新生の春

H. Sekiguchi

H. Sekiguchi

関口 宏

 桜が咲いて新学期。わが業界もかき入れ時とあって、担当者の顔がほのかに活気づく季節でもあります。

 テレビ放送が始まってしばらくの間、新番組は、4月1週目スタートか10月1週目スタートと相場が決まっていたのですが、いつの頃からか、そのスタート時がはっきりしなくなってしまいました。

 それは、3月末から4月初旬、そして9月末から10月初旬を,「期末期首」と称して、本来の番組の入れ替えよりも、「特番」をぶつけ合う季節に様変わりしてしまい、どこのチャンネルを回しても、わーわーキャーキャー、どったんバッタン。

 年配の方々には、「なんでこの時期、テレビが騒々しいかな・・・」と思われてしまうことにもなっているようです。

 では何故そうなってしまったのか・・・・・

 

新生の春

新生の春

 

 おそらく最初、どこぞの誰かが思いついたのでしょう。「敵の出鼻をくじけ!」。

 そして、敵のレギュラー番組スタート時に、これでもかと言わんばかりの派手な単発ミサイル番組を撃ち込んで、多くの視聴者の目を奪ったのです。

 そのせいで、連続ドラマなど、最初の回を見損なった視聴者は、それ以降、途中参加しにくくなって、ミサイルを撃ち込まれた側は大打撃を受けてしまうのです。

 しかし、それは一瞬の出来事でした。

 つまり、やられた側も黙っちゃいない。「やられたら、やり返せ!」。

 かくして果てしなき撃ち合いが、1週間も2週間も続く戦場と化したのです。

 しかし「特番」と見栄をはるからには、それなりのタマ(予算)も必要で、「ああ、もったいない。その分少しでも、通常のレギュラー番組に回してくれれば・・・・・」と思っているテレビ屋も多いのですが、果てしなき戦いにピリオドが打たれる事はないでしょう。

 さらに今では、この「特番」の撃ち合いが、年がら年中行事のようになってしまって、「レギュラー番組」受難の時代になりました。

 いつスタートして、いつ終わってしまったのかさえ分からぬうちに姿を消した「レギュラー番組」の数たるや、目を覆うばかりです。

 そんな現状を作り出した要因は何か・・・・・

 ひとつは「長尺もの」と呼ばれる、3時間も4時間も引っぱれる番組の、費用対効果の美味しさを、テレビ屋が知ってしまった事。

 つまり、1本々々番組を作っているより、同じ番組を引っぱれるだけ引っぱった方が、人件費その他諸々の費用も抑えられるし、視聴率的にも得である事に気がついたのです。

 そしてもうひとつが、「スポーツイベント」の旨味でした。

 ひと昔前なら、費用対効果が期待出来なかった様々なスポーツに旨味が出て来たのです。冬場の週末には、必ずと言っていいほど、どこかで駅伝やマラソンをやっていますし、サッカーや陸上競技、レスリング、柔道も美味しいコンテンツになりました。今では信じられない話になってしまいましたが、フィギュアスケートもひと頃は、それほどの魅力はなかったようです。

 でも、この「スポーツイベント現象」は、テレビ屋が作り出したと言うよりも、テレビをご覧になる視聴者の指向が、変化して来た結果であるような気がしてなりません。そこには、作りもの番組の限界、もしくは質の低下、似たり寄ったりオンパレードに、視聴者が飽き飽きして、次なる興味を探し求めた先にスポーツがあったということになるでしょうか。

 と申しますのは、テレビの本質とは、「疑似」「生」「ハプニング」(小難しい説明は今回は省かせていただきますが・・・・)だとするなら、スポーツはまさに、うってつけのコンテンツなのです。

 つまり、大袈裟に言えば、テレビがまた更にテレビ的になったと言える訳で、これは、活字メディアやネット関連が、絶対真似の出来ない、テレビの一番の強みなのだと思われるのです。

 ソチオリンピックは、まさにその現象を裏付けたのではないでしょうか。

 「テレビには、まだまだ可能性がある」・・・・・

 そう言われれば、テレビ屋として嬉しい気持ちにもなりますが、ご用心、ご用心。

 過度なサービス精神、例えばやかましいアナウンスとか、折角の「生」なのにVTRを多用するとか、必要以上の「お涙もの」に仕立て上げるとか・・・・・

 こうしたことからも、視聴者離れが起こることを肝に命じておくべきです。

 さて「新生の春」、どれだけ魅力的な「新・レギュラー番組」が誕生するでしょうか。

テレビ屋 関口 宏