『端島炭坑(通称:軍艦島)』

H.Sekiguchi

H.Sekiguchi

関口 宏

 この春先、長崎の友人に誘われて、「明治・日本の産業革命遺産」の候補地を、いくつか見て廻る機会に恵まれました。
グラバー園、造船所関連施設、そしてやはり目を引いたのが、端島炭坑・通称、軍艦島でした。

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 小さな島、というよりも、大きめな岩礁と言った方が当たっているような、狭い狭い場所(東京ドームと大して変わらぬそうです)に,上へ上へ建物を積んで、遠目には、水平線に浮かぶ軍艦のように見える不思議なものが出来上がった訳ですが、石炭が主要エネルギーの時代には、ここに家族共々、五千人以上の人達が暮らしていて、海の底を掘り進む、危険な施設を取り囲むようにして、病院はもちろん、学校、プール。商店街には美容室から映画館、パチンコ屋,居酒屋、果ては色街まであつたというのですから驚きです。

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 しかし時代は石炭から石油へ。
必要のなくなったこの島はある日,住民全員に退去命令が出され、止むなく島を離れざるをえなくなります。そして40余年を経た今、朽ち果てそうな無惨な姿を晒すことになりました。

 その「栄枯盛衰」ぶりが「兵どもが夢のあと」の無常感を想起させ、人々の関心を呼ぶのでしょうが、相当慌ただしく島を離れたとみえて、置きっぱなしにしたテレビ、冷蔵庫、扇風機等の残骸が、当時の生活を物語っていて、歯医者の机の上には、入れ歯を作っていたのか、石膏の歯形がそのままにされていました。

 そして、やや私事になりますが、案内をしてくれた男性が持って来てくれた数枚の写真の中に、何と、私の亡き父の姿があったのです。
朽ち果てた廃墟の中に、亡霊が現れたかと、ゾゾッとしたのですが、私の父がそこで、石炭を掘っていた訳ではありません。
どうやら俳優・佐野周二として、映画の撮影のために、この島に来ていたようで、それが昭和23年のことだったといいますから、私は5歳。
父からそんな話を聞かされた記憶もありませんでした。

 映画のタイトルは『緑なき島』。
まだ戦後3年目のどさくさの中、「映画界は逞しかったんだなぁ」と思っていると、その案内役の男性が、「皮肉ですね。ほら、人々が去って、緑が戻ってきましたよ」と指差す一角には、荒々しくも逞しく、私の背丈ほどの樹木が育っていました。

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 さて、この島が産業革命遺産に登録されるには、戦時中の強制労働の問題もあるようですし、今後どう管理してゆくのかも大きな課題になって来るのでしょう。

 2時間ほど、島のあちこちを取材して、(この模様は、長崎国際テレビで放送され、その一部をこのサイト「ドキュメンタリー」で紹介しています)船上から小さくなって行く軍艦島を見つめながら、幼かったある日のことを思い出していました。

 それは私が、「大和」や「武蔵」といった旧日本軍の軍艦の写真を、食い入るように見ていたとき、親戚の伯母さんが話しかけて来たのです。
「面白い?」
「うん、格好いい」
「そう。・・・・でもね、多くの人が死んだんだよ」
「・・・・・・」
「格好はいいかもしれないけど・・・・戦争の道具だからね」
「・・・・・・」

 たしかに、軍艦に見える「端島」の姿に関心が集まるのは自然なことですが、そればかりが先行してしまい、そこに暮らした人々の息遣いが薄れてしまわないように「メディアは気をつけてほしい」と案内役の方が仰っていました。
どうしても「絵」に神経が行きがちなテレビ屋として、肝に銘ずべき、と思いました。

 ちなみに、今回の「明治・日本の産業革命遺産」の対象は、この軍艦に似た島の形でもなければ、建物でもありません。建物自体はほとんどが、大正・昭和のものであって、明治ではないのです。
「じゃー、どこが?」と仰ると思いますが、実は、石炭を使った産業革命。
その採掘現場となった島の「護岸技術」などが注目されたようです。

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 それにしましても、日本の世界遺産が相当増えそうですね。
うれしい話かもしれませんが、日本人として、すべて覚えられるでしょうか。

テレビ屋  関口 宏