自主規制の「天皇」論議

M.Kimiwada

君和田 正夫

 トランプ大統領は、5月25日、国賓として来日し、新天皇へ表敬訪問しました。天皇として初めての外国人元首との対面でした。新天皇は内外に向けて、どのような天皇像を築かれるのでしょうか。皇室報道は「自主規制」が最も厳しい分野です。メディアは現状を良しとする姿勢を続けるのでしょうか。新しい天皇像を国民と共に描くために、メディア自身も改革する努力が今ほど求められている時代は無いように思います。

 
国民に寄り添うほど議論は遠くへ
 

 平成時代の天皇(上皇)は実によく役割を追及されました。「象徴」とは何か、自ら行動することによって「象徴」を具現化する道を選ばれました。国民と苦楽を共にするため被災地を回られました。その道のりには「戦争責任」の道標も立っていたはずです。昭和天皇が沈黙してしまった責任を引き継ぎ、激戦の地を訪れました。生前退位を表明された時は、象徴としての責務を果たそうという強い意思が感じられました。新しい皇室像を国民にお見せになったのです。それは多くの国民に受け入れられたと思います(注1)。

 しかし、天皇が国民に寄り添えば寄り添うほど、皮肉なことに天皇制についての議論・批判が難しくなっています。4月末と5月は、メディアも天皇制についての議論を社説や特集記事、特集番組で平時より活発に行いました。お祭り騒ぎだけではいけない、という意識があったのでしょうが、日常的に議論を避けてきたことへの「アリバイづくり」に思えてなりません。しかもほとんどが外部筆者、外部のコメンテーターなどによる天皇論でした。自らの考えはオブラートに包んだままでした。この「オブラート」こそ自主規制そのものと言っていいでしょう。ということは、次に国民的議論が行われるのは、新しい元号に変わるときまでまたなければいけない、ということになります。その時には、今回と同じような「フィーバー」が起き、真面目な議論も顔を出すでしょう。しかし、その間の期間、メディアが沈黙を続け、自己規制を続けることになれば、確実に天皇制の空洞化が進むはずです。

 
ムードに同調する「自主規制」
 

 5月27日付の毎日新聞朝刊に「なぜ改元報道は『お祭り騒ぎに?』 識者3氏インタビュー」という特集記事が掲載されました。そのなかで、水島宏明・上智大教授はテレビの「はしゃぎすぎ」を批判し、次のように書いています。「皇室に関する硬いテーマを取り上げて右派から批判されることを恐れるあまり…面倒を避けて『祝賀ムードに同調しておこう』という感覚かもしれないが、いかにもジャーナリズム精神に欠ける」。この記事の見出しは「右派の批判 恐れすぎか」でした。

 この「自主規制」について「戦後日本ジャーナリズムの思想」(注2)という本が様々な問題提起をしています。この本については5月22日の朝日新聞朝刊で紹介されています。著者の根津朝彦氏は立命館大学の准教授です。

 根津氏は「自主規制を固定化する『不偏不党』の形成」と題して、不偏不党が独立した言論を志向する、といった立派なものではなく天皇制国家と戦争を支えるバックボーンだった、と指摘します。不偏不党は
 「日本のジャーナリズムが政党機関紙・言論機関から、政府の弾圧を回避すべく商業新聞・報道機関に転換する様(さま)を正当化する概念であった。…『不偏不党』は自主規制を強固にする大いに偏ったイデオロギーとして日本近代のジャーナリズムに作用するものとなった」
 と分析しています。「不偏不党」「自主規制」が政治的な軋轢をはじめとする外部からの圧力を回避する「言い訳」になった、という欺瞞性を突いているのです。不偏不党、自主規制と「言論の自由」をつなぐ「ダブルスタンダード」については、現場で働く多くの記者たちも感じているはずです。

 根津氏は自主規制の一例として「天皇」という呼称を挙げています。「天皇」という言葉自体が尊称なのに、なぜ「陛下」「殿下」「さま」を付けるのか。根津氏は「天皇・皇族個々人への敬意と、制度・報道の議論は次元の違う問題である」と、メディアの喉元に刃を突き付けています。メディアはすでに呼称について「お断り」などを公表しているので、反応することは考えられませんが、
議論は外部の人に任せ、外部からの批判には応えないメディアの閉鎖性が印象づけられます。

 
「言論の自由」を享受する?産経新聞
 

 では権力や「右」からの圧力がなければ、あるいは少なければ、自主規制の必要は無くなるということになります。「産経新聞」を見てみましょう。5月1日付けの朝刊1面は櫻井よしこ氏による「麗しき大和の国柄を守れ」と題する論文です。1ページに収まらず裏の面にまで続いていました。2日は石原慎太郎氏です。このラインアップでは政権からも「右」からも「偏っている」という批判が来ることはないででしょう。多くの新聞が「不偏不党」に腐心している中で、「産経新聞」は、皮肉なことに「言論の自由」を勝ち得た、と言えるのかもしれません。同紙は憲法記念日に、改憲を目指す安倍首相のインタビュー記事を掲載し、相性の良さをアピールしました。

 議論を外部の人に任せる中で、東京新聞は1日の朝刊1面に「編集局長・白田信行」の名前で「人と平和を守る世に」という論文を掲載したのは異色でした。全国紙では読売新聞だけが一面に「平和と安定に努力重ねたい」という社説を掲げました。

 天皇制や憲法と離れますが、一連の新元号報道の中で、作家の高村薫さんが5月2日の毎日新聞朝刊で、安倍首相を批判しています。「新天皇が『世界の平和を切に希望します』と述べたのに対し、安倍晋三首相は『誇りある日本の輝かしい未来』と国内のことしか言っていない。首相個人の政治信条を述べただけで、国民代表の辞とされたことに違和感を覚えた」。

 新天皇誕生、トランプ大統領来日で5月は賑やかに始まりましたが、高村さんのような冷静な目を常に持っていたいものです。

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トランプ大統領が来日した25日、私は東京・千代田区の紀尾井ホールに川畠成道さんのバイオリンコンサートを聴きに行っていました。前日には英国のメイ首相が退陣を表明したばかりでした。川畠さんがコンサートを「ロンドンデリー」(ダニーボーイ)で締めたことに、驚かされました。メイ首相退任の一因になっているアイルランド・北アイルランドに想いを馳せているかのようなバイオリンの音色でした。欧州の混乱が広がらないことを願っています。

 (注1)NHKが5年に一度行っている第10回「日本人の意識調査」によると、2018年の「天皇に対する感情」は「尊敬する」が41.0%、「好感を持つ」が35.8%で両方合わせると、何と77%近くになります。国民4人に3人が「親皇室」ということになります。「とくになんとも感じていない」は22.2%、「反感を持っている」が0.2%でした。
昭和天皇の時代の1973年(昭和48年)は「尊敬」が33.9%、「好感」が20.3%、合わせて50%を少し超える程度でした。「好感」は昭和時代を通じて20%前後で推移していましたが、平成になって大幅に上昇したことになります。73年時で一番多かったのは「無感情」で、42.7%。ダントツの一位でした。「反感」も2.2%。平成に入って「尊敬」「好感」が大幅に増え、「「無感情」と「反感」が大幅に減ったことが目立ちます。

 (注2)「戦後日本ジャーナリズムの思想」は東京大学出版会から2019年3月出版。第1章「不偏不党の形成史」、第2章「1960年代という報道空間」、第3章「ジャーナリズム論の先駆者・戸坂潤」、第4章「荒瀬豊が果たした戦後のジャーナリズム論」、第5章「企業内記者を内破する原寿雄のジャーナリスト観」、第6章「『戦中派以降』のジャーナリスト群像」、第7章「『世界』編集部と戦後知識人」、第8章「清水幾太郎を通した竹内洋のメディア知識人論」、第9章「八月十五日付社説に見る加害責任の認識変容」、終章「日本社会のジャーナリズム文化の創出に向けて」。
 各章を紹介したのは固有名詞だけで読みたくなる人たちが並んでいるからです。第6章は私が入社した時代の話なので、いっそう興味深く読みました。