私は活動写真弁士です。と申し上げても「それ何?」と言う若い方が多いと思います。現在、映画はすべてと言っていいほど音声付ですが、昭和10年前後までは「無声映画」であり、映画の事を「活動写真」と呼んでおりました。その内容を語りで表現し、解説者の役割を担うのが活動写真弁士。略して活動弁士なのであります。
無声映画全盛期には、全国に8千人近くいたといわれる弁士も、現在では報酬をいただける人で10名程度。映画館だけでなく、ホールやイベント会場、学校の体育館でも公演します。時にはピアノや楽団の方ともコラボするし(当時はすべて生演奏)現在の映画を観るスタイルとは、少し違った趣で、今なら「映像ライブ」と言った方が分かりやすいかもしれません。
80年以上前の映画でありながら、無声映画は“今見て新しい”感動にあふれています。
映画という文化を最初に創りあげて行く若い人たちのエネルギーが画面にみなぎり、俳優たちは美しさや個性に富み、ストーリーは単純であるものが多いけれど、シンプルで直球。胸のど真ん中にずどんと刺さるのです。名作と呼ばれる作品は、後にリメークされていますが、無声映画時代の第一回作品が、「最初にして最高」と謳われるものが多いのです。
ちなみに弁士はしゃべるだけでなく、字幕以外の台本を基本的に自分で作成します。ですから演じる弁士が変わると、その作品の見え方が変わったりもします。先人が書いた台本の一部が残っていたり、音源などを復元したりする場合もありますが、映画の最後の送り手である立場として、作品の本質を損なわずに、脚色・演出しながら、一人で語りきります。時にはフィルムの失われた部分を補足して説明するという、時間のかかる作業もあります。
なぜ私がこの仕事にであったか、と言うと、とても不思議なご縁がありました。私は子供のころから演じることがとても好きで、学校にお芝居を公演しに来る劇団の人にあこがれ、自分も旅をしながら芝居をするような役者になりたい、と思うようになりました。近所の方の紹介で劇団ひまわりに入団。公演部というセクションで全国を巡業していました。そこから劇団影法師で客演。中国やアセアンにも海外公演で行ったり、水芸という日本の奇術でアシスタントをしたりしながら「自分が最高に輝ける場所、自分の力を最大限に発揮できる舞台」を求めて、悩みながら渡り歩いていたのです。
三十路も半ばになっていたのに、10代の子供たち相手の募集しかないようなオーディション雑誌をめくって見つけたのが、「活動弁士オーディシ」の記事でした。そこには「年齢不問」と書かれていました。一人でやれる舞台に興味があったくらいで、無声映画はチャップリンしか知らなかったのに、その場で電話してオーディションを受けました。合格して最初に観た映画が、現在の師、澤登翠が弁士を務める『瞼の母』。主演は片岡千恵蔵、共演が山田五十鈴、演奏は楽団カラード・モノトーン。この映画を観た時の感動は生涯忘れることができません。
「私が探し求めていたのはこれだ!!」
声色を使い分け、観客を自然に映画の中へと誘う、その魅力のとりことなって、13年の歳月が流れました。紆余曲折はありながらも、使命の道、と信じて歩んでいます。
公演する映画は日本のアニメーション(のらくろなど)もあれば、洋画では第一回アカデミー賞受賞作品などもあります。先日、広島で公演した『瀧の白糸』は主演が入江たか子で、水芸師という役です。水芸アシスタントをやっていたことも生かされ、これまでやってきたことすべてに無駄はなかったのだ、と不思議な縁に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
日本中の子どもからお年寄りまで、いろいろな方々に活弁公演をご覧になっていただくこと、それが私の夢なのです。