免許返納

H.Sekiguchi

 断腸の思いでした。
60年近く肌身離さず持ち続けていた自動車免許証を返納したのです。
「辛かった」「苦しかった」「淋しかった」・・・・・・そんな言葉では言い表せないほどテンションが下がりました。
「もうハンドルは握れないのだ。・・・・・あの楽しかった日々ともお別れか・・・・」
空を仰いで若かった日々に想いを馳せました。

 私が覚えている最初の「車」の記憶は、戦後の焼け跡を走り抜ける進駐軍のジープでした。
「かっこいい!」と思いました。
まだ自動車そのものが少ない時代、戦争のことも、マッカーサーのことも分からずに、子供達は「ギブミー・チョコレート」と「ジープ」を覚えたのです。
その「ジープ」が走り去った後を追いかけ、ガソリンの匂いを嗅ぎました。
いい匂いがしました。おそらく今のガソリンとは何かが違うのでしょう。それが進駐軍の匂いに感じられました。

Wikipediaより

 乗用車では「フォード」「シボレー」「ダッジ」等々が東京の街に現れ、その「車」に人だかりが出来、アメリカ人のライフスタイルを羨望の眼差しで見つめていました。  

 それからしばらくして、日本でも小型乗用車(1000ccクラス)の開発が盛んになりましたが、5000〜6000ccもの大きなエンジンを乗せ、豪華でゆったりしたアメリカ車の虜になってしまった私には、「到底かなわない」と感じられたのですが、今思えば、あの当時の諦めない日本人の努力こそが、やがて「アメ車」を凌ぐ「日本車」を作り上げることになったのでしょう。

 一方、「BMW」「ポルシェ」「ワーゲン」等を作り、「アメ車」を凌いだドイツもまた日本と同様、先の大戦の敗戦国だったことにはどんな意味があったのでしょうか。

 そして話はもどりますが、私は待ちに待った16歳になりました。
当時、「小型免許」(2000cc以下なら運転可。ゆくゆくこれが「普通免許」になるのですが)が16歳で取れたのです。当然のごとく私はそれを手に入れました。昭和34年のことでした。

 免許が取れた。だから運転したい!運転したい!の気持ちが募ります。
しかしその願望は簡単には実現しません。まだまだ「車」も少なく、16歳ごときに「車」なんぞもっての他という時代でした。

 しかし「念ずれば通ず」だったのか、学校の冬休み、デパートのクリスマスケーキの箱を作っていた友人の親父さんから、「人手が足りないんだ。免許持ってんなら運転してくれ」と配送を頼まれたのです。
「待ってました!」とばかりに駆けつけると、「車」は当時「ミゼット」と呼ばれていた軽三輪車。

Wikipediaより

 一瞬「あぁーこれかぁ」と、「アメ車」との雲泥の差を感じながらも、運転できる喜びには変え難く、ちっちゃな三輪車で、大きなバスやトラックに煽られながら、暮れの混雑した道路を走りました。自分の空間・テリトリーを、座ったままで移動できる魅力は、私には応えられませんでした。

 「いつか自分の車を持つ!」その夢が叶えられたのは、学校を出てから。
なけなしの小遣いをはたいて手に入れたのは、まだまだ高嶺の花だった「アメ車」ではなく、ヨーロッパ車の「オペル」。
廃車寸前、ラジエーターの水漏れ、エンジンのオイル漏れもなんのその、自分の空間・城を持った気分になり、一晩「オペル」の中で過ごしたものです。
ちなみにこの「オペル」、まだドアの下にはステップがついていましたし、方向指示器は矢印が窓の横に飛び出す代物でした。
それ以来、私は「車」を手放した事はなく、数えきれないほど「車」を乗り換えました。

 人様並みに湘南辺りでデートもし、西日本一周にも出かけました。
仕事にも遊びにも、「車」なしでは考えられない生活を半世紀にわたって続けてきた私が一大決心をしたのは、今年遂に、「後期高齢者」に入るところまで来てしまったからなのです。

 本当に「断腸の思い」でした。
「でもなぁ、車も随分変わってしまったし。全自動運転の車も出来そうだし。となれば、自分の空間を自分で操りながら移動するあの楽しみは、なくなってしまう訳だし・・・・・いい!捨てよう!これも歳いった者の断・捨・離だぁ!」
と、心の中で叫びました。

     テレビ屋  関口 宏