君和田 正夫
記者時代、知人にこう言われたことがあります。
「日本の社会で自己革新できない職業が三つあります。政治家と先生と記者です」
「どうして?」
「三つの職業に共通していることは、日本語だけで勝負できること。外国との競争がないのです。新聞社を例にとれば、外資の参入なんて考えられないでしょう。競争がない世界に自己革新はあり得ません」
最近は自己革新できないという批判どころか、事態は悪化し、記者の質が落ちたのではないか、という批判をよく聞かされます。
私は必ずしも記者の質が低下した、とは思いません。逆に、今の記者を見ていると、気の毒になることがあります。忙しすぎるのです。「発表依存型取材」がやり玉に挙げられますが、発表の数は、私たちが取材していた時代よりはるかに増えているのではないでしょうか。また発表を聞いたら、すぐ原稿を送らなければなりません。インターネット登場以前でしたら、朝刊、夕刊の締め切りをにらみながら、追加取材したり、原稿を書き直したりしていました。しかし今は、ニュースサイトに向けて「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」が仕事になっています。今月の「登竜門」でも、この辺の事情に触れています。
私たちの時代より、勉強しなければいけないことが増えているにも関わらず、勉強する時間やゆとりが減っているのかもしれません。
「町に出よう」の危うさ
昔から発表ばかりに頼ってはいけない、ということで、「記者クラブを捨てよ、町に出よう」と言われてきました。寺山修司の評論集『書を捨てよ、町に出よう』のタイトルから借りたものです。しかし、発表は大事にしたい、と私は考えます。発表からすべてが始まる、ということもあります。発表依存型、という批判の多くは、発表の垂れ流し、という点に焦点を当てています。もちろん、発表を取材すること自体を問題にする意見もあります。発表側に都合のいいことしか言わないのが発表だから、それは通信社にまかせて「町に出よう」ということになります。
しかし、誰もが発表を放り出していい、とは思っていないでしょう。最大の問題はなぜ垂れ流しになるのか、という点です。私の答えは、記者の数が足りない、従って記者を育てる余裕がなくなってきている、ということです。
・都合の悪いことが発表では隠されていないか
・発表の後のフォロー体制を作ることができているか
・発表されない分野へのカバーがおろそかになっていないか
・取材範囲が狭くなっていないか
・専門知識を持つ記者を育てているか
こうした問題点をひとつずつ解決するためには要員問題は避けて通れないのです。原発問題では「発表を鵜呑みにして安全神話をばらまいた」という批判をずいぶん聞かされました。1979年の第二次石油危機、米国のスリーマイル島原発事故当時、エネルギー記者クラブに身を置いた人間として、この批判を謙虚に受け止めたいと考えますが、批判と反省の繰り返しだけでは、次に起きる問題への対応策にならない、とも考えています。
記者数は減、情報量は増のギャップ
私が朝日新聞に入社した昭和39年(1964年)ころ、朝日新聞の社員数は「1万人」と教えられた記憶がありますが、社史で調べてみると、社員は7737人、嘱託・アルバイトも併せて8584人でした。それが現在は5000人台にまで減っています。
朝日新聞社に限りません。日本新聞協会に加盟している新聞・通信社の従業員数、という統計を、協会が発表しています。それによると、社員・嘱託・出向者などの従業員数はこの10年間で1万人以上減っています。2004年は5万4436人、そして13年は4万3704人でした。この調査のピークだった1992年の6万7356人より、35%減っている、と記しています。ただ減少分を純減と考えることはできません。印刷工場などを分社化した影響などがあるからです。
では記者数はどうか、この調査によると、2004年の2万979人が13年には1万9666人へと、1300人ほど減っていますが、総従業員数の減り方と比べると、予想外に減っていない、と言えます。従業員の部門別構成比では、編集部門は上昇しています。苦しい中で経営陣が新聞社の生命線とも言うべき編集部門の削減を極力抑えてきた結果ともいえるでしょう。
しかし、減り方が小さいとはいえ、情報量は増える一方ですから、情報量とのギャップは広がっていると言えるでしょう。このギャップを埋めるには情報量が一番多い大都市、とくに東京に人を集めることになります。地方はどうしても手薄になります。前回の「塾長室」で懸念を表明した「情報の一極集中」に拍車がかかることになります。
と言って、今、記者の数を増やす、社員の数を増やすという経営者はいないでしょう。とりわけテレビはキー局5局とも上場しています。上場の意味については、別の機会に考えてみたいと思いますが、上場した以上、優先課題は株主価値の向上でしょう。株主価値の棄損はあってはならないことです。社員の数を増やすことは財務体質の悪化に繋がりかねないので、慎重にならざるをえません。では、どうしたらいいでしょう。記者の「根性」や「記者魂」に期待する精神論では解決できません。
外部の人材を
私の答えは二つあります。
一つは外部との提携です。新聞社やテレビ局が報道NPOや大学、研究機関、シンクタンクなどと手を結ぶことです。つまり外部に人材を求めることです。米国ではリーマンショックの後、新聞・テレビのコスト削減が進み、多くの有能な記者が会社を辞めてNPOに参加しています。そのNPOは既存の報道機関にニュースを提供するようになっています。大学、調査・研究機関との提携は専門分野の強化と若い人材の確保に繋がるはずです。こうした提携は、現在行われている外部筆者による論文とかコメントではなく、あくまでも記者活動の強化の視点で行われるべきです。
さらに進めて、報道機関が新たな報道NPOの誕生を積極的に支援することを考えてもいいでしょう。「いやぁ、わが社にはわが社の社員教育の仕方があるので…」と考える向きもあろうかと思いますが、提携先の人たちにも社員教育の門戸を開放したらいいのです。すでに「社会記事を書くための基準集」(共同通信)や「放送人権委員会 判断ガイド」(放送倫理・番組向上機構)の年度版など記者研修についての本は多数出ています。ですから開放はさほど難しい問題ではないはずです。少ない記者で世の中の動きをカバーすることが、極めて困難になった今、できるだけ外部の人材と知恵を借りることです。
二つ目は現在の雇用制度を替えることです。サッカーやプロ野球選手のような契約制を導入することです。1年契約の記者もいれば、5年契約の記者もいる。契約金は当然、各人ばらばら。報酬の基準は記事。大学卒を採用し、定年まで保証する現在の制度の限界が見えてきています。もちろん組合との合意がなければ難しいことです。
要員問題が報道の質に直結していることを考える時、「経営と編集の分離」という考えは、ある特定の局面を想定したもので、中長期的には分離はあり得ないと思います。この分離問題は、経営が記事や番組にどこまで口出しできるか、という問題です。とくに「記事・番組」が「広告主・スポンサー」と、あるいは「取材先・報道された側」との間にトラブルが起きた時や起きそうになった時の話です。
記事・番組の質を上げる、という観点から、経営は斬新な方法で人材育成・取材力強化に取り組む時代に入っています。