老人頑張れ Vol.2 「茂木英治 70歳でデビューした舞台俳優」

M. Kimiwada

M. Kimiwada

君和田 正夫

 妻に言われて気づいたことがあります。神奈川県の藤沢と鎌倉を結ぶ江ノ島電鉄(江ノ電)は海外からの観光客が増えています。その江ノ電を利用していると「外国人、特にアジア系の人たちは席を譲ってくれる」と言うのが妻の感想でした。私も注意してみました。もともとアジアからの観光客が多い、ということもあるのでしょう、確かにアジア系、もっと絞ると中国、台湾、韓国からの観光客と思しき人たちが高齢者に席を譲っている光景を何度か目にしました。私自身も譲られました。

 それに対して、日本の高校生はなかなか譲ろうとしないように見えます。江ノ電沿線には学校が沢山ありますので、何人もの学生が席を占拠すると、かなり目立ちます。「どうして譲らないのだろう」と考えると、彼らは仲間と一緒の時は「カッコ悪い」と思っているのではないか、と思い当りました。一人だけ「優等生」に思われることを、嫌がっているのではないか、と想像したわけです。

 両者の違いを調べたわけではありませんが、儒教の影響がある国や年長者を敬う伝統のある国と、「嫌老」や「下流老人」などの言葉が流行る国との違いもあるのでしょうか。

 今回はサラリーマンを辞めたあと、70歳で「舞台俳優」としてデビューした茂木英治さんです。茂木さんは私と同じ会社で働いていました。(君和田 正夫)

 

ああ、堂々の素人芝居

 

<茂木 英治> 1943年生まれ。1967年慶応大学卒。日本教育テレビ(現テレビ朝日)に入社。ヨーロッパ特派員、スポーツ局長などを経て2003年テレ朝の関連会社ビデオパックニッポン社長。2007年退任。

 

茂木 英治

茂木 英治

 

人生に最も影響を与えた『泣いた赤鬼』

 

 - あなたはもともとがサラリーマンなので、退職後は悠々自適の生活をしているのかと思っていたら、突然、舞台俳優でデビューしました。前から関心があったのですか。舞台の前に朗読会に入ったと聞いていましたが、朗読、舞台とは何か縁があったのでしょうか。

 茂木 幼稚園か小学校一年くらいのころに読んだ『泣いた赤鬼』という本までさかのぼります。母親が市の図書館で借りたか、買ってくれたか、いずれかですが、浜田廣介の童話です。本を読んで私はこの青鬼のように友達を思いやる少年になりたい、と思ったものです。

 簡単に筋を話しますと、山の中に住んでいた赤鬼が人間と仲良くなりたいと思ったのですが、人間の方は恐れて寄ってこない。友達の青鬼にこの悩みを話すと、青鬼はある筋書きを考えました。自分が悪い鬼になって村人をいじめる。そこに赤鬼が村人を助けに現れろ。そうすれば村人は赤鬼を味方だと思い、恐れなくなる、というものでした。本当にそうなって赤鬼は村人と仲良くなったのですが、友人の青鬼が全く姿を見せなくなってしまった。心配して青鬼の家へ行くと、張り紙がしてあった。「僕は旅に出るけれど、いつまでも君を忘れません」

 旅に出た理由は、自分がこのまま赤鬼と付き合っていると、赤鬼も悪い鬼だと思われてしまう、というものでした。赤鬼はこの張り紙を見て泣き伏しました。一番大事な友達を忘れていた、ということでしょう。

 

仲間を集めて昼休みに上演

 

 - 読んだだけで終わらなかった、ということですね。演劇にはどうつながるのですか。

 茂木 小学生の3年生になったころ、学校の図書室で、この『泣いた赤鬼』の台本を見つけたのです。学芸会用のものでした。とたんにこの芝居を皆の前でやりたくなったのです。昼休みにやっていいか、と先生に聞いて、仲間を集めました。面、金棒、ふんどしなど私がボール紙で作り、台本を謄写版で刷って皆に渡しました。先ほど青鬼のような少年になりたいと思った、と言いましたが、台本を読んで変わりました。「友を思う青鬼」より「青鬼をすっかり忘れて張り紙を見て大泣きする赤鬼」の方が私らしいと思いましたし、演じて面白いのは赤鬼だと思ったのです。この本は私の人生に最も影響を与えた本かもしれません。

 今考えると、こうした幼児体験が会社を離れてから顔を出してきたのだと思います。

 

『勧進帳』を丁々発止の朗読

 

 - 朗読は会社を辞めてから始めたのですか。

 茂木 子会社の社長時代です。本社を離れたら、圧倒的に時間ができるようになったのです。もちろん仕事中はできませんが、ある知り合いが、勤務が終わってから参加できる朗読の会ができたので、見学に来ないか、と誘ってくれました。行ってみて驚いたのは、普通私たちが考える朗読ではなかったのです。樋口一葉とか芥川龍之介とかの本を静かに読む、という印象を持っていたのですが、そこでやっていたのは歌舞伎の『勧進帳』でした。武蔵坊弁慶と関守の富樫左衛門二人の台詞を、一人で丁々発止をやるのです。激しい言葉のやり取りです。朗読とは明らかに違いました。私の中で何かに火が付きました。

 - 朗読というより演劇という感じだったということですね。主宰者の壌晴彦さんは朗読と劇団を主宰されている方ですね。新聞のインタビューでこう言っています。「私たちの劇団は最初は『勧進帳』など歌舞伎の台本でレッスンします」

 茂木 そうです。壌さんは日本語の美しさにこだわる人で、上田秋成の『雨月物語』もありました。主宰している劇団というのは、50歳以上を対象にしたアマチュアの演劇集団『座シェイクスピア』です。朗読に参加しているうちに、『冬の夜ばなし』に出演するよう誘われたのです。2014年のことです。

 

70歳の初舞台はシェークスピア

 

 - 出演してどうでしたか。自信を持ちましたか。以降、出演が続いていますね。

 茂木 一回目の時は70歳になっていて、会社も辞めていましたが、ともかく恥をかかないようにと思いました。いきなり主役だったのです。周りの方々は何年も経験されている人や大学で演劇をやっていた人ばかりでした。そこにぽっと素人が舞い降りてきたわけですから、周りに迷惑をかけてはいけない、台詞を忘れてはいけない、と緊張しました。台詞を忘れるとすべてが止まってしまうので、忘れた時の対策まで考えました。例えば、「あばずれ女!」という言葉を忘れてしまった時に、「馬鹿もの!」とか、意味があまり違わない別の言葉でカバーする、といったことです。

 君はごまかし方がうまいね、と褒められましたが、これは会社で特派員をしていた経験が生きたようです。何か事故があったとき、なにがなんだかわからないけれど現地へ行かされます。そして「3分間、話せ」といわれるわけです。もう思いつくまま話すしかありません。それが役立っているのですかね。

 - 2回目の出演が2015年の『シェイクスピア しぇいくすぴあ』で『ロミオとジュリエット』の神父役、そして『ジュリアスシーザー』のアントニー役、といい役を演じています。71歳になっていますね。

 茂木 この時、見に来てくれた人の一人が御自分の店でやる舞台に出ないか、と言ってくれたのです。『M家の人々~タ―ラー夫妻殺人事件』『ホテル リスボン』の作者であり、演出家の桃井章さんです。

茂木 英治

茂木 英治

 

肩幅と大股が運命を変えた

 

 - 桃井さんと言えば、私が若いころ、保守系の論客だった桃井真さんの御子息ですね。桃井かおりさんのお兄さんと言った方が分かりがいいかもしれません。桃井真さんの『生き残りの戦略』を読んだ記憶があります。桃井さんはあなたのどこに役者の資質を見たのでしょうね。

 茂木 桃井さんの『M家の人々』はまさに父親をヒントに書いた作品です。私が初めて“出演料”というのか、作品参加の協力費というのかを貰った作品でもあります。桃井さんは「ジュリアスシーザー」のアントニー役をしていた私を見て、肩幅と大股に、何かがひらめいた、と言っています。

 - 『ホテル リスボン』を見させてもらいました。プロの役者さんに交じって、堂々たる素人芸を演じられていましたが、苦労されたのではないですか。練習はいつ、どこでやるのですか。

 茂木 『M家の人々』も『ホテル リスボン』もプロの役者さんにアマチュアが一人交じってやりましたので、プロの方々の方が相当苦労されたのではないでしょうか。

 迷惑をかけてはいけないので、練習は一生懸命やります。普段は朝起きぬけに声を出して練習します。布団を出る前です。自分の台詞だけでなく、相手の台詞も覚えます。しかも声だけではだめで、実際に体を動かして練習しないと覚えません。相撲と似たところがあって、稽古が一番大切です。

 出演者全員が集まってやる練習は、廃校になった小学校を借ります。理科の教室は広くて頑丈なので便利です。今、都内でも廃校が増えているようです。

 

付き合う世界が変わった

 

 - 小さい時の記憶や夢などが、会社を離れて一挙に表に噴出した、という印象ですが、会社時代と比べて、何かが変わったのでしょうか。

 茂木 会社時代と比べて世界が変わった、付き合う人たちが変わった、ということでしょうか。ただ、私はあくまでも素人です。プロの演技は長年の積み重ねです。私の場合は、怒りや喜びの表現にしても、日常の感情の延長線上にあります。逆に素人らしさを大事にしていきたいと思っています。演劇と同様、絵も描きたい、小説も書きたい、と思うようになりました。