政治の「病」はメディアの「病」

M. Kimiwada

M. Kimiwada

君和田 正夫

 「一強の奢り」というのは本当でしょうか。「一強」になる前から安倍政権自体が「奢り」や「甘え」の発作が起きやすい体質だったと思います。人事についてはかねてから「お友達・お仲間人事」とか「滞貨一掃人事」といった評価が付きまとっています。政治家の失言・スキャンダルの根は、予想以上に広がっているように思えます。病を根絶する医者はいるのでしょうか。薬はあるのでしょうか。

 

口先だけの「任命責任」

 

 「任命責任は私にある」。今村元復興相の失言・辞任騒ぎで、安倍首相はいさぎよく責任を取るかのような発言をしました。では、どのように責任を取るのでしょうか。今村氏のどのような実績を評価して大臣に任命したのか。「身体検査」はしたのか、しなかったのか、安倍首相を支える政財界の要人から推薦があったのか、なかったのか。大臣を選ぶ選考過程をもう少し見えるようにしないと、任命責任をどう取ろうとしているのか、見えて来ません。

 しかし、首相が選考過程を説明するなどと、誰も期待していないでしょう。昨年、甘利明・経済再生担当大臣が金銭授受を巡る疑惑で辞任した時も、国民に疑惑への説明、政界復帰に当たっての説明などなかったのです。任命責任は言葉の上だけ、と受け止められてもやむを得ません。

 

首相の本気度が問われる人事

 

 今村氏だけではありません。まともな答弁ができない金田勝年・法務大臣、内部を掌握していない稲田朋美・防衛大臣、「一番のがんは学芸員だ」と言った山本幸三・地方創生大臣、さらに若手のスキャンダル…。とりわけ安倍内閣が力を入れている「共謀罪」を担当する金田さんを見ていると、「それでも大臣をやりたいの?」と聞きたくなるほどひど過ぎて、憐みさえ感じてしまいます。安倍さんがどれほど声を大にして「テロ対策の必要性」を叫んでも、本気度が伝わってこないのです。第一次安倍内閣の時の反省を生かそうという気もないのでしょう。

 2006年、佐田玄一郎・行政改革大臣、本間正明・政府税制調査会会長が政治資金の不適切処理や愛人問題などで辞任しました。2007年には柳沢伯夫・厚生労働大臣が「女性は産む機械、装置」と発言し、問題になりました。安倍首相が擁護して辞任はしませんでしたが、久間章生・防衛大臣は広島・長崎の原爆投下について、戦争終結につながったのなら「しょうがない」と発言して、辞任しました。自殺した大臣まで出ました。

 

「一票の格差」「世襲」に手を付けよう

 

 こうなると一時的な「奢り」ではなく、慢性的な病としか言いようがありません。その病の根っこにメスを入れるべきメディアが、まさか病の悪化を見逃したり、手を貸したりはしていないのか、心配になります。

 先日報告が出た衆院の「一票の格差」是正策で、格差は2020年時点で「1.999倍」になります。最高裁に「違憲状態」と言われないために、「2」未満に抑えたのです。政治家に任せたら現在の議席を優先して考えるので、すぐ2倍を超してしまうと予想される案になってしまったのです。メディアはもっと根本的な改革の議論をリードすべきだと思いませんか。

 「世襲議員」に対しても何の制限も設けようとしていません。議論されかけたことがありますが、二代どころか三代、四代と続く政治家の既得権を奪うのは容易ではありません。政治家を家業とする人たちがリーダーになる限り、政治のレベルは上がらないでしょう。小泉進次郎衆議院議員を何代か後の総理大臣、と持ち上げる記事まで出ては、メディアの見識も疑われるし、小泉氏自身も迷惑なことでしょう。メディアがすっかり政権のペースにはまってしまった現状では「失言」を叩いてみても政治は変わらないのです。政治の病とメディアの病は表裏の関係にあるのです。

 

「身内可愛いや」の対応

 

 安倍政権になって、首相の人事介入があちこちでささやかれています。日銀総裁・審議委員は金融緩和を主張する「リフレ派」が主導権を握りました。メディアの世界を抑える要はNHK会長です。21代会長籾井勝人氏は露骨な人事でした。最近では憲法改正を視野に入れているためでしょう、最高裁判所判事まで安倍首相の影響力がささやかれています。昨年、加計学園監事が最高裁判所判事に任命され、話題になりました。

 安倍人事の特徴は「身内可愛いや」という点です。森友学園、加計学園の騒動、それに関わる昭恵夫人の活動などを見ると、その感を深くします。うまくいけば問題なし、という運任せと言っていいでしょう。森友学園、加計学園の問題で首相は国会で「私と親しかったら事業に参加できないのか」と答えているシーンをテレビで見ましたが、なんと甘い人かと思いました。「私と親しいから」こそ、疑念を持たれないように透明度を高めるとか、一定の距離を置くとか、という節度が求められます。それが公職にある人、そしてその家族の務めです。

 

「本音」に甘い私たち

 

 産経新聞(4月27日朝刊)に「今村発言、東京の本音ではありませんか」という記事が載っていました。伊藤寿行・東北特派員によるものです。一部を引用します。

 「米国のジャーナリスト、マイケル・キンズリーは『失言とは政治家が本音を話すこと』と語っている」

 と「失言」についての「名言」を紹介したうえで、今村発言について

 「石原慎太郎元東京都知事の『震災は天罰』発言に似ている。『天罰を受けたのがなぜ石原氏でなく、東北の人なのか』という問いに答えがなく、被災者は東北蔑視の臭いをかぎ取った」「東京の人に聞きたい。あなたも『東北でよかった』と思っていませんか」

 私たちはどうも「本音」に弱い。「本音」と「失言」の区別が曖昧になり、許したくなってしまう。自分では言えないことを言ってしまう人間に対する畏怖の気持ちでしょうか。しかし「自分は言えない」という判断こそ重要です。その基準は全人間像を示していると言えます。基準が甘かったり、鍛えられていなかったりすると、失言になりますが、大臣連中の失言を聞くと、人間像に学歴、社歴などまったく関係ないということがよくわかります。

 「ミサイルが打ち込まれたら」と恐怖をあおっている時ではないでしょう。政治が内部から崩れ始めた今が、メディアの最後の出番かもしれません。