絶望と混乱の中の対話 ―がん患者とその家族に寄り添う精神腫瘍医―

稲垣 麻由美

 「先生、僕にはまだ、生きている意味なんてあるのでしょうか?」。

 25歳男性。大学卒業後、希望していた会社への就職が叶わず、一念発起して弁護士を目指すことにしていた。3年の時をかけ、満を持して臨むはずだった司法試験の前日、胃がんであることが判明した。胃の3分の2を摘出。その半年後に腹膜へ転移。再発を知った1週間後に睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったが、母親に発見されて一命を取りとめた。そんな深い絶望の淵にいる彼を対話という手法で救ったのは、精神腫瘍医という、がん専門の精神科医だった。

 

「こころのケア」は第4のがん治療

 今、日本では2人に1人ががんになり、3人に1人ががんで亡くなっている。医療の目覚ましい進歩により、死に直結する病気ではなくなりつつあるが、それでもがん宣告を受けると多くの人は死を意識し混乱する。様々な葛藤や感情と向き合う日々の中で、患者の20%が適応障害になると言われている。

 そのような状況の中で、注目されているのが精神腫瘍医(サイコオンコロジスト)の存在だ。「精神腫瘍」という言葉自体、まだあまり知られていないが、がん患者とその家族のこころのケアを専門に行っているのが「精神腫瘍科」であり、がん患者専門の精神科医・心療内科医が「精神腫瘍医」だ。がんの3大療法である「手術療法」「化学(薬物)療法」「放射線療法」に次いで、こころのケアを含む緩和ケアは、第4のがん治療だという認識が広まっている。

 

がん先進国アメリカで生まれた

 1970年頃からがん医療の先進国であるアメリカで、がん患者の心の状態が病状に密接に影響していることが注目されるようになった。そこで「がん」と「心」の関連性を研究する学問、精神腫瘍学(サイコオンコロジー)が生まれた。これは心理学(Psychology)と腫瘍学(Oncology)を組み合わせた造語である。1977年にニューヨークの「メモリアル・スローン・ケタリングがんセンター」に精神科部門が設立された。日本では1990年代からこの考えが広まり、全国に先駆け1992年に国立がん研究センター中央病院に「精神科」が開設された。その後名称を「精神腫瘍科」に変更。その流れは徐々に広まり、今では都道府県や地域がん診療連携拠点病院でも精神腫瘍科が開設され、精神腫瘍医が在籍するケースが増えている。にもかかわらず、未だに多くの人に知られていない背景には「サイコオンコロジー」という言葉を、「精神腫瘍学」とストレートに訳してしまったことにあるのではないか、と個人的には考えている。せめて、「腫瘍精神学」と訳していれば、もう少しわかりやすく、さらに広まりやすかったのではないだろうか。

 

「住宅ローンは死ねば終わる」

 昨秋、その精神腫瘍医の一人、国立がん研究センター中央病院・精神腫瘍科長の清水研医師を主軸に『人生でほんとうに大切なこと がん専門の精神科医・清水研と患者たちの対話』(KADOKAWA)を刊行した。20〜60代の様々な背景を持った7人の患者さんが清水医師との静かな対話を通して心の持ち様も時間の過ごし方も変わっていく人生の物語を描いたものである。

 私がこの本を書くことになったのは、第7話に登場する千賀泰幸さん(当時56歳)とのご縁がきっかけだった。IT 関連企業に勤める3児の父でもある千賀さんが、思いも寄らず5年生存率5%の進行性肺がんと診断されたとき、最初に思ったのは「住宅ローンの残りは、自分が死ねば終わる」だったそうだ。そして数日後には、妻に自分の葬儀の段取りを事細かに指示している。

 だが、がんという病気は告知されてすぐに死ぬという病気ではない。そこから体験することになる死への恐怖。退院後も続く、寄せては返す波のような痛みが、愛する人と別れることになる猛烈な悲しみをリアルなものにした。また、復職してからの葛藤と鬱。家族を守り、新規開発事業のエースとして部下を引っ張ってきた男性が不甲斐なさでいっぱいになる気持ち、9ヶ月ぶりに戻ってきた職場にどうしても馴染めない苦しさは、想像に難くない。しかし、生きている限り治療費はどんどんかかる。仕事をやめる選択肢はない。電車の中でもポロポロと泣くようになり、「身体だけでなく、とうとう心までポンコツになってしまった」と混乱する千賀さんを救ったのが精神腫瘍医だった。

 もっとも初めは、信頼する主治医から精神腫瘍科の受診を勧められたとき、千賀さんは「私は涙もろくなっただけで、精神科にかかる必要はありません」と激しく抵抗している。だが、「大丈夫です。今はただ、心が混乱されているだけですから」とやんわり笑顔で言われて、しぶしぶ受診することになった。

 「先生、私は死ぬのが怖いのです」

 初めておそるおそる自分の気持ちを言葉した千賀さんに、清水先生はこう答えている。
「当然のお気持ちだと思います。怖がってもよいのではないでしょうか。千賀さん、わからないことは怖いですよね」

 「わからないこと、ですか?」

 「はい。死ぬということはどういうことなのか、わからないですよね。経験していないことですから。だから、人は死が怖いのかもしれません」

 「先生、私は泣くのです」

 「泣いても良いのではありませんか。私はとても自然なことだと思います」

 「怖がるのは私だけでないとしても、声をあげて、私は泣くのです」

 「千賀さんが泣くと、誰かが困りますか?」

 「えっ……」

 これが、初診のときの対話の一部である。

 

迷子の手を引く医師

 一昨年の夏、千賀さんから

 「死の淵を覗いていた私が今、こんなにも日々感謝の気持ちで歩めるようになったのは、先生が迷い子であった私の手を引いてくれたからなんです。がんは身体だけでなく心をも蝕みます。同じ苦しみを抱えている人に、精神腫瘍科を広く伝える本を書いてもらえませんか」
との相談を私は受けたのだった。

 最初は躊躇した。大病の経験もない私が「生と死」に関することを書ける自信がなかったからだ。それに、がんの本は「これを食べるとがんが消える!」といった類のものは売れても、なかなか体験記のようなものは売れないことも知っていた。でも、「自分の人生の残りの時間を、精神腫瘍科を広めることに使いたい」と私の目をまっすぐに見て語る千賀さんの眼差しに触れ、次第に覚悟が定まっていった。

 そして1年半近くの取材の中で、私はがん体験の苦しみを経て新たな人生の扉を開いた方々との出逢いに恵まれることになった。

 

人生の期限を知ると過ごし方が変わる

 「人は最期を意識すると、人生の未解決な課題に取り組もうとする生き物なのです」これは清水医師の言葉だ。「未解決な課題」というのは、人によって様々だろう。やり残してきたこと、どうしても心残りなこと、最後に誰かに伝えたいこと……。限られた時間を意識するほどに、人は自分にとってほんとうに大切にしたいものは何か、を突き詰め、そのために濃密な時間を過ごすようになる。だれも病気になることは望まないが、明日も明後日も当たり前のようにやってくると思って過ごしているのと、死を前提に自分の命があることを自覚した日々では、時間の過ごし方は明らかに違うものになる。死を意識する体験は、人生を深く考えることにつながるのである。

 実際、がん体験を経て、当たり前の日常の尊さに気づき、目の前の景色がより鮮やかな色彩を帯びて見えるようになった人、家族関係が大きく変わった人、子供の頃からの抱えていた辛い気持ちを初めて言葉にし、やっと自分の人生を受け入られるようになった人、いろいろな方のお話を伺うことができた。

 また、「多くの方は最期、『ありがとう』と言って亡くなっていかれます。自分の人生を恨んだまま亡くなっていく方は、不思議なほどいないものです」と清水医師から教わった。この言葉は、人間への信頼を取り戻すような温かさと希望がある。

 

精神腫瘍医を続けられる医師は少ない

 取材中、若い研修医に「精神腫瘍医の仕事は大変ですね」と声を掛けたとき、すぐに返ってきた彼の言葉が忘れられない。

 「考えてもみてください。精神腫瘍科の医師というのは、目の前の患者さんから、たとえば、
『つらいです。あと半年の命なんです。もうどうすればいいのかわかりません』という思いを打ち明けられ、それに答え続ける仕事なんです。そう言われて答えられますか?言葉につまりませんか?根気強く患者さんの話を聴くことが求められる。気休めで、希望的観測みたいなことを言ってはいけない。患者さんの気持ちに寄り添うというのは、ものすごくエネルギーがいることだし、ほんとうに難しいことなんです」

 まさに、その通りだった。清水医師を密着取材する中で、この人はどうやって、自分の心のバランスをとっているのだろう、と思うことばかりだった。実際、この精神腫瘍医を続けられる医師は少なく、全国でも100名程しかいない。

 「がんに罹患された方の診療に携わることができる有難さが苦しみを上回るようになるまでは、少なくとも10年はかかったと思います」という清水医師にお願いして、この本の中では「精神腫瘍医を続けている理由」というコラムを書いていただいた。

 

人生を深く考えることにつながる

 冒頭の男性の話に戻る。

 清水医師が最初この男性に、「ご気分はいかがですか?」と声をかけたとき、男性はうつろな表情で即座にこう答えている。

 「いいはずがないじゃないですか。あなたに、この気持ちがわかりますか」
がん再発という現実は、「死」を猛然と身近に感じる体験となる。その恐ろしさはいともたやすく精神を蝕んでしまう。

 「あのつらい治療はなんだったのでしょうか。どうせもう治らない。僕には時間もない。それにいい加減、この痛みから、この苦しみから解放されたい。僕は死ぬことすらできなかった……」

 そう一気に思いを吐くと、清水医師の目をまっすぐに見てこう問うている。

 「先生、僕にはまだ生きている意味なんてあるのでしょうか?」

 こういったとき、どんなに動揺することがあっても、精神腫瘍医は決して安易な言葉がけはしない。

 「今、◯◯さんは生きている意味がわからないと思われているのですね。もう少しお話を伺わないと、私にどのようなお手伝いができるかわかりませんが、この状況をどのように考えれば生きる意味を見出せるのか。気持ちが少しでも楽になれるのか。私も一緒に考えたいと思っています。よろしければ、時々こうやってお話をしませんか?」

 「いいんですか?」

 「もちろんです」

 このように、清水医師の診療は始まる。そして実際、この男性はその後3日に1度の割合で面談を重ねた。楽しそうにしている人を見るとつらい。普通に健康に暮らしている人に「のうのうと生きやがって」と思う気持ちも素直に言葉にしている。そして、子供の頃からの思い出を語るうちに、両親からどれほど大事に愛されて育ったかを深く悟る。また、自分だけでなく、誰もが死を前提に生きていることを清水医師から指摘されて、次第に心の有り様が変わりだす。5回の面談を経た後、「限りある時間を誰かを恨むような気持ちで過ごすのは、あまりにもったいないことだと気づきました。生き切りたい。両親にちゃんと感謝の気持ちを伝えたいし、一瞬一瞬を大切に過ごしたいと思います」と言って入院時とは別人のような顔で退院していった。

 それから半年後、お母様から「それから亡くなるまでの間は、とてもいい時間だった」と清水医師に報告があった。

 清水医師は医療関係者向けの勉強会などで「進行・終末期のがん患者に対して精神腫瘍医ができることは、患者さんが抱えている問題を取り除いて解決することではなく、困難な状況に患者と家族が向き合うのを手助けすることである」と繰り返し伝えている。そして、「人は誰もが苦難を乗り越える力を持っている」とも。だからこそ、患者さんの話にじっくり耳を傾け、待つことも大事なのだという。

 絶望し、混乱した思考から抜け出す鍵は、「がんになった体験を、どう意味づけられるか」だ。それは現実を直視する作業となり、悲しみ、不安、恐怖、怒りなどの激しい感情の嵐がやってくることは避けられない。そんなとき、精神腫瘍医の存在は実に大きい。また、精神腫瘍科の診療は保険内診療であることも書き添えておきたい。