山内 晴子
朝河は日米開戦前から民主主義はどうあるべきか、どうしたら理想とする「民主主義」を保持できるか、という議論を、往復書簡を通して重ねてきました。近代民主主義の主たる5要素と人間が特権を与えられると同時に、責任を負うことになったことは、既に「上」で書きましたが、彼は民主主義の困難さも理解していました。
1940年1月9日付 A・E・モーガン(オハイオ州アンチオーク大学総長)宛書簡では、「民主主義は最も合理的であり、人間的なものですが、同時に最も困難な体制でもあります。常に再検討され、そして再構築されるべきものです。このことは市民それぞれが知的で有能であるのみならず、個人的責任感が強く寛大な精神を持っていなければ不可能です」と書いています。
1941(昭和16)年2月16日イェール大学教授C・M・アンドルーズ教授夫妻宛書簡で、第二次世界大戦の原因は、欧米では民主主義の道徳的弛緩であったと分析します。3月10日付では、アンドルーズ氏に「民主主義は個々の市民の市民的道徳性と知性のみに依拠して樹立される、非常に先進的かつ困難な政体です・・・とどのつまり民主主義とはモラルなのです・・・民主主義にはよき教育方法が必須なのです」と記しています。
1942(昭和17)年4月5日付ウィルコックス宛に書簡でも、民主主義自体の損益や潜伏した危険性を絶えず検証する必要があり、そのためには教育が大事だと述べています。
天皇制民主主義の学問的起源
1941年12月8日の開戦直後から朝河は、アメリカの知識層および指導者層に、天皇のみが日本の軍部を追いだすことができること、日本の民主主義国への移行は天皇制度存続によってのみ可能であることを、open letter(回覧書簡)を通して精力的に説得し始めます。この「民主主義」と天皇制度の共存という一見矛盾した異文化共存の朝河の敗戦後構想は、突然思いついたものではありません。博士論文を基にした1903年のThe Early Institutional Life of Japan : A Study in the Reform of 645 A.D.『大化改新』から、1929年に英米で出版したThe Document of Iriki 『入来文書』にいたるまでの、天皇制度に関する朝河の学説から導き出された結論です。それは、大化改新や明治維新という、日本歴史において圧倒的に優れた異文化を受け入れ、修得し適応する制度的大変革を成功させた鍵は、天皇個人ではなく天皇制度であって、皇室は何世紀にもわたって存続したけれども専制的であったことは少なかったとする学説です。天皇制民主主義は占領軍から与えられたものではなく、朝河の天皇制度の学説に基づく敗戦後構想が天皇制民主主義の学問的起源だったのです。
朝河の中世比較法制史の研究成果は、欧米の研究者にとって、日本の封建制度に対する理解の出発点でした。朝河に大きな影響と受けた人々には、ウォーナーやウィルコックスの外に、次のような歴史学者がいます。パリ大学教授でアンナール学派創設者のマルク・ブロック、イギリスの外交官で『日本文化史』等も執筆した歴史学者のサー・ジョージ・B・サンソム、戦後日本の設計者と言われる歴史学者で戦後ハヴァフォード大学学長になるヒュー・ボートン、駐日大使も務め『円仁』の著書もあるハーヴァート大学歴史学教授のエドウィン・O・ライシャワー、朝河の教え子で戦後イェール大学教授からCIAでインテリジェンスの父と呼ばれるようになるシャーマン・ケントなどです。
国民の黙従と、軍部による文民政府強奪
明治の日本人は、1854年の日米和親条約締結までの220年の鎖国時代に、世界が個人の尊厳と、信条や思想の自由を勝ち取っていたことに驚愕し、欧米の文明を貪欲に吸収しました。しかし、明治維新から70年後の1937年日中戦争に突入し、再び軍国主義的な、歴史に目をつむる頑迷な「第二の幕府封建」となって、世界が到達した普遍的価値観から目をそらし、アジア太平洋戦争へと突き進んでしまいました。今年は、敗戦から70年。再度、主観的にのみ世界を見て、普遍的価値観から目をそらす危険はないでしょうか。
1946年夏のウォーナー宛長文書簡で、朝河は日本が戦争へと突き進んでしまった原因を、次のように分析をしています。
①日本国民は「妥協が特徴」の無抵抗な黙従の習性をもっており、一般民衆は、よく考えたり、批判したりするどころか、権力者に従い依存し、当局によってすっきりと整えて表現された命令を遂行したのです。
②これまでの20年間(昭和元年から)、陸海軍によって強制された大変不幸な政治に、国民の無抵抗な黙従によって、民主主義の芽が徐々に摘まれていきました。特に現役武官制度が、民主主義にとって不可欠な条件である文民統制を奪い、戦争拡大の原因となったのです。伝統的に主権行使にあたって受身である天皇からの権利の横領は、実際1930年代に一度ならず何回も企てられました。文民政府の組織の複製であるかのような軍部が、文民政府を強奪して総理大臣を次々と生み出し、天皇と国民を野蛮な戦争と破滅においやり、310万人の戦死者を出すまで戦い続け敗戦にいたったのです。
③途中で間違っていると分った知識人たちも、「彼らの造語で公の命令を言い換えて説明することで、忠実に支え」、国民にブレーキをかけることができなかったのです。
④日本人に欠如している現代文明の基礎は、不愉快な対決の危険を犯しても、個人の権利や信念を守ろうとする、頑健な個人的義務感を育てる機会がなかったことです。
戦後70年の今年の元旦、天皇陛下は文書で「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と綴られました。天皇は日本のアジア侵略の歴史に真摯に向き合い、皇后と共に祈りをもって懺悔の旅を続けられておられます。A級戦犯を祭った靖国神社には、参拝されません。その姿勢は、朝河が言う国際社会から孤立した「文明の敵」にならないための基本と言っていいでしょう。
日本は、戦後70年間、憲法9条の「手段としての平和」を目標として、武力によらない外交を何とか進めてきました。その結果、「まともに生きていける」平和を日本人は作り出したのです。連合軍の美術顧問として再来日したウォーナーは、1946年9月26日付朝河宛書簡で「喜ばしいことには日本人全体の態度が雄々しいこと」で、「あなたを安心させる他の1点は、全国民がまったくの勤勉さと智力で日本をこの泥沼から引き揚げようとしていることです。彼らはその可能性を信じ切っていますが、私も同感です。もっとも、それは、我々から物質崇拝を学ばなければのことですが、このことは現在大きな明らかな危険です」と書いています。
戦後の復興を考える時、「ララ物資」のような米国・カナダなどによる数知れない食糧支援や「ガリオア・エロア資金」等の教育支援、世界銀行の低利融資による新幹線、黒四ダム、東名高速道路の建設など経済インフラへの支援を忘れることができません。日本は、この体験を生かすべきでしょう。JICA(独立行政法人国際協力機構)やNGO、NPOによる海外への教育、医療、インフラなど、武器によらない支援に力を注ぐべきです。そのような支援こそ「まともに生きていける」社会を、困窮している国々で作ることができるのです。
一方、日本国内では現在、文民統制が守られているか、妥協と黙従という日本人の習性が蔓延していないか、為政者にたいして国民は自由に発言ができているかを、日々検証する必要があります。
また、日本人は眼前の重大事について徹底的に考えないという習性から、抜け出していないのではないでしょうか。
朝河の危惧は、何時の時代にも通じるものです。2012年7月5日に、東日本大震災による東京電力福島原子力発電所事故について「国会事故調査委員会」の報告が発表されました。その「はじめに」で、調査委員会の黒川清委員長(医学博士、東大名誉教授)は次のように述べています。
「朝河は日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書『日本の危機』を著し、日露戦争後に『変われなかった』日本が進んでいくであろう道を、正確に予測していた。『変われなかった』ことで、起きてしまった今回の大事故に、日本は今後どう対応し、どう変わっていくのか。これを世界は厳しく注視している」。
朝河は、科学は一般の人々の生活に役立つものでなければならず、道徳的に運用されて初めて恩恵をもたらすと言っています。唯一の被爆国として、戦後、日本人が原爆反対や核兵器廃絶の声を上げたのは当然のことでした。しかし、原発は「原子力の平和利用」というアメリカとメディアの宣伝と知識人の解説については、またもや、徹底的に考えてみなかったのです。2011年3月11日、私達は、福島第一原子力発電所の大惨事に驚愕し、制御不能な原発の危険性と、核のゴミの始末も出来ない事実に、初めて向き合ったのです。これは、第2の敗戦と言うべきかもしれません。
しかし70年前の敗戦時のように、事実を知らされれば、現実に向き合う日本の庶民の力はとても大きいのです。日本人は、すでに原発なしで過ごしています。あとは、政治家が、選挙の支持団体の意見に惑わされず、原発再稼働や原発輸出をせず、原発事故収拾に関する国際的な専門家の意見に謙虚に耳を傾けて、世界の英知を集め、被災者の支援に全力を注ぎ、自然エネルギー推進の政策に舵を切るのを待つばかりです。
「日本の方針を文明最高の思想と一致せしむるに至りて、初めて東洋における義務を悟り、世界に対する位地を得る」ことができるのです。
一般庶民が正確な情報を自由に入手できない場合の危険性
1938年に朝河は、日本人神学生、斎藤フミ宛書簡に、「もし、日本国民の思考と観察との自由を久しく塞いで居らば、他日恐るべき困難を招ぐであろう」と書き、一般庶民が正確な情報を自由に入手できない危険性を指摘しています。これは斎藤が支那事変(日中戦争)について「日本の正義を理解するように」と言ってきたことへの反論です。1938年11月20日付甥の斎藤金太郎宛書簡にも、「国民に自由に事情を知らせないで居れば、却って日本の大損害を招く時が来るばかりでなく、今既に甚しい不利益の状体になって居ります。・・・罪もない忠実な一般の人民が最も気の毒であります」と書いています。
国民が正確な情報を自由に入手できなければ、軍国主義や、右であれ、左であれ、全体主義の過激な外交政策を国民が受け入れる危険性も高まります。そうした事態はなんとしても回避しなければならないことを、朝河は繰り返し指摘しているのです。
2014年12月10日に施行された特定秘密保護法や、集団的自衛権の法制化や憲法改正の動きなどを見たら、朝河は日本の将来をどう予測し、評価するのでしょうか。
NHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』が紹介した東洋英和女学校の校長ミス・ブラックモアの言葉どおり、「最上のものは、過去にあるのではなく、将来にあるのです」。日本人が「希望と理想を持ち続けて、進んでいく者でありますように」。