国家とメディアと個人 – 君和田塾長との対話

Kazu Shimura

Kazu Shimura

志村一隆

 先日の原稿「IoTと自律する個人」にこんなこと書いた。

「国家や企業にしかできなかったことが、個人でもできるようになる」

その一節について、君和田塾長からこんな意見を頂いた。

「『国家や企業にしかできなかったことが、個人でもできるようになる』と言うのは錯覚だと思います。個人ができるようになったことは国はどんどん個人に任せて捨てて行くのです。個人ができない最終の政策は戦争だと思いますが、国威がかかっているので、ややこしい話になります。」

 

国家にはメディア

 

日中戦士の碑

 テクノロジーの進展で、自分はお金や働く人とたくさん集める大きな組織でしか出来なかったことが個人でも出来るようになる。マスメディアが無数のブログに代わる。それが、国家にどう影響するのかを考えてみたかった。

 君和田塾長はこう言う。「政府、企業などへの取材・調査は個人ではできないに等しいでしょう。今のメディアがそこを十分にできていないために、『個人がやっても同じ』状態に陥っているのです。

 大量破壊兵器があると言ってイラク戦争に突き進んだブッシュ政権時代の2000年代初頭は、ちょうど米国の新聞社やテレビがインターネットによって力を削がれているときだったらしい。米国科学者ジョン・ラニアーの著書「人間はガジェットではない」に「あのころ、政権は厳格な報道機関に直面することがなく、ただ、がやがやとうるさいブロガーが無効化し合っている状況をなんとなく見ていればよかった」とある。ちょうど現在の日本の状況と似ている。

 「たしかにブロガーがスキャンダルを暴いたことはある。しかし、反対の立場を取るブロガーも同じことをしていた。ブロゴスフィアの影響は取るに足らないものだった。フラットなオープンシステムは必ずこうなってしまうものなのだ」なるほど。

 たしかに、権力が強大であり続けるならば、個人など何ら影響力はない。しかし、国家権力もテクノロジーの影響で、変わっていくとしたらどうだろうか。

 例えば、サイバー戦争のようなものが出てくるとどう変わるのか。西谷修氏の著書「戦争とは何だろうか」を読んでいたら、領土の無いテロリスト集団を攻撃すると、その集団のいる国への主権侵害になるという話が出てくる。テクノロジーを国家で抱え込めなくなった結果、国家に対抗できる攻撃集団が生まれ、国境も越えるということだろう。サイバー攻撃ともなると、攻撃する集団そのものが匿名で曖昧になる。

 アイヌや北米インディアンは国家を作らなかったそうだ。昔は、国家も作らない、文字も作らない文化があったらしい。吉本隆明・梅原猛・中沢新一が対談している「日本人は思想したか」という本に、そんなことが書いてあった。

 権力の形は何も国家という形態を取らなくてもいい。国家には大手メディアが対峙した。国家が曖昧になったら、その監視装置はどんなものになるのだろうか。

 

フラットな社会と民主主義の弱点

 

 さらに、君和田塾長は続ける。

  「ということはフラットな世界もあり得ない、と思います。人間はフラットを求めていない、必ず格差を求めるでしょう。デジタルテクノロジーがフラットさをぶち壊す方に使われるかもしれない、というかぶち壊す奴が必ず出てくるのだろうと思います」

 橋本治氏の著書「国家を考えてみよう」に、民主主義下の国民が弾圧されるのがわかっているのに国家主義を標榜する独裁者を選んでしまうのは、人間誰しも栄光ある君主制時代の憧れがあるからだ、とある。ゲームの設定が中世の王国が多いように、我々の社会にはまだこうした王国ファンタジーが埋め込まれているそうだ。

 国家主義で独裁者になりたい人やそれを応援するリーダーや指導者待望論は、現状の変革を強調する。悲観的な未来の解決策は、いつも過去のファンタジーである。我々が国家に必要以上に頼る危険性から逃れるには、こうした悲観論以上の未来を語るしかない。

 

テクノロジーのおかげで自分の意見を持てる

 

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 先日Facebookで米国のニュースメディア「Now This」が、ラオスで開かれたオバマ大統領とASEANの若者との討論会を生配信していた。

 大統領は、その締めくくりに「君たちは過去のどの世代よりもいい時代に生きている。これから世界を変えていくのは君たちだ」「紛争、災害、飢餓などニュースを見てると世界中で色々な問題ばかり起きているように見える。しかし現実はもっと色々ある。悲惨なニュースばかり見て、悲観的にならないでほしい」と言っていた。「いいこと言うなぁ」と思った。

 その日の夜、BSフジのプライムニュースを見ていたら「アジアの緊迫化の原因は、オバマ大統領の消極性にある」なんて意見を言っている人たちがいた。いつもなら「なるほどねぇ」なんて思ってしまうんだろうが、昼間のやり取りを見ていたからか、とても違和感が残った。マスメディアしかない時代であれば、テレビに映るポジショントークを鵜呑みにしてしまっただろう。テクノロジーのおかげで、自分の目で見た感覚で意見を持つことができる。

 未来を語るには想像力が必要だし、想像力には、これまた結構勉強が必要だ。それでも、そうした想像力が民主主義や自由を守るのだとしたら、それを楽しいと思えるようなメディアを作ることが大事なんだろう。