アラスカへとひらかれた冷蔵庫のトビラ ――現代の大学教育における「忘却」と「余白」の意味を考える――

K.Matsumoto

K.Matsumoto

松本 健太郎

 

 ある朝、うちの冷蔵庫がしゃべった。ボケた僕の錯覚ではない。その前の日に、新しい冷蔵庫が届いたのだ(どこのメーカーの製品であるのかは、ここではあえて伏せる)。

 うちの新しい冷蔵庫は高機能らしく、こちらが油断していると一方的に話し始める(ドキッとする)。
女性の声であるから、おそらく「彼女」なのだろう(…もし違ったらごめんなさい…)。「彼女」の観音開きのトビラをパカパカと開閉するのにあわせて、僕の都合や心情などおかまいなしに、とにかく唐突にしゃべる、というか、むしろその行為は、もはや「つぶやき」とか「モノローグ」とかの類である。

 朝、寝起きで、誰の声もききたくないタイミングであっても、本日の日付をハキハキと、じつに屈託のない声色で教えてくれる。早起きなやつだなあ、と思って多少感心はするけれども、そんなこと教えてくれなくても僕はそこまでボケてないわ、と多少ムカッとしたりもする。だいたい言っていることが、いちいち“大きなお世話”なのですよね。

 数日間をともにしてみて気づいたのだが、「彼女」がいちいち気にかけていることは、僕にとっては些末なことのように感じられる。トビラの開け閉めの回数が多い、だの、卵を切らしてないか、だの、賞味期限の近づいている食品はないか、だの。あげくの果てには、彼女を生んだ親会社の宣伝をしてくる始末である(…まったくイライラする…)。その都度、心のなかで、うるさいわ、とか、卵は嫌いって言うたやん、とか、味わからんくせにそんなこと言う資格あるんか、とか突っ込みを入れてしまう自分がいる(うっかりすると、それを口にだしてしまう。その冷蔵庫との疑似/対人コミュニケーションは、はたからみたらボケた芝居をうっているようにみえるのかもしれない)。

 純真無垢そうな悪気のない声をして、えらい面倒くさいやつだなあ、と思う。高機能をうたってはいるものの、空気を読む力がない。そもそも口(スピーカー)はあっても、耳(マイク)はないのだから会話に発展する余地もない。「彼女」のすべては押し付けがましく、一方的であり続けることに余念がなく、疑念すら持たない。もちろん将来つきあう冷蔵庫の「彼女」が耳を獲得してしまって、僕の悪口をすべて聞いてしまっていたら、ひねくれて、えらい性格わるくなりそうで、それはそれで面倒くさそうではあるけれども。

 僕は「彼女」に、僕は君が想定している一般的な消費者像とは違うタイプの人間です、と、できれば教えてあげたいけれども、あくまで「彼女」は「彼女」を形成しているシステムに引きこもったままで、そこから一歩踏み出して分かりあえる余地がないことは分かりきっているから、ある朝、僕は「彼女」のスイッチをひとつ押して、「彼女」を永遠に黙らせてみようかと思う(…それはそれで、あとになって寂しく感じられるかもしれない…)。

 まあ卵くらい切らしたって、食材くらい腐らせたって、いいじゃないかと思う。冷蔵庫のなかに忘却することから派生する何かがあったって、別にいいじゃないかとも思う。たとえば、そこから新しい料理や、未知の感情が芽生える余地があるかもしれない――そのすべてが成功体験をもたらさないとしても、である。しかし今の「彼女」は、そのような可能性を受け入れるタイプではないらしい。ただひたすら、将来的に発生しうるリスクをあらかじめコントロールしようと躾けられている、というか、前もって書きつけられて(プログラムされて)いる(卵くらい腐らせたって、誰も「彼女」のせいにしたりしないのに、とも思う)。前につきあっていた「彼女」は、あらゆる可能性を許容してくれる寛容で低機能な冷蔵庫だったな、と思って、すこし、そのかすかな体臭を懐かしく感じたりもする。

 

増殖する無意味な言葉たち

 

 僕は、ふだんは東京都心の九段にある二松學舍大学に勤めている(言葉や映像やメディアなどに関する理論や思想を教えているのだ)。だいたい僕が専門とする記号論やメディア論は、日常生活のあらゆるもの――冷蔵庫も?――が考察の対象になりうるわけだけれども、上記の事例に僕がみいだした「コミュニケーション/ディスコミュニケーション」は、けっこうありふれた問題だとも思っている。冷蔵庫の「彼女」の言葉がそもそも誰によって発せられ、誰に向けられたものなのかが、いまいち分かりにくいように、結局なんだかよく分からない増殖する言葉たちが社会空間の表層をたゆたい、そして僕らはそのなかをたゆたっている。

 それは東京の地下鉄構内をあるけば各所に過剰にはびこっている。
 「暴力は犯罪です」(…そんな定義くらいわかってます…)
 「ポイ捨て禁止」(…そもそも捨てませんがな…)
 「いつも綺麗にお使いいただきありがとうございます」(…今日はじめて使いましたけど…)

 などと印刷され視界に流し込まれる。社会的には当たり前と言えば当たり前、ほとんどの通行人には無意味と言えば無意味な、しかもそれが喚起するメッセージの実効性に疑問が残り、なおかつ発信者の「いちおう言ってますアピール」としか思えないような無数の貼り紙を思い出してもらえばいい(冷静にみつめてみると、日本とはかくも壮大なディスコミュニケーション社会なのか、とも思う)。

 

アラスカへとひらかれた冷蔵庫のトビラ

授業中の学生

 

 ところで大学教育の現場で、ふた回りほど年下の、ちがうメディア環境で生まれ育ち、ちがう想像世界のなかに生きる若者たちを相手にしながら、まるで、ちがう星のちがう生命体と対峙するかのような感情を抱くことがある(とはいえ彼ら、彼女らを単純に批判してそう思うのではなく、興味と尊敬と警戒が交錯する感情を同時にもちながらそう思うのである)。話す冷蔵庫のコミュニケーション・スタイル、どこか既視感を覚えるなあ、と思っていたら、よく考えてみると一部の学生たちのそれにも同じスタイルのものがあった。

 これは若干かわいそうだとも思ってしまうのだが、そもそも今どきの学生たちが生きる情報世界には圧倒的に「余白」が足りていないように見受けられる。「既読スルー」「ソーシャル疲れ」なんて言葉もあるけれども、LINEやらTwitterやらFacebookやら、様々なソーシャルメディアに包囲され、様々な関係性にありがたくも「見守られ」、その情報に埋め尽くされた関係性のなかで、期待され(…ていると本人が勝手に勘違いしている場合もあるだろうが…)単純化された役割を演じることを厭わない。

 

テクノロジーがもたらす「大きなお世話」と「回路の閉鎖」

 

 冷蔵庫が“大きなお世話”をもたらしたように、ときに現代のテクノロジーは“大きなお世話”をもたらしてしまいがちである。たとえばオンライン通販サイトの「レコメンデーション機能」――これは過去の購買履歴から特定のユーザーの趣味や関心を割り出し、サイト内でそれと関連するカテゴリーの「おすすめ商品」を推奨してくれるものである。あるいは携帯電話・スマートフォンなどに搭載されている「予測入力」――これはキーボードによる文字入力を省力化してくれるもので、言葉の選択肢を先回りして表示してくれるものである。自分が次に考える可能性があること、次に欲望する可能性があることが、あらかじめテクノロジーによって制御される(…便利でもあるが、気持ち悪くもある…)。その“大きなお世話”的な巨大システムのなかでは、思考や欲望のどこまでが自分由来で、どこからがシステムの要請に応えたものなのかが、じつは本人にとっても判然としないという場合も少なくないだろう。

 そのような「窮屈」と言えば窮屈な技術的関係のなかで、今の学生たちは「選択的」に人間関係を構築しているようにみえる。その背景には、ソーシャルメディアによって、自分と同じ趣味をもつ同質的な集団とのみ選択的にかかわる、ということが容易だからである、ということもあるだろう。たとえば自分の趣味の話をしてみる、それに共感する相手とは爆発的に盛りあがるけれども、相手が異質な他者だとイメージすると、いとも簡単にコミュニケーションの回路を閉ざしてしまう。同じ集団のなかで空気を読むことはできても、社会には、様々な集団ごとに様々な空気が散在している可能性については決して想像力をはたらかせたり、寛容であったりしない。これも彼ら、彼女らの環境適応のカタチなのだろう、とは思うけれども、それはさすがにどうかなあ、とも思う。

 そのような技術的、社会的環境の帰結ということもあるだろうけれど、今の学生は、とにかく失敗を恐れがちである。一部の学生に関しては、将来的に失敗する可能性があるのなら、最初から何もやらないほうがいい、と思っているふしすらある(下手をすると、まったく自分の「冷蔵庫」から出てこようとしない場合すらある)。しかしいくらなんでも、そのリスク管理の方法は極端だろう、と唖然としてみたりする。

 僕は大学という場にいて、学生に何かを教えなければならない立場にいる。それは一種の職業的な宿命で、情報のインプット(論文をよむ、講義でノートをとる)/アウトプット(プレゼンをする、レポートを書く)を効率的、構造的におこなうための技法を伝授しなくてはならないことは当然だとしても、ときに情報の「余白」や、情報の「忘却」の意味や重要性を学生たちに伝えなくていけないのではないか、とも思う。僕が研究していたフランスの記号学者、ロラン・バルトはかつて次のように語っていた――
「学んだことを忘れてゆくという経験。自分が経てきたさまざまな知や文化や信念の堆積に、忘却がほどこす予期しない手直しを自由におこなわせてゆくということ。この経験には、輝かしくも時代遅れの名前がつけられていると思う。ここではあえてその名前を、まさに語源的意味の分かれ目において、劣等感なしに採用することにしよう。すなわち、「叡智」(Sapientia)。なんの権力もなく、少しの知(サヴォワール)、少しの知恵(サジェス)、可能なかぎり多くの味わい(サヴール)をもつこと」(ロラン・バルト 『文学の記号学』より)。

 「叡智」と並べて言及される「忘却」――それがもたらすものは、インプットとアウトプットが限りなくイコールに近づくような(詰め込み型の受験勉強の産物のような)タイプの知性ではないだろう。テラバイトの単位に届くほどまでに、身近なデジタル記録媒体が発達した今、僕らはいまいちどバルトの語る「忘却」の意味を考えなおしても良いのかもしれない。

 今どきの学生たちのなかには、技術的にいって、否が応でも視界にはいってしまうLINEのやりとりの履歴に意識を拘束され、その都度、恣意的に形づくられたはずの、蓄積された自己イメージを強化していってしまう。その結果として、忘却することを武器に新たな自分と偶発的に出会ってしまうチャンスを逸している者たちも多いように思われる。僕自身はどうだったかな、と記憶をたどると、たしかに20年以上も前に、それまでの自分を忘却し、冷蔵庫から一歩足を踏み出そうと決意した瞬間があったように思われる。それは冷蔵庫以上に寒くもなるアラスカでの、とある出会いがきっかけであった。

 僕は今でこそ大学という場で教鞭をとっているが、過去の自分を放棄し、漂流をくり返しながら今の場所にたどりついた、という実感をもっている。高校卒業後の2年間、大学進学に自分の未来を見出すことができず、インドだのアラスカだの、あちこちをバックパッカーとして放浪してまわった。結果的に2浪してしまうことになったが(それ自体は人生の大失敗だったかもしれないが)、今の研究につながる貴重な出会いも得ることができた。そのなかのひとりが、動物写真家の星野道夫さんであった。

 ご存知の方も多いのではないかと思う。彼は1996年にカムチャッカでヒグマに襲われて急逝するまで、アラスカのフェアバンクスを拠点として素晴らしい写真集、エッセイ集を何冊ものこした人物でもある。星野さんはときに数週間ものあいだ、ひとりアラスカの原野に降り立ち、誰とも出会わない孤独、圧倒的な「余白」、情報世界の「空白」、彼の表現でいう「意味のない世界」のなかで、とことん自然と自分と向きあい、そこから良質な作品を多く生み出していった人である、という印象をもっている。その彼は、たとえば野性を生きるクマについて、ある本のなかで次のように語っていたりする。

 「僕はアラスカにクマがいるということは大切だと思うんですね。例えば北海道にもまだヒグマは残っていますが、やはりだんだん少なくなっていく。もしヒグマが北海道にいなくなったらどんなに寂しいだろうと思うんです。アラスカの場合、夏にキャンプをするときにクマの心配をしながら、どこかでクマのことを考えながら夜を過ごそうとするわけですが、逆に言うと、自然との間にそういう緊張感を持てるということは、贅沢なことであるとともに、とても大切なことだと思うんです。もしクマがいなくなったら、たしかに夜心配しないでキャンプをできるかもしれないけれども、それはつまらない、寂しい自然だなと思います」(星野道夫 『魔法のことば』より)――そんな彼の言葉をふまえてみると、我が家の新しい冷蔵庫は、さしずめクマと遭遇するリスクのない「寂しい彼女」といったところか。

 将来に何の目標もみいだせずに大学受験を回避した私を、ヒマラヤで遭難死した父の友人でもあった星野さんが撮影旅行に誘ってくれたことがある。デナリ国立公園の紅葉するツンドラのなかで数日間をともにした星野さんは、とても大きくやさしく、事前に想定していたあらゆる大人とも違っていて、まだ精神的にはじゅうぶんに子供だった私を身震いさせた。

 

広大で多様性にみちた外部世界

 

 その当時の「健太郎君」との出来事を、星野さんは『イニュニック 生命――アラスカの原野を旅する』という本のなかで次のように紹介してくださっている――「彼と一緒に旅をしながら、僕は不思議な感覚にとらわれていた。彼の父親が生きていたら、きっと僕たちはこんな時間をもたなかったかもしれない。そして自分と健太郎君とのつながりは、これから新しく始まってゆくに違いない。肉体は消えても、人が生き続けるとはそういうことなのだろう」。

 ところで、星野さんにとってのクマと、僕にとっての星野さんには似ているところがある、と思う。彼の肉体は消えたが、彼の記憶は僕のなかでは生きていて(…とはいえその思い出も、いろいろと細部を忘れはじめてはいるが…)、研究のなかで写真や記憶の問題をひとり考える際の参照点にもなっている。ただその一方で、20年前以上まえに彼と出会った当時の僕の「言葉」(言語化しうること)や「想像」(イメージしうること)に外部がある、と決定的に僕に教えてくれた彼は、僕にとって今にいたるまで、彼にとってのクマと(おそらくは)同じように、魅力的でありながらも不気味な存在――想像しうることに還元できない何か――でありつづけてきた。むろん人気の「くまモン」のクマのように、わかりやすくキャラ化できる記号的存在にはなりえない。

 たかだが直径十数センチの、ちっぽけな自分の脳(考える物質)の外側に、広大無辺で多様性にみちた現実界があると知ることは(野生のクマがいる世界を知ることは)、見方によっては、じつに楽しい経験かもしれない。

 そんな冷たい冷蔵庫のなかにひきこもっているんだったら、内側からトビラをあけて一歩足を踏み出してみたら、と僕は学生たちを前にして心のなかで思うことがある。立命館大学の観光社会学者、遠藤英樹さんは、かつて世界のリアリティにアクセスするための媒体となっていた「恋愛」や「旅」(とくに心理的ノイズの多い、バックパッカーのそれ。最近なにかと話題の、食品に異物が混入する、なんて出来事は、場所によっては日常茶飯事かもしれない)の意味が現代において変質しつつあることを『メディア文化論』(遠藤英樹・松本健太郎・江藤茂博共編)という本のなかで示唆している。たしかに今の若者たちは、以前とくらべて恋愛をしなくなったし、旅もしなくなったようにも思う。

 旅もしなくなり、恋愛もしなくなったら、きっと冷蔵庫のなかは冷たいままだろう、と言ってしまうのは“大きなお世話”だろうか(僕は機械ではない)。もしかしたら今、あなたはテクノロジーのなかの自分を忘却し、一歩踏み出して「魔法のことば」を探しにいくべき時なのかもしれない。