沈黙

 封切りからやや遅れて『沈黙—サイレンス』(マーティン・スコセッシ監督)を観ました。

 というのも長崎に住む旧友から「近く、潜伏キリシタン(今は隠れキリシタンとは言わないそうです)遺跡群が世界文化遺産になるだろうから遊びに来ないか」と誘われたからだったのですが、なかなか良く出来た作品でした。
外国人が描く「日本」には、時として「嘘つけー!」的な表現が出て来て、吹き出してしまうこともあるのですが、時代考証もしっかりしていたし、スコセッシ監督も相当勉強されたようで、日本の俳優さん達も無理なく演じていたように思います。

 この遠藤周作の原作『沈黙』を私は若い頃に読みました。

 遠藤さんは別名「狐狸庵」と名乗られていて、その「狐狸庵」の名で書かれたエッセイなどが軽妙洒脱で私はフアンになったのですが、この『沈黙』はそれとはまるで大違いの衝撃的な作品で、普段ノンキに暮らしていた私の胸の奥を,強烈に引き裂くかのような激痛が、しばらく続いたように記憶しています。

 秀吉の時代からじわじわ締め付けが厳しくなって行った日本のキリシタン弾圧。
「隠れキリシタン」の話や「踏み絵」のことは知ってはいましたが、その酷さ、執拗さもさることながら、それよりも、「なぜ、拷問を受け、命までとられるのに信仰を捨てなかったのか」「なぜ、そんな酷い国にあえて宣教師達は渡って来たのか」「処刑する役人、それを見ていた人々は何を感じていたのか」そして「人とはなんぞや」「信仰とはなんぞや」にうなされそうになりました。

 この答えなき永遠のテーマ、「それでも神(主)は沈黙している」と遠藤さんもスコセッシ監督も共感したのでしょう。

 春まだ浅き長崎の遠藤周作記念館から遠く霞んで見えた五島。
あそこまでどうやってキリシタンたちは逃げ、どのような生活をしていたのか。遠藤さんが思い描いた様子のかけらを感じつつホテルにもどると、テレビにはトランプ関係のニュースが流れていました。

 そしてそのテーマが「オルタナティブ・ファクト」(もうひとつの事実)。

 事実というものは、本来ひとつだけのものの筈ですが,最近ではいくつもあることになりそうなのです。
この時伝えられていたニュースでは、トランプ大統領誕生を祝う群衆の数が、オバマ大統領の時よりも格段に少なかった筈なのに(その映像もあるのですが)、トランプ陣営は「そんなことはない。広場は人で埋め尽くされていた」と反論したのです。

 そうした事実を曲げてでも、自分達に都合の良い情報を流す、つまりは「オルタナティブ・ファクト」(もうひとつの事実)が、今や、当たり前のように様々なメディアで見られるようになりました。
果たしてユーザーなりフォロワーは、どれが事実なのか、何が真実なのか見極める事が出来るか不安な時代が広がっています。

 その危険性は歴史も物語っている所です。
ヒットラーの片腕・ゲッペルスが、ラジオ・映画を使ってナチスに関心を持たせる情報を流し続けたり、日本では、軍部の「大本営発表」をそのまま紙面に載せた戦時中の新聞が、結果的には国民の戦意を煽ってしまったり・・・・・

 そして『沈黙』のあの時代、キリシタンの棄教(それを「転ぶ」と表現していました)に使われたであろうあの手この手。
「お前達が信じているものは事実ではない」「もうひとつの素晴らしい事実があることをお前達は知らないのだ」・・・・・
これってどこか「オルタナティブ・ファクト」に似てやしないかと、長崎の夜景を見ながら考えていました。  

テレビ屋  関口 宏