土屋 敏男
日本テレビ放送網株式会社
日テレラボ シニアクリエイター
欽ちゃんこと萩本欽一のことを書こうと思う。
今、僕は欽ちゃんに詳しい人間の一人と思われているかも知れない。
それは欽ちゃんのドキュメンタリー映画を6年かかって作り上げたからだ。タイトルは
今年の11月3日に公開した。その取材やキャンペーンでその映画の制作期間以上に一緒にいることになったし喋ったりもした。
そうなっても実は「欽ちゃんのことは底知れない」と思っている。
今も。今もだ。
果たして萩本欽一とは何なのか?
(何者なのか?としないのは萩本欽一は人なのか?さえわからないから)
それを出会いから思い出しながら振り返って書いてみる。
(「ただのテレビタレントの一人だろう」と思う人はこの先を読まないほうがいい。今までそう思っていても僕の作った映画「We Love Television?」を見たらそう思えないはずだが)
30年前の“オーディション”
僕が萩本欽一に初めて会ったのは1987年12月。今からちょうど30年前。僕が31歳になったばかりの頃だ。
翌年4月から萩本欽一の新番組が日本テレビで始まることになり、そのディレクターをやることになってリハーサル室にプロデューサーに連れられて行ったのが初対面となった。(ディレクターをやることになり、と書いたが実はこの時はオーディションであり欽ちゃんが気に入らなければ他の男がディレクターになる可能性もあったらしい)
リハーサル室に入りプロデューサーが紹介をしたが欽ちゃんはこちらを向かず他の顔見知りのスタッフ、作家たちに今までの思い出話をしていた。
「そんなものか」と思ったから構わず僕は空いていた欽ちゃんの隣の椅子に座った。もう少し遠くの椅子も空いていたが「この先、この人のしゃべりを撮るのだから近くでその間を感じよう」と思ったからだ。
フジテレビ「欽ドン」のエピソード。テレ朝「欽どこ」、TBS「週刊欽曜日」のエピソード。初めて聞くそれら視聴率30%番組の裏話はとても興味深く刺激的だった。
しかしその話が終わらない。1時間経ち2時間経ち3時間経ち。番組の企画打ち合わせ的な話は全く始まらず、いわゆる世間話が延々と欽ちゃんの口から続けられる。他のスタッフが発する言葉は「へえ〜〜」「ほ〜〜」と相槌のみである。僕はどうしたか?僕の目的は今度のやる番組の主役のしゃべりの間を体感するのみであるから、その時間が長ければ長いほどありがたい。黙って隣でその話を聴き続けた。
徹夜で繰り返される「同じ話」
そして夕方から始まったこのリハーサルなのか顔合わせなのか分からない会合は6時間を超えて12時をまたぎ日付が変わった。
そして話は「さっきも話した話」になっていった。つまり繰り返し。
「あ。その話さっきも聞きましたよ」と言う話である。しかし周りの旧知のスタッフはそんなことは言わない。
さらに1時間経ち2時間経ち3時間経ち。ついにはビルの3階にあるリハーサル室の窓の外が明るくなってきた。
朝6時。この部屋に僕が入ってから12時間が過ぎた。
「ま、じゃそう言うことで」と萩本欽一が立ち上がった。
周りのスタッフが立ち上がって一緒にドアの方に行く。
そして僕以外の人間は全員出ていった。そしてしばらくして欽ちゃん以外は戻ってきた。
「じゃ解散!」プロデューサーがそう言った。
僕は少し呆然としたが「ま、そんなものか」とも思った。
後で聞いたのだが、この12時間で僕は新しく始まる番組のディレクターをやることが欽ちゃんから許された。「あいつはスゴい。何度も繰り返される僕の話を一瞬も気を抜くことなく12時間聞いていた。合格!」と言ったらしい。
そんなオーディションを経て僕は1988年4月に始まった「欽きらりん530」と言う番組のディレクターになった。
ちなみに僕の後にロケディレクターとして入ってきた男は、初日欽ちゃんの話の途中で手元の紙にいたずら書きをしていた、と言うことで二日目はなかった。
もちろんその時に欽ちゃんが発見して「くび!」と言うわけではなく、帰りながら旧知のスタッフに「彼は来週来なくていいから」と言い残して帰るだけなのではあるが。このように萩本欽一は「誰とやるか?」を重要視する。
偶然会う人と番組づくりを
今回の「We Love Television?」でも描かれているが、僕が「もう一度30%番組を作りましょう」とアポなし訪問をした初日に、欽ちゃんは『これから偶然に人に会う。その人と番組を作っていこう』と言った。
会社という組織はそうはいかない。人事計画があるし社員育成計画がある。プロデューサが何人、ディレクターが何人、アシスタントディレクターが何人、作家が何人と番組の規模に合わせて集めていくというのが普通だ。
この「普通」というフォーマットを関係ない!と欽ちゃんは言う。嫌々やってきたスタッフと一緒にやって番組が当たるわけがない。だから無理に集めるな!と言う。
組織の決まりごとがある。番組を作るなら企画書を出してください。その企画書を会議で検討しましょう。検討してやることが決定したら人員を配置しましょう。決まった人員で集まりましょう。会議をしましょう。
そんなことは番組が当たることとは一切関係ない。いや阻害するのだと欽ちゃんは言う。
時間をもう一度巻き戻す。1988年4月ゴールデンタイムに「欽ちゃんの気楽にリン!」という番組、月曜日から金曜日まで夕方5時半〜の帯番組が「欽きらりん530」という、メイン番組と衛星番組という変則座組で番組が始まった。(この太陽とそれを取り巻く衛星という番組形態も欽ちゃんの「今までにない番組」という発案だったと後で聞かされる)
ところがこのG帯の視聴率が振るわない。一時期30%番組を作っていたはずなのに一度も10%を超えない。当時日本テレビは全体が低視聴率でスポンサーも安定していなかった。業を煮やしてチーフプロデューサーが「ゲストを強化しましょう」と言ってきた。欽ちゃんは黙って頷いた。しかし視聴率は上がらず6回で打ち切りになった。
主演女優の降板に「困った」と言わない
視聴率が低いとスポンサーが代理店を通じて「どうなっているんだ」と言ってくる。代理店は営業に。営業は編成に。編成は制作の偉い人に、という伝言ゲームが行われてすぐにできる手当らしきもの『ゲストの強化』が行われる。しかしそんなものが功を奏したことはテレビ65年の歴史でも一度もないだろう。それでもそんなスポンサーを納得させる方便が当時は行われた。欽ちゃんは「ブレーキになることはあっても、いいことなんて一つもない」と常日頃から言っていたが、チーフプロデューサーが言ってきたことに抵抗をしなかった。
常に欽ちゃんは受け入れる。これも「We Love Television?」で描かれたことだが、主演女優が本番二日前に降板した。ありえない大事件だ。しかしカメラはその申し出受けた直後の欽ちゃんを自撮りという手法で捉えている。
「困った」と言ってはいけない。すごい運がやってきた、と考える。これはテレビの神様は何を伝えようとしているのか?そうか自分にもう一度主役をやれと言っているのか! こうして女優がやるはずだったお母さん役を自分がやり、自分がやるはずだったおじいさん役は欠番となった。
当然ながらそれまで稽古したものはゼロに戻った。しかしそれでも萩本欽一は受け入れた。
その「もう一度30%番組を作りましょう」という番組の視聴率が8.3%であった時も「あの時主演女優が降りなければ」とは言わなかった。間違いなく自分がイメージした番組と全く違う番組ができてしまったはずなのに。
それは「テレビは“今”だ」という信念があるからではないかと思う。
“今の時代”ではなく“今”。
会議・合議では決めない
だから起きたことは全て受け入れる。出会った人は全て受け入れる。その人が決断したことは全て受け入れる。会議で合議で決めることはしない。その代わり「無理やり集める」ことをしない。運、縁が起こさせることに注意深く耳を澄まそうとする。自分の直感「気持ちいいのか?悪いのか?」という自分の身体的反応を大切にする。その上で「起きたこと」の意味を読み取ろうとするのだ。
これは一体なんなのだろうか?人生は運と縁なのだとここまで言い切る理由は何なのだろうか?
それは視聴率を相手に戦ってきたことの必然なのだったのではないか?
今フジテレビの視聴率が悪い。なぜか?中にいた人、外の人、いろいろな人がいろいろな理由を挙げている。そんなことよりずっと前に経営陣は真剣に「なぜ!?」と何十倍も何百倍も考えただろう。数えられないほど会議が開かれただろう。そして幾十もの対策が打たれたがそれは功を奏さない。
それほど「視聴率はわからない」ものだということを欽ちゃんは肌身で知ってしまったのだ。
萩本欽一がテレビとは何か?と問われて言った答えがある。
「テレビとは“何かが起こるかもしれない”を映し出すものである」。
何かが起こっていることを映し出すものであったら、事故現場の生中継であるとかスポーツ番組で事足りるのだろうが、欽ちゃんはそれでは足りないという。
「起こるかもしれないことを映し出すものでなければテレビではない」と。
テレビはドキュメントだ
だから彼は「テレビ芸」というものを発見して作り出した。それは舞台芸でも映画芸でもない。それは「こうしろ」「ああしろ」と言って練習してできるようなものではない。やることは「これはするな」「あれはするな」という「やってはいけないこと」だけを徹底的に身体に叩き込む。例えば『聞き返すな』これをリハーサル室で最初に言われる。“丸いものは?”“丸いものですか?”これがダメ!人は間違えたくない。だから聞き返す。これが社会の常識。でもそれは「間」をずらす。だからダメ!間違えても構わない。それが笑いになる。だから聞き返すな。そんな「やってはいけないこと」を新人たちは叩き込まれる。そして本番の日。舞台上で稽古でやったことと全く違うことを欽ちゃんがやりだす。そこで起こることはドキュメントである。 練習していた台本とは全く違う展開になる。途方に暮れる。でも舞台上だ。留まることは許されない。苦し紛れに手を振り回す、呻く。 これがリアルだ。そして苦しんで追い詰められた後に乾坤一擲の一言が発せられる時がある。アドリブである。客席はその苦しんだ瞬間、戸惑った瞬間を感じているからそのアドリブに安堵とともに爆笑する。それは台本でもない。言ってみれば即興でもない。これこそがドキュメントなのだ。
テレビはドキュメントだと発見し、それを舞台上に構築した萩本欽一。
これは世界のテレビの中でもおそらく唯一の発見なのである。だから日本のテレビは独自の進化をした。アメリカのサタデーナイトライブが未だ舞台上のコントの延長でしかないのに対して、日本のテレビバラエティだけがこの発見によりガラパゴス化したのだ。
この“テレビはドキュメントだ”、その瞬間起こったことを全て受け入れて克明に記録するのだ、というのをロケでやったのが「進め!電波少年」である。そしてこれをコピーし、事前の台本や演出がなく、予測できない状況に一般の人が置かれた時の状況を扱ったものが欧米のリアリティショーである。(シンクロニシティ=偶然の一致、というならそれでも構わない)。しかし欧米のリアリティショーが萩本欽一が作った「テレビは何かが起こるかもしれないもの」というテーゼを元にしていないため、日本のドキュメントバラエティとは似て非なるものになっている、ということをわかる人は極めて少ない。
それでいい。
萩本欽一に関してはまだまだ書き足りないのだが、彼によって起こった日本のテレビの独自の進化に触れられたということでかなり珍しい視点が書けたと思うのでここで終わることにする。