私が見た日米の時間感覚の違い

Mio Nemoto

Mio Nemoto

根本 美緒

 シカゴで初めてその衝撃的な光景を見た瞬間の驚きを、私は今も鮮明に覚えている。
教会の前の路上に停まる2台の自家用車。縦列駐車された2つの車は、1センチの隙間もなくぴったりくっついる。その駐車技術は素晴らしい。
けれど、いったいどうやって車を出すのだろう。
バンパーはぶつけるもの、という考え方で、やはりぶつけながら出ていく…ようだ。

 これが日本であれば、ただちに警察に通報されるであろう。
 日本とアメリカの違いを痛感したのはこの時ばかりではなかった。

アメリカの駐車事情

アメリカの駐車事情

 エスカレーターは今日も壊れていて階段を使う。住んでいるマンションのエレベーターも突然動かなくなったりすることは珍しくない。トイレも度々詰まった。その度にメンテナンスに連絡して直してもらうのだ。お店ではケチャップのついたコースターはチェンジするのではなく、裏返して使われる。「アメリカ人ってヘン?」私は日本人とアメリカ人の違いについて、考えるようになった。

 

衝撃の連続アメリカ生活

 

CHICAGO

CHICAGO

 アメリカの中西部に位置するシカゴに足を踏み入れたのは今から3年前。主人の仕事の都合で移り住んだ。
14時間の時差ボケの中、到着早々家探しをしなくてはならなかった我が家は、コーディネーターと家を回った。
ミシガン湖を眺める美しいマンションは床が左斜めに傾いていたり、入った途端にドアが壊れていたり、日本では考えられないような不良物件の数々。
6件目で出会ったマンションに決めた頃には、日も沈み眠くて頭がクラクラしたのを昨日のことのように思い出す。

 家が決まったのはいいけれど、引越し初日に、約束した時間になっても担当者が現れない。
朝8時のはずが今はもう午後4時。8時間待ちぼうけだ。
その間、前任者が土足で使っていたであろう汚い床に必死に掃除機をかけていた。
砂のような汚れが全く取れず途方にくれながら、あぁこれからこんな砂まみれの床で暮らすんだ…と半ば諦めかけた頃、突然作業員が来て床のカーペットをバリバリバリ!と全部剥がし出した時には腰が抜けた。
こ、これから床を?!私ここへ今日引っ越してきたんですけど…という言葉はまるで届かず、引越し早々、夜、追い出される…という拷問のような展開に。
しかし美しい床に生まれ変わりましたけどね。

 待たされるといえば、運転免許センターだ。
最初の書類を出すだけで3時間待つ。
テストを受けるためにさらに2時間ほど待ったところで、きょうはここで終了です、と筆記を受ける事さえもできないまま帰宅し、あの夜な夜な勉強したのは何だったんだ…と完全に心折れて、これは修行だ…と思ったほどだ。

 待ち合わせをしてもたいていは時間より遅れてくる事がほとんどだ。
逆におうちにお呼ばれした時は3時にといわれたら3時を過ぎてから行かないとたいてい準備が整っていない、という「シカゴ時間」なるものがたしかに存在していた。

 つまりアメリカでは時間通りにすべての事柄を行うのは、まず無理だった。
朝仕事をした後に新幹線に乗って地方を日帰りして帰ってくるような生活は、日本の素晴らしい時間通りの電車や人々の動きがあっての事だったんだと思い知る。
 電車は限りなく遅れる。
しかも遅れるばかりではない。電車の中で、火災らしきものがあっても、消火器を持ったおばさんが突如現れて、シャーっと消したかと思うと、何もなかったようにすぐに動き出す。
そうだ、あくまで適当だ。
 電車に限らず飛行機も必ず遅れる。数時間遅れるなんていうのはざらなので、子連れには相当しんどい。
 ある時フロリダからシカゴへ戻ろうと飛行機に乗ったらなかなか動かない。
どうやらエンジンに問題が?とかなんとかよくわからなかったが、飽きて暴れる2歳児を、生きた大きな魚を掴むように腕の中で操りながら、飛行機はようやく飛び立ち、結局2時間半遅れでシカゴについた。
溜息を吐く自分の耳に届いた機長さんの一言。「Welcome to Chicago! イエ〜!!」それに対し機内全員が拍手して盛り上がる、というアットホームさ。
 日本だったら、全面的に申し訳ありませんでした…でしょうけどね。怒らないアメリカンスピリットには脱帽だ。

 

待てる人種アメリカ人

 

 そういった意味ではアメリカ人は待てる人種だ。

 長い行列もよくできている。
特に不良品の返品コーナーなるものが店には必ずあり、長蛇の列を作っているがみな何も言わず待っている。
そもそも不良品が多い。同じ商品を繰り返し買うと、全部が全部使い心地が違う上に、まるっきり壊れているものもよくある。

 特にひどかったのはシャワーヘッドだ。
アメリカはご存知バスタブとシャワーがセットになっており、シャワーはプールにあるようなヘッドが固定されたものがほとんどな上に、背の高いアメリカ人のためにか相当高い位置についていた。
小さな子を持つ親としてはなかなか子供をうまく洗えないので、日本式のコードのついた伸ばせるシャワーヘッドに取り替えるべく、日用雑貨の店を回った。しかしなかなかそういった商品に出会えず、ネットで新品を探す事に。
あったあったと喜んでクリックしたものの、届いて装着してみたらビックリ、シャワーの小さな数個の穴から規則的に水が出ないのみならず、サイドの留め金のところからホースの先をつまんだように水が飛び出してくるではないか。
返品の作業も面倒だし、また心折れそうになるのだった。

シャワーヘッド

シャワーヘッド

 ただ商品の返品はちゃんと言えばたいてい成立する。このシャワーヘッドももちろん新しいものになったが、掃除機を自分で壊したときも、持っていけばすぐに新品が来た。

 そうアメリカは交渉の国なのだ。一回ダメと言われてもこうでこうでとグダグダ言うと案外聞いてもらえる。
 例えばメジャーリーグのスタジアムに入るのに空いたペットボトルは持ち込み禁止だが、買ったばかりでまだほとんど飲んでなかったもので、これはうちのベビーの大事な水分補給だと言うとOKが出た、なんて経験がある。

 そういった意味では頑なではなく柔軟性があり面倒なことは避けたい、という非常に合理主義なところもある。
 私が最も驚いた合理主義な一面は、シカゴの病院で第二子を出産した時の出来事だ。出産後、いろんな手続きは全て入院している病室で済んでしまうのだ。
朝5時からひっきりなしに人が来て母乳の相談員、ソーシャルセキュリティーナンバーの登録、名前の届け出、写真撮影とどんどん事が済んでいく。
たった2日の入院生活で日本で退院後に必要な手続きは全て終わっていた。
予防接種だっていっきに済む。慎重な日本と違って赤ちゃんの太ももに大胆に数本ずつブスブス打っていくので、うちのベビーは予防接種後たいてい熱を出した。

全てが分業制なのでそれ以外の事について聞いても全く誰もわからない、いやわかっても誰々に聞いて、と言った対応だ。
 レストランでも決まった一人のウェーターにしか頼む事ができない。合理的なのかどうかはわからないが、それがアメリカンスタイルだ。

 金銭感覚も非常に合理主義…取れるところからはどんどん取っていく。
 子供と水族館に行くと、入館料以外に、クラゲを見るためにいくら、イルカを見るためにいくら、と加算されていく。
プラネタリウムにも同じようにお金を払って入っても、星を見るためにまた別にお金がかかるとわかり、星を見ないで帰った事も。
駐車場も10分ごとに加算されシカゴダウンタウンは六本木価格だ。
家賃も年々驚くほど上がる。

アメリカ出産事情

アメリカ子育て事情

 しかし一方で、動物園が無料だったり、子供のための無料イベントも多い。
シカゴフィルという世界的に有名なオーケストラが公園の野外ホールで無料コンサートをやったりもする。
路上ミュージシャンに対しても日本では考えられないくらいチップが入る。
子供のサマーキャンプも無料のものがあちこちである。
高速道路も無料の範囲は広い。
 日本人の感覚とは違う金銭感覚がそこには存在していた。

 

「人の目」どう感じるか?

 

 日本人とアメリカ人の一番の大きな違いは「人の目」に対する考え方だ。
 日本では、人が見てますよ、とか「人の目」を意識した子育て文化があるように感じる。
私自身、アメリカに住んでいる時は言わなかった「恥ずかしいからやめなさい!」という叱り方を日本に帰ってきてすぐしている自分に気づいた時、その事にはっとした。
 かつて日本で、森の中でタバコを吸いながら「誰もいない、でも僕は捨てない」というCMがあったというが、まさに日本人の「人の目」の下に自分の善悪の判断をしている事を証明するものだ。
人の目を気にするあまり、シャイになりがちでもある。
 アメリカで生まれ育ったうちの次女は目が合えば笑うアメリカ人に鍛えられ、誰にでも手を振る赤子だった。

アメリカンな娘

アメリカンな娘

 日本に帰国した9ヶ月の時、電車に乗って誰かに話しかけてもらおうと、必死に笑顔を振りまきながら手を振っていた姿が印象的だった。もちろん振りかえす日本人はいない。
結局相手をしてくれたのは、銀座から乗ってきた、ロサンゼルスから来たという、アメリカ人の高校生だった。
 アメリカ人がフレンドリーなのは、「人の目」が怖くない、という部分もあるだろうがキリスト教徒が故の「神の目」を意識するところもあるのかもしれない。
大半のアメリカ人は「神の目」の下に善悪を判断し、いい自分でいようとするからか慈悲の心が強い。
 また移民の国であるアメリカの歴史的な個性の一つなのかもしれない。
新しい価値観の新移民を受け入れ文化に同化させて発展してきた人々と、多文化の流入が少ない島国として鎖国さえ経験し発展してきた日本の人々との大きな違いなのではないか。

 そんなわけで、アメリカ人は「人の目」をあまり気にしない。
 例えば服装だ。日本にいると、これを着ていったらおかしな目で見られるかな、とか、オシャレに見られたいとか、「人の目」を意識した服選びをする。
しかしアメリカは多様な人種が存在するせいか、人がどんな服を着てるかそんなに意識していない。ベールをつけている人もいれば、ターバンをつけている人もいる。カジュアルな人が大半なので、ブランドの店にもビーチサンダルで入れる。
シカゴのような少し田舎な街ではパーティ以外はツカツカヒールで歩くほうが、珍しい。
よって自分も日本に住んでいた時ほど装いに気を遣わなくなる。メイク道具も2年ほど全く減らなかった。
 いい意味で多様性を受け入れる土壌と風土があるように感じた。
一方人がどう思うかを気にしないせいか、巨体も多い。遺伝や「シカゴピザ」に代表されるようなハイカロリーな食生活のせいもあるだろうが、小錦級の人は多い。
女性の人にしかわからないかもしれないが、日本のお手洗いにおける音姫なる、音消しグッツはアメリカには全く存在しない。
かといって、流しながら用を達することもなく、音に対してもまた人の目を気にしないようだ。もちろんコメントもいたってストレートだ。
日本人のように相手を意識した回りくどく下手に出る話し方はもちろんしない。思った事をバシッというので、我々日本人はびっくりする事も多い。

 

こんなに違う!メディアの時間感覚

 

 そこで思う。日本とアメリカ、こんなに感覚の違う人間が作り出すわけだから、テレビもやはり大きく違うように感じた。

特に時間感覚だ。

 日本においてメディアで言葉を発する時、不思議と自分の中で生まれる、その媒体にあった『ココはこのくらい』という、しゃべりの長さというものが存在する。
 例えば、私はニッポン放送で6年ほど自分の番組を担当しているが、ラジオであればじっくりと話の起承転結を考えてオチをつければ長くても聞いてもらえる。
 しかし、テレビではパッと出る面白い一言が求められたり、これ以上は長すぎて辛い…、といった空気感がある。
特に生放送では時間が決まっているので、余計に遠慮する。
TBSの「みのもんたの朝ズバッ!」で天気予報を担当していた時は、みのさんがどれくらい喋るかによって、自分の天気予報は2分にもはたまた10秒にもなる。その瞬間の判断に委ねられていた。
 またゲストとして生番組に出る時などは、特に遠慮して話は短めに切り上げる。つまりテレビでの一人に与えらたしゃべる尺は感覚的に非常に短い。
そこには前述した日本人の時間通りの性格があるのではないか。
 番組作り、特に生放送は厳しい時間管理をしなくてはいけない。
そういう作り手の意識を出演者側も意識するあまり生まれてくる、『ココはこれくらい』なのではないか。また人がどう思うかを気にするあまり、これ以上長いと飽きられちゃうかも、といった心理や遠慮も働く。

 一方のアメリカはどうだろう。一人の人がやたらと長くしゃべっている。もちろん遠慮はしない。意見が合わなくてもひたすら折れない。
下手したら、一人の人の独演会で終わる事もあるし、泣き出したりもする。『ココはこれくらい』は確実に長い。いや、ココはこれくらい、なんて考えてもいないのかもしれない。
 一般の視聴者が自分の不運な人生について涙ながらに語る番組は珍しくない。
5分10分平気でその一般の人がしゃべっていて、キャスターは相槌を打ちながらさらにしゃべらせる。周りも頷きながら話を聞いている。
長い事その人の話を聞いているので、人の個性は非常に見えてくる。結果的にはその人に親近感は湧いている。
テレビとして面白いかは別にして…

 オバマ大統領が再選し、二回目の就任演説をした日はそれはそれは1日オバマだった。
朝から晩まで彼の1日をたどった中継が続き、夜の演説はこれまた衝撃だった。」「我々の旅はまだ始まったばかりだ」と語ったと思ったらアフガニスタンの兵士と中継をつなぎ、彼を鼓舞した後、奥さんを呼んだかと思ったら、突然踊り出した。
演説はおしまい?みたいな驚きとともに「 オバマズ ファーストダンス」という字幕。
それをひたすら生中継だ。実に長い時間続いた。

 それに対し驚いたのは、うちの娘がテレビに向かって「オバ〜マ〜!」と歓声をあげて手を振っていた事だ。
日本の総理大臣に対して興奮する子は見た事ないがアメリカでは確かにみんなが歓声を上げる。
そういう顔の見える報道の仕方なのだと改めて思った。

 アメリカでは視聴率を考えてるのかどうかは定かではないが基本的に毎日同じプログラムだ。
情報番組やニュースだけでないバラエティーも昨日と同じだったりしてかなりのマンネリ感だがそのおかげで番組は人々の生活にかなり根付いているのかもしれない。

 もしこれに興味なければ自分でチャンネル選んでくれ、といった潔さがある。
お金を払えば自分の好きなものが無数に手に入る、というアメリカの金銭感覚もそこにある。

天気予報

天気予報

 そういった視聴者に媚びないというスタイルもアメリカの「人の目」を気にしない精神が現れているような気がする。
 天気予報も断じて媚びない。非常に端的に原因と情報だけ伝えて、寒い暑いというような表現はするけれど、傘を持っていけとは絶対に言わない。
 風の話をする時も「風が非常に強い」までで、だからこうしろ、までは言わない。

私だったら、洗濯物を飛ばされないようにしっかり止めるとか、自転車が倒れるかもとか、植木鉢を中にしまっておいたほうがいいとか、ついいろんな小話を入れちゃいますけどね。

 見る媒体によって天気予報が大きく違う事もあるがそこは堂々と主張する。体感温度なるものも必ず伝える。
マイナス28度の日、体感温度はマイナス40度と恐ろしい数字になっていた。むしろマイナス40度の体感がどんなものかもわからないし、人によっても感じ方が違うのでは…というようなクレームを日本では想像してしまうが、きっと数字で出てるんだからそれなんでしょというようなアメリカ人の合理主義であまり気にしない感じがそこにも存在するような気がした。

 

新しい感覚を受け入れる

 

 アメリカ生活を経て日本人とアメリカ人の違いを考えてみると、最初は「ヘン?!」と思っていたアメリカ人の感覚も少し日本人が取り入れてもいいのではないかとさえ思うようになった。
 金曜日の午後3時、エレベーターに乗り込んだジムへ行く途中のサラリーマンが、「みんな笑おうぜ!今日は金曜日だよ」と言った後のエレベーターが和やかだったこと。
日本ではしーん…となるのが想像できて恐ろしくて言えないが、人の言葉を受け入れる、その明るく前向きなスタイルはとても好印象だった。
 人の感覚を受け入れる…

 日本では視聴率というものに作り手が振り回され、番組が短命になる事はしばしば。
 待てないという、日本人の特性も、結果がついて来なければ早々に番組が切り上げられていく原因の一つなのかもしれない。
 さらには前述した『ココはこれくらい』の感覚を少しゆったりしてみてはどうだろう。

 自分が今年の4月からBSフジで土曜の夜9時〜1時間「華大の知りたいサタデー」という生放送をやることになった時考えた。
制作サイドから年長者向けの番組なので、ゆったりというオーダーだったがやはり回を重ねるごとに染み付いたテンポと尺管理に追われ、どうしても待てずに先に進んでしまうが今一度時間感覚を見直してみたいものだ。

 そうすることでラジオに似たような親近感がわき顔の見える番組になるのかもしれない。

 なんて書きながらも「人の目」を相変わらず意識してしまう、自分もいるんですけどね。

根本美緒