安田菜津紀
薄雲が覆う街は夏の終わりにしては肌寒く、時折小雨が静かに車窓をつたっていった。ドイツ北部ハノーファーから、列車は森を抜け、更に郊外へと走る。降り立った駅前広場の向こうには、小ぎれいな商店が軒を連ね、のどかな街並みが広がっていた。行きかう人々の中には、イスラムのヒジャブを被った女性や、アラビア語で会話する若者たちの姿も目立つ。10年ぶりに訪れたこの国で、シリアから逃れた友人を訪ねた。
シリアに家族を残し難民に
アリさん(仮名・40歳)が単身ドイツへとたどり着いたのは2015年、とりわけ多くの難民が危機を逃れヨーロッパを目指した年だった。シリアが戦禍にのみ込まれていく中、知識層だった彼は、政府側、反政府側双方から、自分たちの力になるよう声がかかったのだという。「誰も、殺したくなかった」。故郷を離れた苦渋の思いをアリさんはそう語る。妻と幼い3人の娘をシリアに残し、隣国トルコから海を渡った。家族全員でいきなり難民となるのはあまりにも無謀だった。まずは自分ひとりがそのリスクを背負い、海外に生活基盤を築き上げようと試みたのだ。いくつもの国境を越え、あまりに長い道のりの末にたどり着いたのがドイツだった。
「最も危険だったのはやはりボートでギリシャを目指したときだった。スマートフォンに家族へのメッセージを書き残して、沈みそうになったらいつでも送れるように準備しておいた」。自分がこれまで築いてきた全ての人間関係から切り離される、あまりに孤独な選択。何より家族といつ会えるのか、何ら約束された将来が見えないのがたまらなく苦しかったと当時を振り返る。
街は元々移民たちも暮らしている地域ということもあり、商店街にはハラールフード(イスラム法上で許されている食材や料理)の店も少なくない。モスクもあり、目立った不自由はないという。「ただ、予想以上に高かったのは言葉の壁だった」とアリさん。彼の前職はエンジニアだったが、専門用語も多いその職能をドイツで活かすにはあまりにも言葉が不自由だった。今は小さな企業でインターンをしながら、いつかまたエンジニアとして働けるよう、ドイツ語を猛勉強する毎日だ。「職に就けないことを、一部では“楽をしている”と見られることもある。ただシリアでは日々当たり前のように仕事をしていた自分にとって、働けないということは“社会から必要とされていない”ということと同じなんだ」。
「対話しない政党」はマイナス評価
ちょうど私が訪れたとき、ドイツは総選挙を控え、色とりどりのポスターが至るところで目に付いた。興味をひかれたのは政党と有権者の関わり方だった。日本のように、選挙カーを走らせ候補者の名前を繰り返し呼びかけるのではなく、街中に各政党がブースを出し、訪れる人々と自由に議論ができるようになっていた。中でも気になったのは難民条約からの離脱を訴える「AfD」(「ドイツのための選択肢」)だ。後の投票で、初の国政進出にして第三党に躍り出たほどの得票数を獲得した政党だ。
ブースが並ぶ広場を、私はアリさんと共に歩いていた。人道支援が目的ではない、という率直な意見が返ってきたブースもあった。「多くの難民たちが小さな子どもたちと共にやってきます。あなたたちがこの国に来たことによって、むしろ少子高齢化のドイツの側が助けられる面もあるのです」。こうして各政党の話を聞けるのは興味深かったが、難民排斥を訴える政党のブースを、実際に難民である彼と共に訪れるのは憚られた。しかし、「ねえ、行ってみようよ」と思いがけず私を誘ったのは彼だった。「でも、難民が来ることに反対している政党よ?」「大丈夫。この国では“対話をしない政党”と思われることが選挙にも響いてくるそうなんだ。だから誰がブースを訪れても、どの政党もしっかり答えてくれる」。
実際私たちが訪ねたAfDのブースでは、英語で丁寧な対応をしてくれた。「私たちは全ての難民に反対しているわけではありません。ただ経済的な利益が目当てでこの国にやってくる人々にまで国籍を与えてしまうと、ドイツは崩壊しかねません。誰が“本当のドイツ人”なのか、選別する必要があるのです」。選別する基準について尋ねてみると、「これから議論を進める」と明確な基準は示されなかった。イスラム教徒たちへの危機感をあおるような文言の並ぶポスターについては、「想定されるリスクを提示しているまでです。リスクをあぶりだし、我々がドイツを救うのです」。詳細は英語HPにも書いています、と渡されたパンフレットを開くと、イスラム教過激派勢力を思わせるような黒ずくめの男たちが、写真の中からこちらをにらんでいた。排他的な政党が大きく力を伸ばしてきたことは確かに懸念すべきところかもしれない。ただ、街中にこのような場があることで、少なくとも対話の糸口はまだ残されているともいえる。
街で最も高い教会の塔から休みがてら街を眺めていると、年配の女性が一人、アリさんに話しかけてきた。「どこから来た方なの?」。興味をひかれたのか、近くにいた学生たちも会話に加わってきた。「お子さんいらっしゃるんでしょう?これ、近くの遊園地の無料券」と、連絡先を書いた紙と共にアリさんへ手渡すと、彼らは笑顔でまた商店街へと戻っていった。「確かに多くの難民がこの国に逃れてきて、危機感や反発を覚えている人たちも少なくないと思う。ただ一方、今のように温かく受け入れてくれる人々もいて、その励ましに私たちは支えられてきたんだよ」。実際アリさんがドイツにたどりついたばかりの頃は、近所の人々が自主的にドイツ語教室を開いてくれたという。駅前には「WELCOME REFUGEE」という旗が掲げられ、学生たちがキャンペーンを展開していた。
「パパお帰り」
第二次大戦後、駐留していたイギリス軍の兵士家族が使っていたのだという古びたアパートの門をくぐると、「パパお帰り!」と小さな娘たちが3人、アリさんに飛びつくように出迎えてくれた。つい2か月前、ようやく奥さんと娘さんたちの呼び寄せが叶ったのだった。その時空港まで迎えの車を出してくれたのも、彼を支える近隣の住人たちだったという。ちょうどこの日は長女の10歳になる誕生日だった。2年ぶりに家族そろって迎える誕生日に、アリさんも、娘さんたちの顔も輝いていた。「だけどね」と時折、彼の顔がくもる。「後ろめたい気持ちでいっぱいになるときがあるんだ」。誰しもが家族の呼び寄せが叶うわけではない。それ以前に、ヨーロッパにたどり着くことさえできず、追い返された人、力尽きた人たちがいた。何より戦乱のシリアにはまだ、多くの友人、親戚たちが残っている。それを彼は身をもって知っていた。
今年の7月、シリアの隣国イラク北部を取材のため訪れた。ISから奪還されたばかりの街々は、一部生活が戻っているものの、瓦礫の撤去、その下に埋まる遺体の捜索、更には地雷の除去まで、“復興”にはあまりに長い道のりが横たわっているのだと突きつけられた。例えもう一度橋がかかり、道が敷かれ、家々が再建されたとしても、平穏に暮らしていた日常が取り戻されるわけではない。「ISの兵士たちには勿論二度と戻ってきてほしくない。でもそれだけでは不十分だ。兵士を出した家族、親戚まで、残らずここから出ていくべきだ。彼らがいる限り、テロリストたちが戻ってくる口実を与えてしまうんだ」。ISの砲弾で息子を亡くしたばかりの父親が、悔しさを滲ませながら語った言葉が思い出される。もしかすると隣人は、過激派に加担している人間かもしれない。そんな互いに対する不信感は、根深く刻まれたままだった。
ISとの闘いはこのイラク第二の都市モスルからやがて、シリア北部、ラッカへと移っていった。熾烈を極めているのはこの対IS作戦だけではない。「緊張緩和地帯」に指定されたはずの街でさえも、様々な武装勢力同士の戦闘が続き、昨年のアレッポ攻防戦以来、人的被害は最悪のレベルだとICRC(国際赤十字委員会)は警鐘を鳴らす。例え目に見える戦火が去ったとしても、人々が暮らしを取り戻していくには長い年月を要するだろう。
混迷のドイツから学ぶ
先日、麻生副総理が講演中、北朝鮮で有事が起きた場合に多くの人々が日本へ逃れてくる可能性について触れ、「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか」と発言したことがあった。確かに武装勢力が難民に紛れてくる可能性はあるだろう。その危険性とどう対峙していくのか、戦闘と隣り合わせのイラク、シリアだけではなく、ドイツでも試行錯誤が続いていた。そういった事態への対策はもちろん必要だ。ただし武装し、日本を攻撃する意思のある人々はそもそも“難民”にはあたらない。逃れてくる人々が過酷な道のりを経る中で、自衛のために武器を携行している可能性もある。ただそれも保護される過程で放棄してもらうなど、対処ができるはずだ。「武装」と「難民」、本来相容れない言葉を重ねて使うことで、「難民」という言葉への誤解や偏見は広がっても理解が深まるとは考えにくい。
ここで日本の難民受け入れの是非を単純に問いたいとは思わない。ただ彼らを“リスク”と捉える言葉だけが飛び交うあまり、本来保護を求める人々とどのように向き合うべきか、議論が十分に尽くされてこなかったのではないかと問い直す必要はあるだろう。どんな体制、状況の国であれ、その背後には無数の人々の命があり、暮らしがある。初めから難民だった人はおらず、いつ、どこに生まれても変わらない人間の尊厳へと想像力を働かせること。それが混迷のシリア、イラク、そしてドイツから私たちが学ぶべきことではないだろうか。