咀嚼されるメディア

K. Okinaka

K. Okinaka

沖中 幸太郎

本の役割-記録と伝達

 メディアは、技術の進歩のたびに、当初の形から随分と変わり、その扱われ方も大きく変化しました。これは多くの人々がメディアに関わってきた結果であり、今後も技術の進歩により、ますます多くの人々が関わり、咀嚼され進化していくものと考えています。

 今回は、私の現在のインタビューテーマでもある、「本」というメディアの一つが「電子書籍」の登場によって、どのように変化していくか、携わる人がどのように変わり、また変わらないかという視点から、メディアの未来について考えてみたいと思います。

 今回のテーマである「メディア」ですが、どのように定義されているのでしょうか。調べてみますと、

 メディア【media】《mediumの複数形》①媒体(バイタイ)。「電波—〔=テレビ・ラジオ〕」②[情]⇨記憶(キオク)媒体。③手段。媒介(バイカイ)物。「ことばという—を通して」④マス メディア。「—に登場する」(三省堂国語辞典第七版より)

 とあります。

 「本」というメディアの未来を考える際も、情報を記録・保管する役割と、それらを伝達するためのコミュニケーション機能という、二つの役割があるという事をしっかりと認識する必要がありそうです。

 

そもそも別の存在だった「本」と「電子書籍」

 

 Apple社のiPadの日本上陸によって、2010年は日本における「電子書籍元年」と位置づけられ、また「グーテンベルグ以来の革命」と謳われ、従来の「本」を取り巻く環境が大きく変化していくと予想されました。「電子書籍」に関して様々な意見が交わされ関連書籍もたくさん出版されました。

 その中には、「電子書籍が紙の本を駆逐していくのか」という旧来の紙の書籍と、電子書籍の二項対立として取り上げられたものも多くありました。この「紙vs電子」という概念の根底には、「本=記録メディア」という役割のみが前提にあったのだと思います。

 あれから4年、当初期待や危惧されていた(?)状態とは大きく違った様子になっています。電子書籍は紙を駆逐しなかったし、また出版不況の衰退の原因に電子書籍はなりえなかったとも言えます。むしろ取り組んでみてわかったことは、電子書籍は紙の書籍と補完関係になれるかもしれない、対立軸にはなかった、そもそも別の存在だった、さらには「本=記録メディア」という役割だけではない、新たな可能性も見えてきました。

 

独立メディア塾「咀嚼されるメディア」

咀嚼されるメディア

 

ピリオドとしての「本」、新たな可能性を持つ電子メディア

 

 では、そもそも別のメディアだったことが判明した「本」と「電子書籍(ここから仮と名付けてみます)」が、どんな道を歩むのでしょうか。双方のメリットデメリットが、互いの特性として活かされた時、独自の進化を遂げていくのだと思います。

 例えばこのコラムがホッチキスで止められ印刷され冊子になってしかるべき時期に配布されるのが前提だったとします。締め切りがあり、良くも悪くもその時点でのピリオドを打たないといけません。そして印刷されたが最後。読み返して、「ああ、こんなこと言っている」と書いた本人は嘆き、闇に葬り去りたくても、容易にはいきません。紙である以上、修正が容易ではないというデメリットがあります。

 「電子書籍(仮)」はどうでしょう。その点、技術的にも修正は容易ですので、簡単に書き換えられるメリットがあります。情報は即反映されるので、雑誌やニュース、図鑑や法律書など活用の場は広まりそうです。また、視覚にハンディキャップを持った方たちの可能性を広げます。以前より、点字や朗読をはじめとする試みにより、読書のすそ野を広げる努力はなされていますが、残念ながら必要とされる量よりはるかに少ないのが現状です。

 今すでに一部始まっていますが、技術によって、音声読み上げ機能や文字の拡大がすべての書籍に実装されたらどうでしょうか。老眼による読書困難の解消、移動中の「聞き書」としての活用。技術によるアクセシビリティの向上化、ユニバーサル化も、この問題を考える上で非常に重要であり、また不可欠だと思います。

 また現在、商業ベース、採算にあうものを念頭に出版されることが多い中で、人類知の結集を担う出版の文化を守るという意味でも、多様な選択肢は重要です。

 ただし、情報の更新性や修正の容易さが、紙の本にある、ピリオドとしての価値を落とすとみなされるように、デメリットになることもあります。

 完結することができるからこその役割、記録される=年をとることができることに重点を置いた「本」と、速報性があり常に新しい=年をとることができない、「電子書籍(仮)」。

 さらに多様な立場を考慮した、「本」と「技術」の融合。

 「本」と、「電子書籍(仮)」の少し先の未来が少しずつ見えてきた気がします。

 

独立メディア塾「咀嚼されるメディア」

咀嚼されるメディア

 

見直されるコンテンツ

 

 新技術に対しての反応反発はいつの時代にもありますが、一番重要なのは人間がより進歩していく事だと思います。そのための選択権が増える。全否定するのは、もったいない。逆に電子礼賛も、冒頭のメディアの役割に照らし合わせると、どうも違う感じがします。

 本や音楽、写真ですと、五感をフル活用した読書、データだけではなく質感として聞きたい音楽、あえてアナログな質感を楽しむ写真アプリなど。それは個々人の経験や想い出、嗜好、により選択されるもので、技術は新たな選択肢を提案するもので、それによって作品自体が見直されるきっかけにもなります。いずれにしても、今までと同様に、ちゃんとバランスが保たれて、人間と技術の共存が図られていくようになるでしょう。

 ここまではまだ、記録メディアの発達段階である、「電子化書籍≒電子書籍(仮)」の内容でした。さらに、コミュニケーションの要素が加わった時、人々の未来にどのような効果をもたらすか、メディアの未来とコンテンツの作り手である発信者と編集者、受け手である読者の変化についてもう少し、想像してみたいと思います。

 

咀嚼されるメディア、次の一歩

 

 「本」に、コミュニケーションの要素が加わった時、「本」、「電子化書籍」、「電子書籍あらため、別モノメディア(仮)」という進化の枝別れをしていくと考えます。「本」と「電子化書籍」は、メールをわざわざ電子メールと言わないように、呼び名が逆転するかもしれません。

 コミュニケーション機能を実装した「電子書籍あらため、別モノメディア(仮)」においては、受信者が感じたミクロな情報、たとえば「この文章の一節に似たような事例を最近体験した。こういった問題も取りざたされているよ(→リンク)。」という反応が、今度は発信者として伝えられ、同じような他のミクロな情報と融合して、今以上に盛んにやり取りされることが予想できます。

 これに「マスコミュニケーション」が加わるとどうでしょう。私は「マスティケーションメディア(=咀嚼されるmastication)」になっていくと考えます。その走りは、すでにTwitterやFacebookなどのSNSで見られますが、グーグルグラスのように、生活に密着した、あらゆるライフログが統合され、かつオープンなものなった時、発信者と編集者と受信者の立ち位置に変化が生じてくると考えます。

 

多様で異質な人々の参加が、新たな歴史を生み出す

 

 私はお酒が好きなので、日本酒を例にあげてみます。お米が作られ、食べられる用途以外にも、様々なものがお米をもとに作られていました。お酒の場合、ざっくりいうと米が麹や酵母菌によって咀嚼され発酵を経て、おいしいお酒になります。その間、杜氏の方が手を加え、それを見守ります。

 その後、商品になった日本酒を私たちは口にするわけですが、さらに「おいしい!」「まずい」という意見が重ねられ、商品の反応となり、次の酒づくりにも生かされていきます。

 もちろん、意見を聞くこともあれば、「うちはこうなのだ。」と安易に変えない場合もあります。逆に様々な意見を収集して、積極的に酒作りに生かすところも出ます。そうして、また世の中に様々な商品が並べられます。

 メディアに話を戻しますと、発信者と編集者と受信者も、少々強引ですがそのような状態になぞらえる事ができると思います。いったん発信者と編集者によって出来上がったメディアコンテンツは、受信者が参加することによってマスティケーションメディアとなり、そこでは活発な議論が行われます。発信者と編集者と受信者は融合するけれども、それぞれの役割自体は消滅しないと言えます。

 冒頭で、「紙vs電子」の二項対立で語られることの危うさについて触れましたが、それは多様な人々の意見の不在による議論が原因だったと思います。新しい考えは、二項対立では生まれにくいですし、もっと多様で異質な人々の参加が必要不可欠なのです。

 その多様で異質な人たちが、どうすれば相互に承認し了解(理解ではない)し合えるか、今まで人類が解決しえなかったことの幾分かは、こうしたマスティケーションメディアの登場によって、解決に進み、そのときこそ、主人公は私たち一人一人であり、技術は、その手助けとして存在するのだと思います。