大津から大坂の間の道を新たに整備して4宿が加わり、東海道は「57次」になった。大坂重視政策に直結する重要道であった。幕府役人が大坂城との連絡にも使うための東海道の延長がまさか幕府軍の退却に利用されるとは、秀忠も夢にも考えなかったであろうが、実に歴史は皮肉なものである。

 

異色の宿場、伏見、淀、枚方、守口

 「53」から「57」に延長された区間の中心・伏見宿は家康が最初の銀座役所を置くほど重要視し、貨幣鋳造所などが作られた。天保14年(1843年)の幕府記録では東海道57宿中、戸数でも人口でも断トツの規模を誇る最大都市であった。

 薩摩藩は伏見宿の御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ・ごこうぐうじんじゃ)に陣を張り幕府軍と戦って勝利したことから、神社は新生日本発祥の地ともいうべき場所となり、現在もそれを解説する説明板が置かれている。伏見は京に近いことや竜馬の定宿・寺田屋の復元などで広範に知られている。更に大坂方面に向かうと、朝鮮通信使が上陸地として利用した淀宿、淀川を往来する舟の中継地として知られた枚方宿、最終の宿、守口宿へとつながる。何れも東海道に義務付けられた伝馬業務や継飛脚を忠実に遂行した宿場町で、淀川の三十石船に客を奪われ下り客は少なかったが、上り客で賑わうことから片宿と呼ばれる、異色の4宿であった。

伏見宿   船宿・寺田屋

 

古文書が記録する「57次」

 この4宿を加えて東海道が「57次」であることは多くの古文書に記録されている。大津追分から左折し、伏見・淀・枚方・守口の4宿を経て大坂に至る東海道は文化3年1806年の幕府地図(東海道分間延絵図)や天保14年の幕府調査(東海道宿村大概帳)にも記載され、幕府は明確に「東海道は大坂までの57次」と伝える。更に枚方宿や守口宿には「東海道守口宿」などと記載された帳簿類が多数現存し、東海道が大坂までであったことは疑いない事実だ。

 家康の定めた「京を終着地とする宿駅伝馬制」は明治初期まで維持され、その間、「江戸から京への53次」と「大坂への57次」が併存したが、歌川広重は京への道中を描いたので「東海道五十三次」と名付けた。

 また、参勤交代を本格的に導入するようになると西国大名が朝廷に接近しないよう、京を迂回し大津追分経由で往復するルートを指定した。その意味で57次は幕府にとって好都合な街道であった。その結果外様大名による朝廷接近、幕府転覆などの動きも見られず、天下泰平の世が続いたと考えると、家康・秀忠・家光3代による街道施策の巧みさに感心させられる。

枚方宿 船宿・鍵屋

 

「53」の犯人は広重か

 東海道が京までの53次として認識され続けたのは、京への旅を「東海道五十三次」として発表した広重版画の影響といって過言で無い。保永堂版を始め行書版、隷書版など数多くの版で京への道中を「東海道五十三次」として発表し、何れも高評価を得たことから、更に版を重ね国民は「東海道は京への53次」と思いこんでしまった。結果的に大坂までの「東海道57次」は葬られた形になった。広重も街道の真実が歪んで伝わったことに反省しているのではなかろうか。

 確かに広重絵画は往時の旅、景色や宿場生活を解り易く伝え、写真の無い時代を知るには最高の資料である。何れのシリーズも絶賛すべきで、国民栄誉賞ものである。

 当時の旅では宿場毎に人足・馬を交代することが義務付けられており、京へは53回交代しなければならなかった。この点に着目し「京への道中」を「東海道五十三継」と名付け、更に「宿継」について「宿次」と書く流行りも採り入れ、それまでにない発想で「東海道五十三次」と発表した点に広重の計り知れない才覚を思い知らされる。

 街道の宿場数は時代と共に変化しており、○○街道□□次という断定的な表現は誰も使わなかった時代に、このような斬新な画題を採用し、強烈にアッピールしたところに彼の非凡さがうかがえる。家康は今頃「『絵筆は刀剣より強し』なのか」と広重に完敗したことを認めていることだろう。

 このように広重画が東海道57次を葬る引き鉄となったことは間違いないが、しかし京への東海道も併存した以上、広重に責任はなく、むしろ「広重の浮世絵だけを紹介し、幕府記録を紹介しない史実伝承」に問題ありと言わざるを得ない。東海道を大坂までに延長したのは幕府の重要施策であり、事実は古文書類で証明されているにも拘わらず、53次だけを伝承することに、関係者が静観し続けてきたのは何故なのだろうか。

 幕府が記録を遺し、しかも二組現存する東海道分間延絵図のうち将軍所持の絵地図は重要文化財として東京国立博物館で公開され、これが大坂までの57宿を明確に記載している以上、正しく伝承しようという動きがあって然るべきではなかろうか。

守口宿 57次を伝える旧家

 

「57」を無視する教育と誤った解説

 日本史について最も権威あると云われる国史大辞典(吉川弘文館)で「東海道」と検索すると「五街道の一つ。江戸日本橋より京都までの街道と、大津より分かれて大坂に至る街道をいう」と解説してあり、更に「幕末東海道宿駅一覧」として、品川宿から守口宿までの57宿場について、江戸からの距離、男女別人口、本陣・脇本陣・旅籠数など細部にわたって記載している。全17巻というこの大辞典は、平成元年に出版され多くの図書館が所蔵する日本史辞典で、信用度100%と評価されているが、この大辞典が解説する内容と異なり、浮世絵の題名に重きをおいて教え続けるのは残念としか言いようがない。

 街道を歩くと教育委員会や観光部門による案内掲示やパンフレットが置かれ、その地区の歴史・史話・名産等が紹介されている。宿場見学の情報源として役立ち、貴重な史話等が紹介されていると期待感も膨らみ、散策が楽しみとなる。しかし明らかに誤った解説が増えているのも事実で、誠に残念だ。例えば、「家康は京都までに53の宿場を置いた」とか「問屋場(とんやば)跡」などの解説・案内を見掛けることが多くなってきたが、「家康は40程の宿駅しか設けておらず、秀忠が箱根宿(神奈川県)などを追加し、さらに53次と57次の完成は庄野宿(三重県)設置の家光時代で、伝馬制開始後23年目の寛永元年」であった。箱根は10番目、庄野は45番目の宿になった。また問屋場は「といやば」と呼ぶ宿場の中心地であり、このような基本的なことに誤った伝承は許されず、正確な記述が必要である。

 幕府資料より浮世絵等を重視するような安易な伝承が定着し、また江戸時代の街道管理とは全く異なる解説が増えつつある。教育の現場でもいまだに「53次」が主流だ。東海道の大坂延伸について欄外などで触れる高校教科書や大学受験参考書が一部出現したとはいえ、ほんの僅かに過ぎない。

 明治150年という記念すべき年に当り「東海道57次」を含め「史実の正しい伝承」について、各分野の幅広い検討と適切な対応を切に願う次第です。

 

守口宿 盛泉寺
(幻の大坂遷都を伝える賢所跡[柵の中])