君和田 正夫
ジャーナリスト志望者が減っている、という話をよく聞きます。大変、残念なことです。政治主導が進んで官庁も政治に飲み込まれて行き、結果として政官両者の劣化が目立つようになりました。かつては「第三の権力」と言われて監視役を自認していたメディアも足並みをそろえるように力を失ってきています。新聞は発行部数を減らし、テレビは視聴率の低下に悩み、監視役どころではなくなりつつあります。
そんな時だからこそ、メディアには踏ん張って欲しいという気持ちが強くなります。メディアの将来を担う若い人たちへの期待は、年々大きくなっています。
メディア論、ジャーナリズム論は数多くありますが、私のような人間には、最も書きにくいテーマです。なぜなら「自分のことは棚に上げる」しか書くすべがないからです。もともと書くという作業には恥をかく側面があるのですが、自分のことを棚に上げることは、恥ずかしいことです。
そこを割り切って、これからメディアを目指す人たち、メディアの世界に入って間もない人たちに読んでいただけたらと思い、書くことにしました。最終的には優れたジャーナリストを育てる責任がある経営者の方々の問題につながっていきます。
①質問は権利であり、義務です。
記者の原点は質問です。疑問を持つ、ということと同義語です。最近の記者会見がちっとも面白くない、と言われる理由の一つに「質問力の低下」と「記者会見の軽視」があります。
質問力の低下はテレビで中継されたり、ネットで流れたりしているので、いろいろなシーンで見ることができます。核心を突いた質問が出ない。二の矢、三の矢の質問が出ない、同じ質問ばかり、ということでイライラされた経験は、誰でもお持ちでしょう。国民の代理として質問しているのではないか、だから質問することは権利であり、義務である、という意識が薄れているように映るのです。なかでも記者の前に置かれたパソコンには驚かされます。相手の話しを聞きながら、ひたすら指を動かせている記者の姿。「これでは、質問できないのではないか」「何を質問するか、考える時間もないのではないか」と心配になります。
このパソコン情報はクラブのキャップなどに集められ、政策の流れや各党、各派閥の動きとしてまとめられ、時に一本の記事になる、ということだと解説を受けたことがあります。流行り言葉で言うと「情報の共有」ということでしょうか。質問・答弁の応酬は難しくなり、記録者としての役割が大きくなってしまいます。
記者会見を軽視する傾向は国会や官公庁だけでなく、民間の会見でも見られるようになりました。質問に正面から答えない、答をはぐらかす、などです。今の内閣の得意技が国中を汚染し始めている、と言えます。まともな返事が返ってこないからでしょうか、同じ質問を何度も繰り返すことが増えています。答える側からすれば「待ってました」ということでしょう。質問内容がワンパターン化するため、会見を途中で打ち切る口実を与えることにつながっています。
会見の軽視は相手側だけに原因があるわけではありません。相手が答えたくないこと、触れてほしくないことを質問することは、現在の記者クラブ制度のもとでは、かなり困難を伴う、と聞いています。「会見時間」を制限したり、「同一質問者による質問数」を抑えたり、自由闊達な会見からどんどん離れて来ています。この辺の事情は東京新聞の望月衣朔子記者による『新聞記者』(角川新書)に詳しく書かれています。「私にできるのは質問し続けること」と望月記者は書いていますが、その通り、と言うしかありません。
②顔を出すのはタレントです。
相手が嫌がることか、喜ぶことか関係なく、自分が疑問に思うことを相手にぶつけることがジャーナリストの仕事です。その認識がなくなってしまったのか、と思わせることが増えました。会見のレベルが落ちた、と感じさせる瞬間でもあります。その代表例が質問者の顔を映し出すことです。会見場の一シーンとして映し出されることは間々あることですが、問題はテレビの報道番組の質問者です。「うちのキャスターが質問しているよ」「質問者はうちの可愛い子ちゃんアナウンサーですよ」と言いたげに、自社の番組で顔出しシーンを流すのです。本気でしょうか。
ジャーナリストは、相手が嫌がることもお構いなしに聞き、公表するのですから、当然、憎まれることも恨まれることもあるでしょう。時に生命に関わるような事態も生まれることは、独裁国家や統制色の強い国を見れば明らかです。28日に米国で新聞社が襲撃され、5人が死亡した、というニュースが入ってきました。記事に対する恨みが原因と伝えられています。ジャーナリストは平時でも「万が一」に備えておくべきなのです。
それでも顔を出す質問者は「日本は安全」と考えているのでしょうか。「私たちはそんな危ない質問や取材をしないから大丈夫」ということで顔を晒(さら)しているのでしょうか。ブログが気に食わないと言って人を襲う時代に、驚くべき無神経さです。危ない質問はしない、ということが前提だとしたら情けない、の一言に尽きます。取材記者とタレントの境目がどんどん曖昧になっている証しと言っていいでしょう。
30年前の憲法記念日(1987年)に朝日新聞阪神支局が襲われ、記者一人が死亡しました。「赤報隊事件」と呼ばれ、未解決のまま時効になりました。朝日新聞は1936年の「2・26事件」でも皇道派の青年将校たちにより襲撃されました。
「2・26事件」の時の朝日新聞の対応について「朝日新聞社史 大正・昭和戦前編」は次のように書いています。緒方竹虎主筆は襲撃部隊の責任者と対峙するためにエレベーターに一人で乗りました。
「玄関へ降りれば当然やられると思ってネクタイを直したりして降りて行ったが、(略)中尉の制服をつけた男が目を真っ赤に血走らせて立っている」「中尉はいきなり右手を高く上げ、天上を見ながら大声で『国賊朝日を叩きこわす』とか『やっつける』と怒鳴った(略)」「ちょっと待ってくれ、社内には女も子供もいるのだから、それを出すまで待ってくれ、といったら『すぐ出せ』という」
朝日新聞が付けた解説には「女子は印刷部解版工、電話交換手、タイピスト、エレベーターガールなど。子供は原稿係の少年や印刷局見習い工など」を指しているとあります。二つの点で心を動かされます。一つは言論の重さを一人で背負って反乱部隊に会いに行く覚悟です。もう一つは女性と未成年者を退避させようとするリーダーの自覚です。記者は含まれていません。言論機関の経営者のあるべき姿が見えてくるような気がします。
いま、言論状況はさらに陰湿化しているように思えます。顔を出さなくても記者へのバッシングやメディア企業への嫌がらせが行われる時代です。望月記者への個人攻撃はかなりのものだと聞いていますし、今年5月に亡くなった元毎日新聞社主筆、岸井成格氏へのバッシングもすさまじいものでした。政府の方針に反対する論調の新聞やテレビに対し、広告出稿をやめるよう呼び掛けるキャンペーンもありました。
顔を出している人に申しあげたいと思います。あなたがジャーナリストだと思っているなら、顔出しは断りなさい。タレントだと思っているのなら、どんどん顔を出しましょう。この問題は現場の記者、アナウンサーだけの問題ではなく、メディアの経営者が取材活動をどう考えているか、という問題に突き当たります。
③現場から離れるな。
「当たり前のことを言うな」。現役の記者だったら誰でもそう思うでしょう。とくに新聞、雑誌系の記者は現場第一主義の人が多いように思えます。しかし、テレビ、ネットの世界では必ずしも、そうとばかりとは言えません。
テレビ朝日の報道系では「報道ステーション」が代表的な番組です。私が社長時代、気になっていることが一つありました。「古館一郎キャスターはジャーナリストか否か」です。私自身の答えは、彼はジャーナリストではない、でした。理由は「現場を持っていない」からです。定期的に古館プロダクションの社長と意見交換をするなかで、ジャーナリストになる時もある、ということも言い添えました。どんな時でしょう。災害やイベントなどで現場へ行った時や、スタジオに人を呼んで話を聞く、つまりインタビューする時は間違いなくジャーナリストなのです。インタビューも「現場」です。インタビューは相手の考え、人柄などを引き出せるかどうかが大事なポイントになりますが、同時に自分(インタビュアー)の取材能力が試される場でもあります。
古館氏にそれが伝わったかどうか知りません。彼は報道ステーションの最後の日に別れの言葉を述べています。
「つるんつるんの無難な言葉で固めた番組などちっとも面白くありません。人間はすくなからず偏っている。だから情熱を持って番組をやっていれば、多少は番組は偏るんです」
私が感じたことは「無難な言葉」を使わなければ、番組は面白くなるのだろうか、という疑問です。情熱持って番組を作ると「偏る」のでしょうか。誰にとって「偏っている」のでしょうか。古館氏の熱意は伝わってきましたが、報道番組の根幹である取材態勢への問題意識を感じることはできませんでした。
現在のテレビは、NHKを除けば独自にニュースを発掘する力が乏しい、と言えます。そのため、新聞、雑誌などの報道を後追いして映像化し視聴者に見せる、というケースが多くなります。しかし映像化するということは、分かりやすくして視聴者に見せることでもありますから、後追いが悪い、と一慨に言うことはできません。新聞離れが著しい現在、国民に情報を伝えるという点で、テレビの報道番組は大変大きな役割を担っているのです。 では現状のままでいいか、という点を古館氏は指摘したのだろうと受けとめることができます。
テレビ局が「情熱を持って」報道番組を作ろうとしたら、情熱の根源は自前の取材力ということになります。情報源の外部依存を減らし、自ら現場を発掘することに力を注ぐべきです。一記者の頑張りだけではなく、どのような取材態勢を組んだらいいのか、いわゆる調査報道のチームを作るにはどうしたらいいか、というところが最後の決め手になります。テレビが新聞より圧倒的に強いのは映像の力を使えることです。「取材力の強化+映像力」が、古館氏の「情熱」に応えるただ一つの道ではないでしょうか。
テレビ会社のトップがお笑いタレントを報道系番組のキャスターに使いたくてプロダクションのトップに頼みに行った、という話が聞こえてきました。ちょうどお笑い芸人が報道系の番組のキャスターやコメンテーターをすることが議論になっていました。報道番組のエンタメ化です。「ウソであってほしい」と思いました。ここでもどのような取材態勢を組むか、という視点が抜け落ち、視聴率を上げようという魂胆が見え見えです。コメンテーターとしてのお笑い芸人は「庶民代表」といった資格が与えられてよさそうに思います。しかし、キャスターを安直に「借りてくる」ことに強い不安を覚えました。キャスターを育てるという難事業を放棄したように思えるからです。
④アナウンサーは進化してタレントになるのか。
キャスターについて触れた以上、アナウンサーについて触れないわけにいきません。キャスターと逆のコースを歩くことが多いのがアナウンサーと言えそうです。外部から持ってきたり、借りてきたりするのではなく、最初はアナウンサー枠で社員として採用されます。少し人気が出てくると、自立の道を選ぶ人が出てきます。プロダクションに入って、他の局などへの出番を待つわけです。プロダクションに入った瞬間からタレントの道を歩き始めることになります。
報道のエンタメ化の責任の一端はテレビ局自身が負わなければいけないでしょう。例えば久米宏さんの「ニュースステーション」はニュースをエンターテインメント化した走りと言っていいでしょう。アナウンサーのタレント扱いについては、フジテレビが先陣を切ったように思います。女子アナを「○○パン」「××パン」などと呼ばせて、完全にタレント扱いしたのです。
冬季五輪の金メダリスト小平奈緒選手が先日、久しぶりにインタビューを受けていました。インタビュアーの女性は、どちらが主人公なのか分からないくらい、目立つ衣装でした。女子アナかどうかわかりませんでしたが、前にも書いたようにインタビューはまさに取材の戦場です。自分の役割を十分心得ないインタビュアーだった、と言っていいでしょう。逆に、小平選手はいかにもアスリートらしいシンプルな服装で好感度指数を高めたと思います。
アナウンサーはジャーナリストかタレントか、は今に始まった議論ではありません。テレビ局社員としてのアナウンサーとフリーになってプロダクションに所属するアナウンサートとでは、視聴者の受けとめ方も異なるでしょうが、フリーになるほどタレント化が進んでいるように思います。アナウンサーの結婚、不倫がなぜニュースになるのでしょうか。そんなこと知りたくもない、という人は多いと思います。テレビ局とプロダクションによる「公私混同」です。
私はアナウンサーの仕事を否定する気はまったくありません。取材現場と視聴者の接点にあって、情報を音声と映像で伝える役割です。アナウンサーの技量によっては情報の信頼性にまで影響する可能性があります。娯楽番組などもプロの司会者として番組そのものの「見え方」「見せ方」に影響する役割を負っているわけです。実は新聞にもその役割を担っているセクションがあります。紙面全体をレイアウトし、見出しをつけたり、原稿を削ったりする編集部門です。ただテレビと違うのは決して表に出てこない役割だという点です。
会社を辞めてフリーになると、年収は何倍かになると言われています。そこが記者と違うところです。記者がフリーになるということは、多くの場合、収入の保証がなくなることを意味します。収入だけでなく、取材の拠点も失うことになります。どこかの記者クラブに入っていたのが、独立すれば記者会見にも出られなくなります。さらに、名誉棄損とか損害賠償とかで裁判になった時に、個人で対応しなくてはなりません。顧問弁護士を自分で探すしかありません。会社が助けてくれることは無くなります。
⑤「人間の屑」と言われても驚いてはいけない。
好奇心、野次馬根性、のぞき趣味すべてが必要な職業ですから、好かれるわけがありません。アメリカのキャリアサイトが「米国人が就きたくない10の職業」をネットに出しています。収入、将来展望、ストレスなどから格付けしているとのことです。16年4月のランキングを見ると、一位は新聞記者です。二位が伐採作業員、三位がテレビ出演者(アナウンサー)、四位がディスクジョッキーです。メディア関係が上位を占めているのに驚かされます。
私が朝日新聞に就職が決まった時、友人が教えてくれました。「あいつは人間の屑になろうとしているのか、と○○教授が言っている」。ショックでも何でもありませんでした。新聞記者は時に立派な職業と思われることもあるかもしれませんが、蔑まれることが多い、と感じていたからです。それは新聞の成りたちを見れば分かることでした。
例えば朝日新聞は「小新聞」として、1879年(明治12年)にスタートしました。「大新聞」が政治関係を主としたのに対して、「小新聞」は芸者や娘の情話、火事、泥棒といった社会記事や役者の消息などに力を入れていました。朝日新聞は大衆向けの「絵入り新聞」として始まったのです。
時代が過ぎると、今度はリベラルということで「2・26事件」で襲撃されました。第二次世界大戦になると朝日新聞に限らずメディアは戦争に協力することになりました。
「社団法人 日本放送協会」(今のNHK)が出した「生活にラヂオ」という小冊子があります。ラジオの効用について
「なぜ政府がラヂオの普及を熱望せらるるのか。ラヂオは国家総力戦の有力な武器なのです。ラヂオは戦争するのです」
と謳っています。「ラジオが戦争をする、まさか」といった気分になりますが、当時は本気でそう考えていたのでしょう。戦後の国民から見れば、時局に合わせ、権力に合わせてメディアは豹変してきたのです。おかげで戦前、戦後を通じてメディアは右からも左からも批判されることになったのです。「人間の屑」発言をした大学教授にも、記者は唾棄すべき存在に映ったのでしょう。
では、豹変しないジャーナリズムはありうるだろうか、という難問がメディアの喉元に突きつけら続けて来ました。世論を反映するのがメディアの役割とすれば、世論が変わればメディアも変わる、ということになります。「手のひら返し」の報道が批判されますが、それもメディアの本質の一部だろうと思います。ただそれだけでは報道に何の歯止めもなくなってしまいます。
歯止めは何なのでしょう。政治との距離感だと思います。その距離感は誰も決めることができません。せいぜい首相との食事はお断りするくらいの気概をトップが持つことです。それによって距離感がゼロになることはあり得ない、ということが示されます。社内に常識的な距離感が生まれ、若い人たちの目安になることが期待できます。もちろん例外はいつもあります。政治家を目指すステップとしてジャーナリズムの世界を選んだ人は距離感ゼロを目指すでしょう。
最近驚いたことは日本記者クラブの理事長だった元読売新聞論説主幹が、わずか半年余り在籍しただけで今年1月に退任し、国家公安委員会委員に就任したことです。日本新聞協会、民間放送連盟、NHKの三者が作った日本記者クラブです。その理事長ポストをステップに国家公安委員とは想像外の出来事でした。政治との距離感を失わせ、記者活動そのものが軽く見られる人事に思えました。
⑥テレビ局は記者の採用を独立枠にしよう。
テレビ局は自前で人材を育てる力が弱い、と書きました。その原因の一つは採用制度にあります。テレビ朝日の募集要綱を見てみましょう。採用部門は4つに分かれています。
- アナウンサー部門
- 番組制作・ビジネス部門
- 技術部門
- デジタル企画部門
目を引くのはアナウンサー部門が独立して最初に置かれていることです。番組制作・ビジネス部門の番組制作には、次の内容が列記されています。バラエティ、ドラマ、スポーツ、報道・情報番組におけるディレクター、プロデューサー、記者、です。他のビジネス部門には編成、営業、総務、法務、人事、経理などが挙げられています。NHKを除けば、他の民放も似たり寄ったりでしょう。
これでは報道系に人は育ちません。報道の現場を志望する気持ちが強い人ほどテレビ局を避けたくなるでしょう。私が接点を持っている大学生の中には、報道に行かされるかどうか分からない、という点を気にしています。
⑦読もう、書こう。
最後は老人の説教色が極めて強く出ていると思いますが、お許しください。
メディアは、第三者に読んでもらう、見てもらうことがなければ成り立ちません。そのためには分かりやすい文章、誤読されない文章をどう書いたらいいか、が必須の課題になります。メディアを目指す人は文章に関心を持ちましょう。分かりにくい文章、いい文章の教材は毎日の新聞記事にゴロゴロしています。記者時代に教えられた名言があります。
「新聞は悪文、無理文、そして時々名文の宝庫」(倉庫説あり)
読むという点では文学作品も大事ですが、文学の名文は参考になりません。小説家の名文とジャーナリストの文章は、役割が基本的に異なるからです。ジャーナリストの文章は分かりやすさが最優先されます。対して小説家の文章は作家の個性を表現することを優先するからです。長文で有名な吉田健一や野坂昭如の小説は、個人的な好き嫌いは別にして、一般人が真似してはいけない文章です。
今、ネット上の文章には匿名原稿があふれています。匿名で短文(例えばアホ、馬鹿、間抜け)は最悪です。自分は安全な場所に身を置いて他人を中傷する。そうしないと自分が危なくなる。この匿名・短文の悪循環が日本の作文能力を著しく低下させていると思えてなりません。「文責」(文章の責任)なんていう言葉はどこかに飛んで消えてしまったのです。
新聞を読んではいけない、という麻生太郎副総理の発言は正解かもしれません。ネットの「悪循環」に入り込むほど楽に「情報」と思しきものが手に入るからです。政治家からすれば知識のある有権者は邪魔者でしかありません。
政治家など力のある人たちを楽にさせてあげることは、自分も楽になるのかもしれません。あなたはその道を選びますか。