事実はネットより奇なり

Kazu Shimura

Kazu Shimura

志村一隆

先月、自分の作品がパクられたトレパク騒動について書いた。今回も、引き続き考えてみたい。(蛇足:Google画像検索ってのがあって、画像を貼り付けるとその画像と似た画像を見つけてくるサービスも始まっている。)

 

クリエイターとしての怒り

 

 この騒動で自分がいちばんわからなかったのが、なぜ当事者でない人(ゲームファン)が怒っているのか?という点だった。もちろん、ラレ元になってしまった自分にとってはありがたいことだが、当事者以外のことに、熱くなれるのはなぜか?疑問だった。

 ところが、前回の原稿について語られているツイッターの投稿を読んでいて、トレパクに怒っている人たちは、単なるゲームユーザーではなく、クリエイターであることに気づいた。刀剣乱舞というゲームには登場するキャラクターをアレンジし物語を描く二次創作という愉しみがあるらしい。

 今回怒ってくれた人たちは、ゲームのユーザーでありながらクリエイターでもあったのだろう。彼や彼女たちはある種同業(クリエイター)の目線で、ゲーム会社のトレパク行為を非難していたのである。トレパクはしょーもないことではあるけれど、普段の言動含めて、誰しもなにかしら廻りの影響は受けている。そもそもクリエイティブってなんなのか?少し気になってきた。

 

Nothing new under the sun

 

 そんなとき、米国の弁護士ドラマ「スーツ」を見てたら、主人公が小さい頃、おばあちゃんが昔話の筋書きを変えて話していたというシーンに出くわした。「ちょっと変えていたのよ(I added some touches)」というおばあちゃんの言葉に、クリエイティブには「新しいものなんて、なにもない(There is nothing new under the sun)」ってことに気づく主人公。事実は小説より奇なり

 無名作家が自分のアイデアを有名作家に盗まれたという案件だったのだが、結局無名作家のアイデアと似た小説がたくさん見つかり、両者は和解する。

 なんだか前回書いたキース・リチャーズの話と似ている。クリエイティブは先人からの蓄積にその時代の空気感を加えるものなんだろう。ネットにアクセスすれば、Wikipediaには362億項目の記事があり、YouTubeには1分間に100時間分の動画がアプロードされている。時代性を加えるフレーバーネタには事欠かない。

 さらに、そのネット上のアイデアを簡単に加工できる安価なデジタル機器も普及している。永田眞里氏の著作『大作家は盗作家《?》剽窃と想像の谷間を考える』に「一億総歌人」というフレーズがでてくる。本が刊行された35年前、手軽なクリエイティブツールは鉛筆と紙、表現形式は短歌くらいだったんだろう。いまや、動画の撮影・編集だってスマートフォンでできてしまう。(蛇足:スイスのテレビ局” Leman Bleu”は取材の撮影を全てiPhoneですることにしたそうだ)

 ここまでは、まだ人間が絡んでいる。

 

機械のクリエイティブ

 

表現の3工程 表現の過程を3段階に分けるとしたら情報の入力・加工・出力だろうか。クリエイターの技の見せ所は加工段階か。そこをハショったのがトレパクなんだろうが、最近は、残り2つの入力・出力も機械でハショろうとする試みがたくさんある。

 米国のAP通信は1年前から企業の決算速報を機械で自動生成しているし、IBMの人工知能Watsonは大量の情報から人間の気付かないつながりを引き出しシェフの思いつかないレシピを考えている。ほかにも、他人のブログを自動で書き直すツール(それを自分のブログとして公開し広告収益を稼ぐ)なんてのも山ほどある。そうした自動生成ツール(たとえば、Link Collider )はコピペとバレないよう、ボタン一つで意味が変わらない程度に文章を書き直してくれる。それに、分林里佳さんが以前書いたようにキャスターもアンドロイドに代替されてしまうかもしれない。(参照:ライバルはアンドロイド! – とあるキャスターのつぶやき- 2014年12月号 )

 人間がオリジナル性に悩んでる間に、ロボットが休みなく勝手にクリエイティブをはきだしていく。しかもオリジナルのネタは人間がインターネットにアップロードしたものだ。いや、IoT(Internet of Things)といって、いまや小型センサーで情報を自動で取得し吐き出すことも可能である。人間の知恵がインターネットに溜まるほど、人間のやることが機械に取られていくという矛盾。それを解決するには、インターネットでやたらと情報公開しないことかもしれないが非現実的である。

 

事実はネットより奇なり

 

 そんな現実をみていると、なんだか人間が自分の知る範囲のネタをコピペするなんてことは小さなことに思えてくる。素人も機械も表現活動に加わったら、インターネットでアイデアを探し繋ぎ合わせるのは、むしろ普通なことになってしまうのかもしれない。コピーするなというほうが不自然な気にもなる。事実は小説より奇なり

 表現過程3段階のうち機械に代替されないのはどれだろうか。加工段階であろうか。ただ、それも大量のアレンジサンプルを瞬時に吐き出されたら追いつけそうもない。

 棋士の片上大輔さんは、「脳とコンピュータと、将棋界の未来( 2014年6月号)」で「指し手にあらわれる個性」である「棋風」もコンピュータは「やがて理解できるようになる」と書いている。感性もコンピュータは理解するようになるのだろうか。2015年6月号の根本美緒さんのポスト「コンピューターvs人間〜気象予報士の裏側」には気象データの精度がより高まっている現実と共存する試みが描かれている。根本さんは言う「雲は嘘をつかない」。

 200年前英国詩人は「事実は小説より奇なり(Fact is stranger than fiction)」と言った。これからはコンピュータにも気づかない「事実はネットより奇なり」を提示し続けるしか、機械時代のクリエイティブと共存する道はなさそうだ。