君和田 正夫
天皇即位、令和のスタート、そして台風被害など激動の一年でした。政治の方では怪しげな「桜を見る会」をめぐる混乱が続いています。保身を優先する政治家は「文書を廃棄した」と真相解明に見向きもしません。「令和」がさぞかし泣くことでしょう。文書廃棄は、昔から権力者たちが大掛かりに行ってきました。今昔を比べてみましょう。
「(1945年8月)15日、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総督府に公文書焼却の指令書を持っていった」(2015年8月10日、読売新聞連載「戦後70年 あの夏」から)
当時、内務省の事務官だった奥野誠亮氏が公文書の焼却について語った記事です。奥野氏はのちに政治家になり、法務大臣もつとめました。焼却の目的は明らかです。天皇、政治家、軍人が戦争責任から逃れるためです。
膨大な文書を焼却
終戦時の公文書焼却は、残されていた公文書でも確認されていますし、日記などの私的文書にも記録されています。膨大な文書を蓄積していた東京・霞が関や軍部のあった市ヶ谷などでは、何日間にわたって焼却の黒煙が立ち昇っていました。
焼却は戦争の経緯などについての歴史研究に大きな打撃を残しました。焼かなければ戦争責任や東京裁判をめぐる論争は今とは異なる形になっていたでしょう。戦犯を裁く東京裁判にも影響しましたおそらく政治家も役人も焼却は歴史を焼却することと同じだ、という自覚はもっていたでしょう。にもかかわらず焼却したのはなぜか、戦争責任の回避しか考えられません。
「非ドイツ」を焼いたナチス
公文書ではなく国民が持っている書物を焼いた二つの例を挙げましょう。国民の生活、文化、歴史などに大きな影響を残しました。
第二次世界大戦で日本と同様に敗れたドイツでは、ヒトラー率いるナチス主導により「非ドイツ的」な本が焼却されました。1933年、ベルリン大学では学生が焼却の先頭に立ちました。「燃える上がる薪(まき)の山は全部で十二、しかもそれがおのおのの哲学、長編小説、ドラマ等々、専門分野に割り当てられていた」(「ナチス通りの出版社」=山口知三、平田達治、鎌田道生、長橋芙美子著)。ベルリンでは二万冊以上の本が焼かれました。この中にはマルクス、フロイド、ケストナー、レマルクなど著名な学者や作家なども含まれていました。
ヒトラーは大変な読書家だった、と元東京都知事の舛添要一氏が語っています。舛添氏は都庁を去るとき4000冊の本を捨てざるを得ず、現在の蔵書は1万6000冊に減ってしまいました。「ちょうどヒトラーの蔵書と同じ数」になったそうです(11月25日、朝日新聞デジタル)。
本好きが本を焼く、不思議に思えますが、ヒトラーは本の計り知れない影響力を知っていたのでしょう。
もっとさかのぼると、紀元前200年代の秦の始皇帝に行きつきます。戦国の中国を、初めて統一した王様であり、万里の長城でも知られていますが、「焚書」でも有名です。薬、農業、占いなどを除いて民間人が持つ書物を焼いたのです。
法律に守られた「廃棄」
今時、国民が持っている本を焼く権力者はいないでしょう。その代わりさらに巧妙になっている、といっていいでしょう。国民の共有財産というべき文書、資料などが、法律などに基づいて合法的にシュレッダーで処分されているのです。
「桜を見る会」には「反社会的」勢力も招かれていたようです。政府の対応は「招待者名簿は廃棄してしまったのでわからない」ということです。誰でも「本当?」と思うでしょう。忘れていけないことは、この廃棄が公文書管理法に基づいた措置ということです。
過去にも似たような“事件”がたくさんありました。
2012年から2017年まで南スーダンに派遣された自衛隊のPKO派遣部隊の日誌は当初、破棄したと答えていました。保管されていることが分かった後は一部黒塗りで公開されました。
「最後には人間をも焼くだろう」
廃棄だけでなく、いろいろな方法があります。森友学園事件では財務省が国有地売却についての書類を改ざんしました。また安倍昭恵夫人のお付きの職員が森友学園に送ったファックスは行政文書ではない、私的文書だということで、情報公開の対象から外れました。
公文書管理法といい、情報公開法といい、また黒塗りといい、国民のための法律が、権力者にとって便利な法律になっていることを示しています。
ナチスの焼却についてハインリヒ・ハイネが言った言葉を引用します。
「それ(焼却)は一つの序曲にすぎなかった。書物を焼くところにあっては、最後には人間をも焼くだろう」(ナチス通りの出版社)。
天皇即位、令和のスタート、そして台風被害など激動の一年でした。政治の方では怪しげな「桜を見る会」をめぐる混乱が続いています。保身を優先する政治家は「文書を廃棄した」と真相解明に見向きもしません。「令和」がさぞかし泣くことでしょう。文書廃棄は、昔から権力者たちが大掛かりに行ってきました。今昔を比べてみましょう。
「(1945年8月)15日、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総督府に公文書焼却の指令書を持っていった」(2015年8月10日、読売新聞連載「戦後70年 あの夏」から)
当時、内務省の事務官だった奥野誠亮氏が公文書の焼却について語った記事です。奥野氏はのちに政治家になり、法務大臣もつとめました。焼却の目的は明らかです。天皇、政治家、軍人が戦争責任から逃れるためです。
膨大な文書を焼却
終戦時の公文書焼却は、残されていた公文書でも確認されていますし、日記などの私的文書にも記録されています。膨大な文書を蓄積していた東京・霞が関や軍部のあった市ヶ谷などでは、何日間にわたって焼却の黒煙が立ち昇っていました。
焼却は戦争の経緯などについての歴史研究に大きな打撃を残しました。焼かなければ戦争責任や東京裁判をめぐる論争は今とは異なる形になっていたでしょう。戦犯を裁く東京裁判にも影響しましたおそらく政治家も役人も焼却は歴史を焼却することと同じだ、という自覚はもっていたでしょう。にもかかわらず焼却したのはなぜか、戦争責任の回避しか考えられません。
「非ドイツ」を焼いたナチス
公文書ではなく国民が持っている書物を焼いた二つの例を挙げましょう。国民の生活、文化、歴史などに大きな影響を残しました。
第二次世界大戦で日本と同様に敗れたドイツでは、ヒトラー率いるナチス主導により「非ドイツ的」な本が焼却されました。1933年、ベルリン大学では学生が焼却の先頭に立ちました。「燃える上がる薪(まき)の山は全部で十二、しかもそれがおのおのの哲学、長編小説、ドラマ等々、専門分野に割り当てられていた」(「ナチス通りの出版社」=山口知三、平田達治、鎌田道生、長橋芙美子著)。ベルリンでは二万冊以上の本が焼かれました。この中にはマルクス、フロイド、ケストナー、レマルクなど著名な学者や作家なども含まれていました。
ヒトラーは大変な読書家だった、と元東京都知事の舛添要一氏が語っています。舛添氏は都庁を去るとき4000冊の本を捨てざるを得ず、現在の蔵書は1万6000冊に減ってしまいました。「ちょうどヒトラーの蔵書と同じ数」になったそうです(11月25日、朝日新聞デジタル)。
本好きが本を焼く、不思議に思えますが、ヒトラーは本の計り知れない影響力を知っていたのでしょう。
もっとさかのぼると、紀元前200年代の秦の始皇帝に行きつきます。戦国の中国を、初めて統一した王様であり、万里の長城でも知られていますが、「焚書」でも有名です。薬、農業、占いなどを除いて民間人が持つ書物を焼いたのです。
法律に守られた「廃棄」
今時、国民が持っている本を焼く権力者はいないでしょう。その代わりさらに巧妙になっている、といっていいでしょう。国民の共有財産というべき文書、資料などが、法律などに基づいて合法的にシュレッダーで処分されているのです。
「桜を見る会」には「反社会的」勢力も招かれていたようです。政府の対応は「招待者名簿は廃棄してしまったのでわからない」ということです。誰でも「本当?」と思うでしょう。忘れていけないことは、この廃棄が公文書管理法に基づいた措置ということです。
過去にも似たような“事件”がたくさんありました。
2012年から2017年まで南スーダンに派遣された自衛隊のPKO派遣部隊の日誌は当初、破棄したと答えていました。保管されていることが分かった後は一部黒塗りで公開されました。
「最後には人間をも焼くだろう」
廃棄だけでなく、いろいろな方法があります。森友学園事件では財務省が国有地売却についての書類を改ざんしました。また安倍昭恵夫人のお付きの職員が森友学園に送ったファックスは行政文書ではない、私的文書だということで、情報公開の対象から外れました。
公文書管理法といい、情報公開法といい、また黒塗りといい、国民のための法律が、権力者にとって便利な法律になっていることを示しています。
ナチスの焼却についてハインリヒ・ハイネが言った言葉を引用します。
「それ(焼却)は一つの序曲にすぎなかった。書物を焼くところにあっては、最後には人間をも焼くだろう」(ナチス通りの出版社)。
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