“自壊”するメディア界を喜ぶのは誰か?

Sunagawa Yoshihiro

Sunagawa Yoshihiro

砂川浩慶

 朝日新聞の「吉田証言」「吉田調書」の2つの訂正をめぐり、産經新聞、読売新聞、週刊文春、週刊新潮などのメディアが異常なバッシングを繰り広げている。その向こうには、「そもそも従軍慰安婦の強制連行はなかった」「原発再稼働を進める」という、現自民党政権の意向が透けて見える。

 民主主義社会におけるメディアの第一の役割は、権力監視(ウォッチドック)である。その役割を果たさず、他メディアを攻撃し、視野狭窄的なナショナリズムをあおった結果、戦争に突き進んでいったことは歴史が教えるところだ。しかも、「朝日をたたけば売れる」という姿勢は、既に冷静な読者・視聴者から看破されており、メディア全体の信頼度を下げている。攻撃しているメディアは、自ら墓穴を掘っていることに気づいているのだろうか。

 メディアが自壊することによってもたらされるものは何か、考えてみた。

 メディアは信頼がなければ成立しない。その信頼を得るためには、誤ったことを改めることはむしろ推奨されることである。日本のメディアが過去、訂正に後ろ向きであったことは間違いない。取材した立場で考えれば、「訂正記事は恥」との意識については一定の理解はできるが、誤った情報が流布されたままであることのほうがよほど問題である。その意味で、朝日新聞の訂正は歓迎されるべき事項と考える。ただ、気になることは記者を含めた処分が俎上にあがっていることだ。読者にとって重要なことは記者の処分ではない。なぜ、そのような記事が掲載されたかを自らのメディアで明らかにする、つまり「事後検証」が重要だ。記者を処分することは萎縮効果を招き、リスクを伴い経費がかかる調査報道を減少させることにつながる。

 「事後検証」は長い目でみてメディアの信頼を増す。1980年、ワシントン・ポストは、8歳のヘロイン常習患者をルポした「ジミーの世界」を掲載した。この記事は81年、ピューリッツァー賞を受賞したが、その後、架空だったことが判明し、ワシントン・ポストは受賞を辞退、外部委員によるオンブスマンが調査を開始した。調査結果は紙面5面を使い、ねつ造の経緯と社内の問題を公表した。この姿勢は長期的には同紙の信頼を高めることとなった。そのことを是非、朝日新聞の経営幹部には考えてほしい。
政治に利用されるメディア
 メディアの役割がウォッチドックと書いたが、メディア同士の内紛は政治にとって好ましい。その内紛を利用し、むきだしの権力行使が行われる。

 私自身の経験からいっても、凄まじいものだった。私は大学に移る前、民放の業界団体である「日本民間放送連盟」(民放連)に20年間務めた。1993年、広報兼記者という不思議な仕事をしていたときだった。民放連の会合で、細川連立政権が成立した同年7月の総選挙報道に関し、ゲストのテレビ朝日の報道局長が「非自民政権を成立させるような報道を指示した」などとの記事を、10月13日に産経新聞がスクープした。これを問題視した自民党・共産党が証人喚問を要求、あっという間に実施が決まり、10月25日に報道局長(この時点では既に解任)の証人喚問が実現した。この背景には10月末で期限を迎える放送局の免許問題があり、免許取り消しまで検討されたが、結果的に厳重注意となった。

 この間、私はメディア・スクラムへの対応(何十人の記者に囲まれることの恐怖を今でも思い出す)とともに、自民党・郵政省の圧力と放送業界の苦渋の対応を目の当たりにした。報道局長の国会喚問に対して、メディア界は反対もせず、ジャーナリズム史上に大きな汚点を残した。今回の朝日新聞の訂正問題でも、自民党の一部からの証人喚問要求が出ている。折しも9月29日から11月30日まで臨時国会が招集されている。ウォッチドックの牙を抜く、権力介入は決してゆるしてはいけない。

 この事件の発端となった、産經新聞の93年10月13日付け記事は、「政治報道をめぐるテレビ朝日報道局長発言」のスクープとして、1994年の日本新聞協会賞(編集部門)を受賞した。この記事そのものは、郵政省に出された速記録など関係資料と照会すると不正確な点が多いと私自身は考えている。「今回の受賞を一番驚いているのは産經新聞」と当時いわれた、この受賞は、新聞とテレビの間に溝を生み、政治にとっては都合の良い状況を作り出したのだ。政治に利用されることの怖さをメディアは自覚的であってほしい。
安倍政権のメディア戦略
 籾井勝人NHK会長、百田尚樹氏・長谷川三千子氏などの経営委員就任にみられるように安倍政権のメディア介入は露骨だ。首相動静をみても、メディア関係者と頻繁に会合を行っている。9月14日に初会合を迎えた、2020年東京オリンピック・パラリンピックのメディア委員会は委員長が日枝久・フジ・メディア・ホールディングス会長、新聞・放送などから36名の委員で構成される。東京五輪の批判封じという見方もできる。

 このメディア戦略の中核を担っているのが、安倍首相と菅官房長官だ。菅氏は第一次安倍政権の総務大臣。在任中は、テレビ番組への行政指導を乱発、NHK国際放送の北朝鮮拉致報道での「命令放送」やNHK受信料支払い義務化で国家の介入を強める一方、2007年1月の「発掘!あるある大辞典Ⅱ」ねつ造問題では行政による番組介入に道を開く放送法改正を画策した。

 まず、行政指導の乱発である。1985年のテレビ朝日「アフタヌーンショー」やらせリンチ事件から2009年までに総務省(郵政省含む)が行ったテレビ局への「行政指導」は31件を数える(ちなみに民主党政権下の3年3ヵ月で、放送局への行政指導は一件もなかった)。「第一次安倍内閣」の1年間で、このうち8件を数える。異常なほどの多さである。

 関西テレビ「発掘!あるある大事典Ⅱ」問題では、再発防止計画の提出というメディア規制を盛り込んだ放送法改正を画策、民主党の反対と放送界の対応策(BPO=放送倫理・番組向上機構に「放送倫理検証委員会」を新設)によって見送られた。
NHK人事と安倍氏
 NHK教育テレビのETV2001「戦争をどう裁くか 第2回 問われる戦時性暴力」が2001年1月30日に放送された。この番組をめぐっては、「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)が、内容などに疑問を呈して2001年7月に東京地裁へ提訴した。2007年6月東京高裁判決では勝訴したが、2008年6月最高裁では逆転敗訴という推移をたどり大きな問題となった。この間、2005年1月12日に朝日新聞が中川昭一・安倍両氏がこの番組について、放送前日、NHK幹部を呼び内容の偏りを指摘した、と報道した。翌日1月13日にはNHKプロデューサーが内部告発し、これ以降、NHKをめぐっては一連の不祥事、国際放送の命令放送適用、受信料支払い義務化、経営委員会とNHK執行部の対立など、さまざまな問題が指摘されるようになった。

 特に東京高裁の2審判決では、放送前日の2001年1月29日、安倍晋三官房副長官(当時)と面会したNHK国会担当幹部が番組の試写で、プロデューサーに踏み込んだ改変を指示した、と指摘。番組制作局長が「自民党は甘くなかった」と発言したことも認めている。

 このようなNHKと安倍氏との関係は2006年の首相就任(第一次安倍政権)以降、さらに深まる。親しい財界人・学者で構成する「四季の会」メンバーを使い、NHKトップ人事に介入したのだ。2007年6月、古森重隆・富士フィルムホールディングス社長(当時、現会長)が経営委員長に就任した。本来、経営委員長は放送法上、経営委員の互選と決められているが、安倍氏の肝いりで委員長に就任と報道された。古森氏も「四季の会」の主要メンバー。その古森経営委員長時代に、20年ぶりの外部登用としてNHK会長に就任した福地茂雄・アサヒビール(現・アサヒグループホールディングス)相談役も「四季の会」のメンバー。その後、福地会長の後任として2011年1月に会長に就いた松本正之・JR東海元副会長は、2000年に「四季の会」を創設し、幹事役を務める葛西敬之・JR東海会長の部下だった経歴を持つ。松本氏を推薦したのは前経営委員長の古森氏だったといわれている。

 古森経営委員長時代(2007年6月~2008年12月)にはNHK国際報道での“国益”重視報道で物議を醸し、執行部の反対にも関わらず受信料の値下げを経営計画として明示(2012年10月実施)するなど強引な施策が目についた。あまりの横暴ぶりに、経営委員が抗議の辞任をした。さらに2008年5月には、JCJ(日本ジャーナリスト会議)や「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」などの市民団体が解任要求を発表した。また、経営委員長が番組に口を出すことも問題視され、放送法に「(経営)委員は、この法律又はこの法律に基づく命令に別段の定めがある場合を除き、個別の放送番組の編集その他の協会の業務を執行することができない」との規定が盛り込まれることとなった。
第三者機関へも行政指導
 さらに安倍氏が自民党幹事長時代には、さらなる番組介入の歴史がある。2003年11月の総選挙直前に、テレビ朝日の「ニュースステーション」(当時)が民主党の閣僚名簿とマニフェストを長時間(30分間)紹介したことが政治的公平を欠いたとして、投開票当日にテレビ朝日への党幹部の出演を拒否した。さらにBPOの「BRC(放送と人権等権利に関する委員会)」に安倍幹事長名で「政治的不公平・不均等」で審理を申し立てるに至った。BRCは個人による申し立てではなく、政党の申し立てとして審理の対象にならない事案と判断した。しかし、翌2004年6月22日に総務省は、放送法の『政治的に公平であること』との関係において、「放送番組の適正な編集を図る上で遺漏があった」として「厳重注意」とした。この「厳重注意」は、同じテレビ朝日の「ビートたけしのTVタックル」(2003年9月15日放送)も含めてのものであった。メディアの自主自立を確保するための第三者機関であるBPOの判断に、さらに行政が処分を加えるという異例の判断だった。

 また、2006年7月にはJNN「イブニング・ファイブ」(7月21日放送)の731部隊の特集コーナーで無関係な「安倍晋三官房長官顔写真」が約3秒間に渉って映し出されたことに安倍氏が抗議。TBSは、官房長官のパネルが放映されたことについて「意図的なものではなかったが、報道の趣旨とまったく無関係な方々にご迷惑をおかけしたことはおわびします」とのコメントを出した。しかし、8月11日、総務省はTBSに対し、「放送法第3条の3の3第1項(番組基準)との関係で、放送番組の適正な編集を図る上で遺漏があった」として総務大臣名の厳重注意を行い、再発防止に向けた体制の確立を強く要請し、1カ月以内の報告とその実施状況の3カ月以内の報告という重い処分を下した。
国益・国民益・国家益
 このような安倍氏、安倍政権のメディア戦略と今般の朝日バッシング問題を重ねると、「口を開けば唇寒し」の時代が到来することを感じさせる。メディア自身が歴史的な認識なしに「売国」という言葉を朝日新聞に浴びせる事態となっている。排他的なナショナリズムを煽る言葉を言論機関が使う恐ろしさをメディアそのものが学んでいないのだ。「戦争を報道すれば売れる」ことと「朝日を叩けば売れる」ことに通底するのは、悪しき商業主義だ。

 大学の授業で、国益・国民益・国家益の違いを書かせることがある。沖縄生まれの私は、国益の名の下に、国家益を押し進め、個人の権利を制限し、国民益を失うことになったのが戦前の日本であり、メディアもそれに加担したとの認識を持っている。自壊するメディアによって被害を被るのは国民であり、喜ぶのは狂信的なナショナリストだ。