テレビ界に流れ込む暗雲

M. Kimiwada

M. Kimiwada

君和田 正夫

 「暗い時代」に入ったのだろうか、と思うことが増えました。時代の空気にまず反応するのは、おそらくメディアの世界でしょう。いやーな気分、重苦しい空気が今、メディア界、とりわけテレビ界を覆っています。現政権への批判と受け止められる記事・番組などへの圧力・介入が日増しに強まっていることが原因のように思えます。

 と言って、圧力をかけたとか、介入したとか自ら証言する人がいるわけがありません。逆に、誰もが「圧力ではない」「介入ではない」と否定しています。安部首相は「報道の自由を尊重するのは自民党の基本姿勢だ」とまで言っています。その通りでしょう、いまどき民主主義国家で「報道の自由を尊重しない」という政治家がいるわけがありません。首相はごく当たり前のことを言ったに過ぎないのですから、重苦しい空気を拭い去る材料にはなりません。では今メディアを覆っている暗い空気の発生源は一体どこなのか、ということになります。問題の所在がどこにあるか、多くの人は気付いているのでしょう、気付きながら沈黙していると、大気汚染は着実に進んでいきます。「暗い時代」というのはいつもそのように始まったのではないでしょうか。

 

それぞれにとっての「言論の自由」

 

 言論の自由はいつの時代も脅かされています。だからこそ「崇高な理念」として民主主義の根幹であり続けているのですが、議論の焦点は「圧力をかけていない」「介入なんてしていない」と言う側が考える「言論の自由」と、「圧力をかけられた」「介入された」と受け止める側が考える「言論の自由」の間に、大きな乖離があるということです。

 昨年11月、安倍首相が民放局の報道番組に出演した際、「景気回復の実感」について、「街の声」を集めた放送に対して、「6割の企業が賃上げしている。その声が反映されていないのはおかしい」と批判しました。
 この発言が3月の衆院予算委員会で追及されましたが、安倍首相は「言論の自由だ」と反論しました。首相はさらに、番組の内容に反論したに過ぎず、それでメディアが萎縮するとすれば情けない、とまで述べました。これは首相というお立場がよくわかっていない発言と考えざるを得ません。「報道の自由」を脅かすのは多くの場合権力を持っている側からです。だから権力の座にある人は、報道の自由については慎重すぎるくらい慎重な対応が求められているのです。

 その一方で、社民党の福島瑞穂氏が安全保障関連法案を括って「戦争法案」と批判(4月1日、参院予算委員会)したことに対して、首相は「レッテルを貼って議論を矮小化するのは断じて許せない」と反論しました。自民党も発言の修正を求めました。首相の反論を聞いて、2月の衆院予算委員会をお忘れになったのか、と尋ねたくなりました。民主党議員が西川前農水相の寄付金問題を質問している最中、「日教組!」と野次を飛ばしたのはどなたでしたでしょうか。首相が品のない野次を飛ばすこと自体驚きでした。質問者は日教組出身ではありませんでしたが、これこそレッテル貼りであり、「政治と金」の問題をはぐらかし、矮小化する発言そのものではありませんか。

 福島氏は当然のことですが、表現の自由を理由に、修正を拒否し、社民党・吉田党首も記者会見で(4月20日)「言論に対する抑圧的な態度だ。国会議員の質問権に関わる問題だ」と批判しました。

 

揺らぐか、BPOの自主性

 

 国会の場で、政治家が主張する言論の自由。その政治家たちから投ぜられる言論への牽制球。私たちは言論の自由をどう考えたらいいのでしょう。最近問題になった案件と併せて考えてみたいと思います。

テレビ朝日の報道ステーションが話題になっています。3月27日にキャスターの古舘伊知郎氏とゲストの評論家古賀茂明氏との間で、古賀氏の降板について議論が交わされました。古賀氏は現政権の政策に批判的でしたが、3月いっぱいで番組を降りることになりました。最後の出演ということで、視聴者に感謝の気持ちを述べると同時に「菅官房長官はじめ官邸の皆さんにはもの凄いバッシングを受けてきた」と発言し、古館キャスターと論争になりました。菅官房長官はすぐ否定しました。

これを受けて、4月17日、自民党情報通信戦略調査会は「真実を曲げられて報道された疑いがある」とテレビ朝日とNHKを呼び、事情聴取しました。つまり「放送法に違反している疑いがある」ということです。

 NHKの場合は「クローズアップ現代」の「やらせ」問題が聴取の対象になりました。「やらせ」はメディアにとって自殺行為ですが、政党が調査する話ではありません。と言うことはテレ朝の「報道ステーション」が狙いだったと言えるでしょう。今後「報道倫理・番組向上機構」(BPO)への申し立ても検討するとのことです。BPO はNHKと民放が政治の圧力を跳ね返すため、自主的に自己検証しようという組織です。自主的に対応することによって、放送の独立性を担保しようと作られたものです。そのBPOについて川崎二郎情報通信戦略調査会会長は「テレビ局がお金を出し合う機関で、きちんとチェックできないなら、独立した機関の方がいい」と記者団に語り、政府がBPO に一定の関与をする仕組みの整備を主張しました(4月18日、毎日新聞朝刊)。 BPOの自主性が揺さぶられる危険性が出てきたわけです。

 この問題は放送法の趣旨に関わってきます。放送法の第1章総則の第1条2号は次のように規定しています。「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」

 また第2章放送番組の編集等に関する通則では「放送番組編集の自由」と題して、3条で「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、または規律されることがない」

と明記されています。自民党の情報通信戦略調査会の事情聴取はどの法律に基づく権限行使なのでしょうか。池上彰さんが「新聞ななめ読み」というコラム(4月24日、朝日新聞朝刊)で「自民こそ放送法違反では」と書いたのは、放送法が介入の道具にされている危険性を指摘したものです。

昨年の衆院選挙の前、自民党は「報道ステーション」に対して「アベノミクスの効果が大企業や富裕層のみに及び、それ以外の国民には及んでいないかの如く断定する内容」と批判する文書を出しました。そして「意見が対立している問題については、多くの角度から論点を明らかにしなければならないとされている放送法4条4号の規定に照らし、同番組の編集及びスタジオの解説は十分な意を尽くしているとは言えない」と公平な報道を注文しました(朝日新聞4月11日朝刊)。
しかし菅官房長官は「報道に圧力をかけるものではない」と圧力説を否定しました。4条4号は「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と規定しています。

「できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」に私も賛成です。しかし、政治家のジャーナリズムに対する認識の浅さにただ驚くだけです。ジャーナリズムには少数派の意見を取り上げる、あるいは不断自分の意見を言う機会の少ない人にスポットを当てる、という重要な役割があります。アベノミクスで久しぶりに潤っている人たちもいます。またそれから取り残された人たちは、少数派どころか多数派なのではないでしょうか。

安部首相の祖父である岸 信介氏は1960年、いわゆる60年安保の際に、「国民の声なき声」という名言を残しました。日米安全保障条約の改定に反対する人たちはデモなどで声を上げるが、物言わぬ国民の方が大半で、その人たちは政権を支持している、といった意味でした。立場によっていろいろな解釈の仕方、使い方ができる言葉ですが、私には、政治家は「声なき声」にもっと耳を澄まそう、批判にも耳を傾けよう、また国民はもっと声を上げよう、という教訓が残る言葉です。批判を圧殺しようとする政治家と批判を成長の糧にする政治家、今求められているのは後者です。

総選挙の前にはNHKとキー局の民放5社に選挙報道の「公平中立、公平の確保」を求める文書を送っています。

このほかにも、NHKの「ニュースウォッチ9」のキャスター大越健介氏が3月で交代したことについて、官邸の圧力説も流されたりしましたが、これも更迭を証言する人はおりません。噂が噂を呼ぶ、という状況になっています。

 

テレビ局はもっと声を出そう

 

 注目すべきは一連の出来事がテレビに集中しているということです。本来、政治の介入を防ぐためにある放送法が、逆手に取られているためでしょう。実際、新聞には放送法に当たる「業法」がありませんので、テレビ朝日とNHKが自民党に呼ばれた時は、多くの新聞が圧力ではないか、と懸念を表明しました。テレビ界からも状況の説明や反論があっていいように思えます。反論は新聞に任す、ということでは、テレビの主体性が問われますが、日本テレビの大久保好男社長は、4月27日の定例記者会見で、放送局が個別の番組で呼ばれたことについて「極めて異例のこと」でテレビへの圧力との疑念を持たれかねない、という新聞各紙の指摘は、全く自然な指摘だと思う(4月28日、毎日新聞、朝日新聞)と述べました。同時にBPOについても「現在にBPO は十分に機能している」(毎日新聞)と、自民党に反論した形になりました。こうした声をもっと上げることです。

 BPO の新理事長の濱田純一氏も民放連の新聞『民間放送』(4月23日号)のインタビューで「法に頼る前に自分たちで解決できるというのは、市民社会として最も成熟した形態」と答えています。

 「独立メディア塾」の4月号と5月号で山内晴子氏の「朝河貫一からのメッセージ(上)(下)」を掲載しています。朝河は第二次大戦を阻止しようとさまざまな活動をした人ですが、沈黙する知識人(今は死語になりかかっていますが、)の責任を厳しく指摘しています。

 今、一番恐ろしいことは、政権が少しずつ積み上げて来ているメディアへの牽制によって、メディア自身が自粛、自主規制、忖度(そんたく)など自己防衛的な空気をつくり出してしまうことです。自分で作る空気ですから、誰かに介入や圧力の責任を回すわけにいきません。メディアが自主規制してくれれば、誰が高笑いするかは、はっきりしています。メディアの沈黙は、「暗い時代」への流れを加速させることになるでしょう