ないがしろにされる時代

M. Kimiwada

M. Kimiwada

君和田 正夫

 戦後70年も残すところ2か月になりました。その節目の年に、気がかりなことは、国の在り様を形作る法律や専門家の知識・判断、歴史的な経緯、国民の意識などが、ないがしろにされる時代に入ったのではないか、ということです。ほとんど確信にも似た不安が、安倍政権になってから急速に膨らんでいます。安全保障関連法と憲法の関係を筆頭に、臨時国会と憲法53条との関係などを見ると、政治だけが突出した意思決定機関で、そこに学者の判断や世論が入り込む余地が次第に狭まっている、と思えてなりません。

 

言論・表現の自由と「業法」

 

 実はそれは今に始まったことではなく、70年間かけてたどり着いた結果といえます。半世紀にわたってメディアで仕事をしてきた人間として、現在を嘆くことは自らの過去を嘆くことと同義語です。私の関わったメディアのうちテレビを仕切る放送法の問題を嘆いてみたいと思います。政治と国民をつなぐ言論・表現の自由も大きく揺らいでいるように思えるからです。

 テレビ番組で問題が起きると、「放送法違反ではないか」という指摘がしばしば聞かれます。放送法は一般的に言われる「業法」の一つです。業法には銀行法、航空法、建設業法、旅館業法、風俗営業法など数え切れないほどの法律があります。安全性、消費者保護などの観点から、一つの業界に対して許可制、届け出制、登録制など様々な規制を課している法律です。

 放送法はNHKと民間放送に対する法律です。いつも議論になるのが「国内放送等の放送番組の編集等」と題する第4条です。

 1項では「公安及び善良な風俗を害しないこと」、
 2項は「政治的に公平であること」、
 3項は「報道は事実を曲げないですること」、
 4項は「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」

を求めています。テレビ局批判は、おおむねこの4条に基づいて行われています。

 2015年4月17日、自民党の情報通信戦略調査会がNHKとテレビ朝日の幹部を呼んで事情聴取しました。

 古賀氏が、テレ朝の「報道ステーション」で政権からバッシングを受けたという趣旨の発言をしたことに対して、菅官房長官は事実を否定したうえで、「放送法があるのでテレビ局がどう対応するか見守りたい」と述べました

 NHKは「クローズアップ現代」で2014年に放送した「出家詐欺」のやらせ問題です。テレ朝は「報道ステーション」です。NHKについては、11月6日、BPO (放送倫理・番組向上機構)の放送倫理検証委員会が放送法を根拠に「重大な倫理違反があった」という意見書を発表しました。同時に異例とも言えることですが、自民党の「圧力」を強く批判する意見書でした。一方、「報道ステーション」はコメンテーターとして出演していた古賀茂明氏の政権批判がテーマでしたので、多くの人がテレ朝に狙いを付けた聴取と感じたことでしょう。古賀氏は「報道ステーション」で政権からバッシングを受けたという趣旨の発言をしたことに対して、菅官房長官は事実を否定したうえで、「放送法があるのでテレビ局がどう対応するか見守りたい」と述べました。

 こうした政治と放送を巡る事件がこのところ続いています。昨年11月には在京キー局の編成局長・報道局長あてに「選挙時期における報道の公平中立ならびに構成の確保についてのお願い」という要請文が、自民党報道局長から出されました。メディアと政治の間の緊張感が高まっているように見えます。

 

ないがしろにされる時代

ないがしろにされる時代

 

メディアはなぜ口をつぐむのか

 

 ところが緊張感の高まりに、メディア側、とくにテレビがどう対応しようとしているのか、がわかりにくくなっているように思えます。その大きな要因は、政権とくに自民党とテレビ局のやり取りが公表されないことです。BPOが意見書を出すに至ったのは、「やらせ」問題の当事者がBPOに訴えたことが発端です。「言論の自由」「報道の自由」がテーマになる以上、政府や政党との議論は公表されるべきでしょう。「放送法」に関して何が議論されたのか、されなかったのか。事情聴取を受けたテレビ朝日とNHKは少なくとも記者会見などの場を設けて、自民党に聴取されたこと、それに対する局の対応を明らかにすべきでした。「言論の自由」に関わる問題で口をつぐんでしまったら、報道機関として役割を果たせるのか疑義が生じてしまいます。

 言論に関わる圧力は、圧力を加えられた側が「加えられた」と言わない限り表面化することはありません。加えた側は「加えた」と言わないでしょうし、「圧力」と考えない場合もあります。ですからメディア側が沈黙を守ることは、真相をやぶの中に置き去ることになります。そこから生まれるものは、「阿吽(あうん)の呼吸」や「忖度(そんたく)」といった「面倒を避ける」生活の知恵です。こうした対応の積み重ねは「自主規制」となって相手を喜ばせることになります。メディアがないがしろにされる種を自ら蒔くことになります。

 

「行政指導」か「友情ある説得か」

 

 テレ朝が呼ばれたというニュースを聞いた時、社長時代のことを思い出しました。総務省の高官から面会の要請がありました。当時、放送法の改正が進んでいた時で、私は民間放送連盟(民放連)で改正を担当する立場におりましたので、てっきり改正問題の話と思ったのですが、違いました。彼はいきなり、特定の番組名を挙げて「何とかなりませんか」と言ったのです。私は逆に要請の根拠を問いただしました。「それは総務省の行政指導ですか、それとも私に対する個人的な“友情ある説得”ですか」。彼は明快な返事を避けました。

 これは圧力だったのか、圧力でなかったのか、介入だったのか、介入でなかったのか、私が「圧力を受けた」と言えば、圧力はあった、ということになります。私も何かを「忖度」して公表しない選択をしてしまったのです。いつも「権力」と「メディア」の関係は曖昧です。戦前は法律を使った露骨な言論弾圧がおこなわれましたが、戦後は隠微な形で影響力を行使しようという動きに変わりました。「隠微さ」には言論の自由を侵すと批判される、というためらいも感じられたのですが、最近はそのためらいさえも感じられなくなりました。

 

介入の法的根拠を問うてみよう

 

 どこかで歯止めをかけるためには介入や圧力の有無を含めて白日の下にさらす場を、メディア側が自ら作ることです。NHKとテレ朝は事情聴取の法律上の根拠は何なのか、問うべきでした。放送法3条には「放送番組編集の自由」として次のように書かれています。

 「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」

 「法律に定める権限」とは、先に挙げた放送法4条の他に5条「番組基準の制定義務」9条の「訂正放送」などがあります。また電波法、公職選挙法にも該当する規定があります。

 民間放送連盟の井上弘会長は、NHK、テレ朝が呼ばれた後の記者会見で、「番組のことで政党が放送業者を呼ぶのは行き過ぎではないか」「公の場で番組問題を説明せざるを得ない場合は民放連で対応するのが基本。そのことは自民党にも伝えてある」と述べました<注>。この基本方針に沿えば「テレ朝は聴取に応じるべきでなかった」という声が起きたのも当然だったと思います。個別の局で対応するのか、民放連で対応するのか、私は個別の局で対応すべきだと思いますが、民放連で対応したとしても、内容がオープンにならなければ意味がありません。圧力を加える側はオープンになることが一番怖いのです。

 

「公平性」と「多角的」の曖昧さ

 

 そこで二つ目の問題点です。

 公平性とか多角的な議論ということは、誰がどのような基準で決めるのか、ということです。やり玉にあがる番組は政府批判、政策批判を取り上げる番組が多いように思えますが、「公平」「多角的」と言う以上、政権批判に抑制的な番組の公平性、多角性はどう考えたらいいのでしょう。安全保障関連法やそれに対するデモの扱いは、大きく異なりました。法案批判が少ない番組は、放送法違反でなく、多い方が違反、というのはおかしくありませんか。両者とも「放送法違反」ということになるはずです。「公平」「中立」の判断基準は政権側だけが持っているのでしょうか。そんなはずはありません。

 先ほどあげた自民党の「選挙報道」についての要請文には「中立公平」「公正」の言葉が散りばめられ、出演者の発言回数、時間、ゲストの選定、テーマなど細かい注文がされています。

 一つの番組の中で公平性や多角的議論を確保するのは、放送時間が短い番組ほど困難になります。そこで一日、一週間、一カ月といった単位の番組編成の中で公平性、多角性を確保すればいい、という考えが生まれてきます。私もこの考えに賛同しますが、「番組によって視聴率が異なる」「時間帯によって視聴者が異なる」などの異論が出そうです。

 日本経済新聞の新聞週間特集(10月12日朝刊)は安全保障関連法を巡る報道が「二つに割れた」と、次のように書きました。

 「朝日、毎日の両紙は一貫して安保関連法を批判してきた。とりわけ憲法学者らが集団的自衛権の行使容認を『違憲』と断じたことが法制への反対論に拍車をかけた」「これに対し、読売、産経の両紙は抑止力を高める効果があるとして法制を評価し、賛成の立場から社論を展開した。日経も基本的にこちら側だ」
批判側に東京新聞を加えたほうがいいと思いますが、新聞は明快に意見が分かれました。

 「クローズアップ現代」に対するBPOの意見書は自民党からの圧力を強く批判していますが、この問題でも紙面の作り方は分かれます。朝日、毎日、東京は「圧力」を見出しにした記事を一面で載せていますが、読売は「圧力」については本文で触れただけで見出しには取っていません。日経は「政府と自民党の『介入』強く非難」という記事を社会面に載せています。

 「新聞には業法のようなものはないのか」と言う質問を時々受けます。新聞には「日刊新聞法」がありますが、正式の名前「日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律」という長い名前が示すように、悪意のある人に新聞社が乗っ取られたりしないように株式の譲渡を制限できるという法律で、報道内容に関する法律はありません

 

テレビはもっと個性を

 

 テレビに話を戻しますと、かつてのように電波の希少性が薄れてきた現在、テレビももう少し「個性」を出した方がいいのではないでしょうか。「政権批判の多い局」も、「政権批判に抑制的な局」もあっていい、と思います。「放送法」4条がテレビ局に求めるものは、「努力目標」であり、「精神条項」だと考える学者や弁護士が多いようです。テレビ局自身「放送ハンドブック」や「番組制作ガイドライン」などを自主的に作って多様な考えの吸い上げに対応しています。その基準があるから「批判的」と言われる局、「抑制的」な局いずれも、反対側の意見も報道しているわけです。公平性や多角性、そして透明性を確保するために、問題の是非については、とりあえずBPOに判断を任せることが大事だと思います。政府も自民党もBPOの場に「放送法違反」をどんどん持ちこんだらいかがでしょう。

 アカデミズムやジャーナリズムをないがしろにする、愚鈍とも言える政治家が増えすぎた今、私は「それを選んだ自分」を見つめ直すべきだと思います。

 

<注 民放連井上会長会見>
(民放連ホームページからNHKとテレ朝関連部分を抜粋)

【日 時】 平成27年6月12日(金) 午後3時30分~4時
【場 所】 ホテルニューオータニ ガーデンコート「シリウス」

“政治とメディアの距離”について

・記者:報道番組のコメンテーターの発言などを問題として、自民党が関係者に説明を求めたが、“政治とメディアとの距離”について、どうお考えか。

・井上会長:長年にわたって議論されてきた問題であるが、個別番組のことで政党が放送事業者を呼ぶのは行き過ぎではないかと思う。公の場で番組問題を説明せざるを得ない場合は、個別社ではなく民放連として対応するのが基本姿勢だと考えている。一方で、当該社の立場もあるので、その判断は尊重しなくてはいけない。また、政治と放送の関係について言えば、第三者機関であるBPOに対する政治の介入は避けなければならない。あくまで自主・自律の精神で、放送事業者自らが放送倫理の向上を図っていくのが基本であり、会員社にも努力をお願いしている。

・記者:個別社を呼ぶのが行き過ぎであれば、民放連として、自民党に対して何か行動を起こすことはあるのか。

・井上会長:民放連で対応するとの考え方は、自民党にも伝えてある。それを踏まえて、いろいろと検討しているのだろうと思う。

・記者:自民党の会合では、BPOについて「お手盛りだ」などの意見もあり、在り方に関する議論が行われるようだが、どうお考えか。

・井上会長:民放連とNHKが自主的に設置したBPOは、世界に類を見ない第三者機関であり、公権力の関与によらずに放送の質を保つために我々が自ら作った優れた仕組みである。放送事業者はBPOの委員会の判断を尊重し、重く受け止めて、自主的に改善策を講じ、放送の質の向上に努力している。その仕組みは十分に機能していると考えている。また、お手盛りと言われるが、放送事業者にとっては厳しい存在である。濱田理事長も「放送局が有利になるように判断することはない」と言っておられるし、放送事業者の側もBPOの審議・審理にかからないようにと日々心がけている。抑止力になっており、お手盛り、との指摘は的外れではないか。

テレ朝の報道ステーションに自民が中立を要請

 自民党は2014年11月26日、テレビ朝日の報道ステーション(24日放送)に対して次のような要請文を送った。

「アべノミクスの効果が大企業や富裕層にのみ及び、それ以外の国民には及んでいないかの如く断定する内容だ」
「放送法4条4号の規定に照らし番組の編集および解説は十分な意を尽くしているとは言えない」