徳光・みの・古舘と私


関口宏
 「同窓のよしみ」という言葉がぴったりの出会いでした。
徳光和夫先輩、後輩のみのもんた君、古舘伊知郎君、そして私の4人が母校・立教大学に集まり、しばし意見交換の場を持ちました。同じテレビの仕事をしながらも、めったに顔を合わすことがない4人。でも旧知の安心感のようなものが夫々に漂っていて、別に建設的な話をしたわけでもありませんが、四方山話に花が咲きました。

 そもそもこの企画は、築地から池袋に学校が移転して100年を記念するトークショー。 「築地からの移転なら豊洲じゃなかったのか」(古舘談)で笑いを誘ったり、「私はほとんどバスの中で寝ておりますので・・・・」(徳光談)や「アルコールが入らないと舌が回りません」(みの談)など脱線だらけのトークショーでしたが、お客様には喜んでいただけたようです。

 やや手前味噌になりますが、立教大学は1874年(明治7年)築地にて、アメリカ人宣教師によるキリスト教系ミッションスクールとして開校。そして1918年(大正7年)池袋に移転し、戦後の昭和23年、小学校もスタートして一貫校になりました。

 私は、父がこの大学の卒業生だったことから立教小学校に通うことになり、トコロテンのように押し出されるまま大学を卒業した次第ですので、他の学校を知りません。だからと言うか、それしかないと言うか、母校を少なからず誇りにしています。中学校からのみの君、高校からの古舘君も、大学からの徳光先輩も、どこかに誇りのようなものをお持ちのようですので、私の独り善がりでもなさそうです。


 そして4人共通の感想は「小ぢんまり感」。「少数精鋭」とは言いません。「少数気まま」が良かったと言う点で一致しました。最近では学生数も増え、やや大きな学校になりつつあるようですが、我々が通った頃の立教は規模の小さな、どちらかと言えば地味な学校でした。

そこに登場した長嶋茂雄大先輩。その長嶋さんを中心とした野球部が大活躍した時代の立教は華やかになり、その影響を受けた他のサークルも活気が漲っていたように感じられました。

 そのサークルのひとつが「放送研究会」。実は徳光先輩もみの君も古舘君もそこの出身。先ごろ亡くなられた野際陽子さんも「放送研究会」に籍を置いておられました。この「放送研究会」の存在が、今でも多くの立教出身のアナウンサーを輩出することになっているようですが、残念ながら私は籍を置いたことがなく、もっぱら池袋駅周辺の麻雀クラブに通い詰めた四年間でした。

 ですから今回私には,「放送研究会」OBを客観的に観察するいい機会になったのですが、「流石、みんな達者だなぁ!」と感心させられました。放って置いたらどこまでも喋り続けられる一番若い古舘流。所々遊び心を散らしながら引っ張るみの流。そして洒落た川柳など織り交ぜた老獪の域を感じさせる徳光流。
勿論、それぞれの個性あっての今なのでしょうし、又若い頃からその個性を秘めていたからこそ「放送研究会」に引き寄せられていったものと思われます。


 そしてふと、
こんなことを考えていました。
「これはAIには出来っこない!」

 やがて人間の仕事が、機械つまりAIに取って代わられる時代になると言われ出して、あちこちに不安を撒き散らしていますが、我々のこの分野はAIには出来ないと思ったのです。

その根拠は・・・・・・AIには「場」が読めないこと。この「場」とは生き物みたいなもので、集まる人々の発する空気によって変化してしまいますし、その変化を素早く感じ取って「機転」を効かさなければなりません。時には予定にもデータにもない「ひらめき」とも言うべき知恵が「場」を左右することもあります。そして何と言っても「個性」です。機械には徳光・みの・古舘の「個性」は持てません。

 そんなことを考えながら私もトークに参加しましたが、古舘君のリードよろしく「場」は成立したと思われます。そして気分良く立教の象徴『鈴懸の径(みち)』を4人で練り歩きました。

♫ 友と語らん 鈴懸の径 通い慣れたる 学び舎の街・・・・♫ 

          11・18・2018   テレビ屋  関口 宏