想い続ける、国境越しの故郷へ

Natsuki Yasuda

Natsuki Yasuda

安田 菜津紀
 2012年8月、大自然に囲まれたタイ国境の農村からちょうどカンボジア都市部へと抜けてきた日のことだった。久しぶりにメールを開いてみると、緊張した文面がいくつも目に飛び込んできた。「今どこ?シリアじゃないよね?」友人たちからの安否確認のようなメールだった。急いでBBCニュースを点ける。「日本人女性ジャーナリスト、シリアで死亡」。そんな見出が目に入った瞬間、画面の目の前で呆然と立ちすくんだ。
 山本美香さんがシリアで被弾し亡くなってから、2年が経とうとしている。この仕事を始めてから、彼女の本を何度繰り返し読んだだろう。会う度に緊張のあまり上手く話せなかったことを今悔やんでいる。それだけ真っ直ぐに、人の目をしっかりと見つめながら話す人だった。
 学生時代から何度となく通ってきたシリアの街々。かつてそこは私にとって、世界のどこよりも美しい場所だった。友人の住む首都ダマスカス周辺には、息を呑むような光景がそこかしこに溢れていた。シルクロードの起点の一つにもなっていた旧市街地は、世界遺産にも登録されていた。時が止まったかのような古めかしい商店の並ぶ市場を抜けると、世界最古のモスクに突き当たり、人々が静かに祈りを捧げている。この街を見下ろすカシオン山は、聖書の中にも登場する歴史的な場所だ。

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シリア首都ダマスカス。夕刻のカシオン山からの眺めは絶景だった。

 

旧市街地にあるハミディア市場。いつもチャイ売りたちが入口で出迎えてくれた。

旧市街地にあるハミディア市場。いつもチャイ売りたちが入口で出迎えてくれた。

 

 夕暮れ時、オレンジ色の光が土壁の家々を照らしていき、やがてその風景が宝石箱をひっくり返したような夜景に変わっていく。民家の間を歩いていれば、必ず子どもたちが駆け寄ってくる。あの美しかった風景は今、どうなっているのだろう。一緒に遊んだ子どもたち、友人たちやその家族はどうしているのだろう。想いを馳せない日はなかった。

ダマスカスからほど近いジャラマナの街。路地裏にいつも子どもたちの笑い声が響いていた。

ダマスカスからほど近いジャラマナの街。路地裏にいつも子どもたちの笑い声が響いていた。

 

 2011年3月、東日本大震災が発生した直後に、この国の戦況は大きく悪化していった。それから3年半近く、美香さんの想いとは裏腹に、戦火は止むことなく人々を飲み込み続けている。避難生活を送る人々の数は国内外合わせて900万人を超えた。シリアに暮らす人々のうち、4割以上が自宅を追われたことになる。
南の国境を超えた隣国、ヨルダン。両側を砂漠に囲まれた道を突き進んでいくと、忽然と広大な集落が現れる。国内最大の難民キャンプ「ザアタリ難民キャンプ」。隣国に避難してくる人々は後を絶たず、情勢によってはキャンプの人口が12万人近くにのぼることがある。高台に上がっても、その全容を一望するのは難しい。元々難民キャンプを運営する人数の限界は2~3万人といわれている。その6倍近い人口がひしめきあい、小さなテントやプレハブでの暮らしを余儀なくされていた。中心地から外れた集落では、水タンクから水が漏れ、道端には汚水が溜まり、トイレにはドアさえついていない。
 「おい、外国人!お前たちは外でたらふく食べられるんだろう!」配給の列に並ぶ男性から怒号が飛んだ。ここに来る人々は皆、着の身着のまま逃げてくる。物資の配布はお腹を満たすための最低限の量に限られ、生活をやりくりしようとすれば僅かな貯金はあっという間に底を尽いてしまう。そうかといってキャンプの外に出て労働することも許されない。出来ることといえばキャンプの中で、ただひたすら待ち続けることしかない。不安や苛立ちはこのキャンプの至るところで渦巻いていた。

ヨルダン・ザアタリ難民キャンプ。炎天下でのテント生活は厳しさを増すばかりだ。

ヨルダン・ザアタリ難民キャンプ。炎天下でのテント生活は厳しさを増すばかりだ。

 ここで暮らす父親の一人、オマルさん。妻と息子を連れ、戦闘の手が届こうとしていたダラアと呼ばれる南部の街からここに逃れた。それから2年近く。「故郷に戻っても、そこにはもう我々の家は残っていないだろう」。そう語りながら疲れの色を滲ませる。テント内には激しい雨の日、食器が浮き上がるほど水が流れ込み、湿った床で川の字になって眠る日が続いたという。砂漠地帯の寒暖差は激しい。昼間は焼けるような太陽がじりじりと照り付け、夜はうって変わって冷たい空気が大地を覆う。妻は体を壊し、やむを得ず首都アンマンの病院に搬送となった。首都までは車で2時間近く。頻繁に見舞いに行けるほどの余裕は一家にはない。

 オマルさんがおもむろに、マンドリンのような楽器を取り出した。「“ウード”という伝統楽器なんだ。これで故郷の音色を奏でるときが一番心が安らぐのさ」。

オマルさんのテントに、ウードの優しい音色が響く。

オマルさんのテントに、ウードの優しい音色が響く。

 キャンプ内には3つの学校がある。オマルさんは音楽教師として、自ら教壇に立っている。故郷の歌を精一杯歌いあげる子どもたちの姿が、一人の父親として、そして教師として、彼自身の心を支えている。
学校の壁は、子どもたちの描いた絵で埋められていた。美しかった故郷の姿の上に、所々アラビア文字が走っている。「これ、なんて書いてあるの?」近くにいた少女がにっこり笑って答えてくれた。「自由よ永遠に。例えアサドがそれを望んでいなくても」。よく見ると子どもたちの腕輪やペンダントには、三ツ星のシリア国旗が描かれている。

学校の壁に子どもたちが描いた故郷の姿。自由への願いもそこに込められていた。

学校の壁に子どもたちが描いた故郷の姿。自由への願いもそこに込められていた。

 

子どもたちが手にする三ツ星の国旗。キャンプ内の至る所で掲げられている。

子どもたちが手にする三ツ星の国旗。キャンプ内の至る所で掲げられている。

 現在のシリア政権の国旗は二つ星、三ッ星国旗は前政権で使われていたものだ。アサド大統領への抗議の意を込めて、この三ツ星国旗がキャンプの至るところで掲げられている。子どもたちの身に着けているものの中にさえ。彼らの心の中で、戦争は続いているのだ。
世界の中の避難民の数は今、第二次大戦後初めて5000万人を超えたといわれている。戦禍や迫害を逃れた人々は後を絶たない。誰かの命が理不尽に脅かされていても、残念ながらそれはたくさんの人々に認識をされない限り、社会の中で“問題”として扱われることがない。けれどもその渦中にいる人々自身は、自ら声を上げることが出来ない立場にあることが殆どだ。問題を“問題”たらしめるのは、耳を傾けることが出来る私たち一人一人なのだ。