歌人・田中 章義
厚生労働省の発表によれば、生活保護を受けている世帯は今年6月時点で162万5941世帯に及ぶという。これは統計を取り始めた1951年以降で最も多い世帯数だそうだ。生活保護に頼らざるを得ない人々がこの60数年で最大になっているという現実――地方(静岡)を拠点に暮らしていると、生活不安を抱えている高齢者がいかに多いのかを実感する。商店街のシャッター化。激烈な気候変動に伴う、農業や漁業の苦境ぶり。老老介護の現実。人口減少に伴う空き家の多さ。
庶民に寄り添った田中正造
こうした状況下、私はこの国に生きた先人が残した和歌を今一度、世の中に発信していきたい。たとえば、
「心あらばのかれのべに露ほどだにも月やどりせよ」
田中正造が残した和歌だ。
言うまでもなく、日本初の公害事件と称される足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走したのが田中正造だった。1841年、現在の栃木県佐野市の名主の長男として誕生した正造。両親は全ての人たちを慈しむ、という人だったため、名主とはいえども決して裕福ではなく、慎ましやかに暮らしていた。父のあとを継いだ正造は、親譲りの正義感で領主に意見を述べて投獄されたこともある。それでも不正は黙って見逃せなかった。地元新聞編集長を経て、政治の道へと進出していく。
初めて衆議院議員となった1890年、渡良瀬川で大洪水があった。その際、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、流域で稲が枯れる現象が続いた。1900年に鉱害を訴えた農民たちが大量逮捕された川俣事件が起こると、正造は国会で大演説をおこなった。「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」と呼ばれる名高い演説だ。「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」という信念をもっていた正造。正造は常に庶民の側に立ち、いつも庶民の暮らしに寄り添い続けた。国政に失望して、議員を辞職してからは、命がけで窮状を直訴したこともある。他者のために、死罪も厭わない行動をとった正造。
「心あらばのかれのべに露ほどだにも月やどりせよ」という和歌は、「民の住む枯野辺となった田畑の上をほんのわずかでも月が照らし、恵みをもたらしてほしい」と願った一首なのだった。
晩年は被害の中心地だった谷中村に移住し、「谷中蘇生(そせい)せば国また蘇生せん」という思いで、最後まで地域に尽くした正造。
1913年に71歳で亡くなった時には財産を使い果たし、信玄袋が一つ残されただけだったと言われている。そんな彼の本葬には数万人が参列した。民草として、民草のために尽力した正造を私たちは今こそ思いおこすべきではないか。
餓死者を出さなかった崋山
渡辺崋山についても思いを馳せたい。
天保の大飢饉の際、一人の餓死者も出さなかった三河の田原藩政を担っていた崋山。1832年に家老職に就任した彼は飢饉用の穀物備蓄倉庫「報民倉(ほうみんそう)」を建立していた。裕福ではなかった藩が一人の餓死者も出さなかった背景には、崋山発案のこの倉庫が役立ったのだ。
田原藩の江戸屋敷で生まれた崋山。
財政難による減俸のため、兄弟が次々と奉公に出されてしまうという悲しい体験を少年期にしていた。自ら家計を助けようと思い、得意だった絵を書いて、それを売った。こうして得た金を活用しながら学問にも励んだ。早い時期からのこのような尽力によって、崋山は二十代半ばには画家としての名声も得ていた。
やがて、請われて藩政改革に尽力した。
農学者を招いた稲作の技術改良をおこない、さらには櫨(はぜ)や楮(こうぞ)の栽培もおこなった。優秀な藩士を登用するために、家格よりも役職を反映した俸禄制度づくりを試みた。「一人にても餓死流亡(りゅうぼう)に及び候わば、人君(じんくん)の大罪にて候」という精神で藩政をおこなっていた崋山。天保の大飢饉で一人の餓死者も出さなかった背景にはこうした志と、民を思う信念の政策があった。
幕府の対外政策を批判したため、高野長英らと共に捕えられてしまった崋山。この際、田原藩へ蟄居を命じられた崋山の生活の支えになれば、と絵の弟子たちが絵を売ることに尽力してくれたものの、やがては災いが藩主に及ぶことを恐れ、崋山は自ら死を選択したのだった。長男に「餓死るとも二君に仕ふべからず」という言葉を遺して亡くなっていった崋山。もし崋山がこの時代に生きていたら、どんな施政をおこなっただろう。
「梓弓矢竹ごころのも親にひかれて迷ふ死出かな」
崋山はこうした和歌を残して亡くなっていった。
「一汁一采」の鷹山
「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」
後世に残るこの歌を残した上杉鷹山も忘れてはならない一人だ。返上寸前だった米沢藩を建て直した上杉鷹山。藩の財政を改善するため、自ら一汁一菜を実践し、綿服を着、藩主総費用千五百両だったところを二百九両まで減らして暮らしていた。「今の生活を犠牲にしてでも明日の藩の立ち直りを考える」といった「志記」を藩士たちに与え、自らが範を示した。藩主自身、鍬を取って田を耕し、農業がいかにたいせつなものであることを領民に伝えていた。藩主が鍬を取る地域は他になく、この地の農民は仕事に誇りをもって、励むことができたと言われている。
「一村は互いに助け合い、互いに救い合うの頼もしき事、朋友のごとくなるべし」という言葉を残した鷹山。老人を大切にし、月に一回、90歳以上の老人を城に招いて敬老会を実施。15歳以下のこどもが5人以上いる家庭には養育手当金を出すことも制度化している。貧しい家庭には、こどもの出生手当金も支給していた。
ある時、老婆が干した稲の取り入れ中に夕立にあって、困っていた。通りがかった二人の武士が手伝った。取り入れの手伝いには新米の餅を配るのがこの地域の慣例だったため、そうさせてほしいと、老婆は武士たちに申し出た。門番に伝えておくからと言われた老婆が餅を持って言われた場所を訪ねてみると、そこに待っていたのは、なんと藩主である鷹山だった。藩主自らが手伝ってくれたのだと知り、老婆は腰を抜かすほどに驚いた。17歳で米沢藩主となった時に次の歌を詠んだ。
「受けつぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母」
鷹山は、そんな男だった。
語り継がれた言葉の力と滋味
地方の時代と言われる今、こうした地方政治で大きな役割を果たした先人と和歌について、もっと多くの人たちに知ってほしいと願っている。
「憎むとも憎み返すな憎まれて憎み憎まれ果てしなければ」
「踏まれても根強く忍べ福寿草やがて花咲く春に逢うべし」
「何ごとも満つれば欠くる世の中の月をわが身の慎みにせよ」
「たらちねの親ののこせし形見なりいや慎まんわが身ひとつを」
こうした「詠み人しらずの歌」も、今こそ社会で語り継がれるべきものだと私は考える。
時には報道番組で、時には情報番組やドラマで、あるいは歌詞やCMのコピーで、先人の残した和歌をもっと活用していきたい。古くて新しいものが詩歌の世界に眠っていることを体感してもらえるのではないか。人から人へと受け継がれ、1300年以上語り継がれてきた言葉にはそれだけの理由がある。漬物や味噌、醤油のように、言葉の世界の“発酵食品”である三十一文字(みそひともじ)の穣(ゆた)かさと効能を多くの人々が知り、生活や生き方の指針に役立ててもらえる土壌を創出していきたい。先人が語り継いだ言葉にはそれだけの力と滋味があるのだと私は信じている。