「やっと3月になってくれたか・・・・・」
毎年、そんなことを感じながら迎える「弥生」三月。
学生時代は試験から解放されて春休みに入り、どこからともなく漂ってくる沈丁花の香りにウキウキしたものでしたが、歳を重ねるにつれ、そのウキウキ感は相当減少したものの、やはり春の到来は嬉しいものです。
とくに御婦人方にとっては、重いコートを脱いで、華やかなお洒落に精が出る季節でもあるのでしょうが、男どもにとりましても、半袖になれる開放感、その袖口から忍び込む「そよ風」の快感は何とも言えません。
しかし時代と共にお洒落もずいぶん変わってきましたね。
戦後の廃墟の貧しさからやっと立ち直りはじめた子供のころ、「よそゆき・余所行き」と言われた衣服がありました。着るものに贅沢が出来ない時代、他人様のお宅にお呼ばれした時とか、冠婚葬祭の時にしか着てはいけないもので、それ以外はボロボロの「つぎだらけ」のものしか持っていませんでした。
それが、経済成長とともに,日本人は先ず着るものにお金を使うようになりました。「衣・食・住」と言いますが、日本人のトップは「衣」だったのです。(ちなみにヨーロッパでは、住・食・衣の順だという説があります)
やがて「もはや戦後ではない」と言われ出した頃から、男でもVANだのJUNだのがもてはやされ、女性はエレガントさを競うパリコレ的なものに関心が向けられるようになり、大人の女性の上品さが強調された時がしばらく続きました。
そんな時代を大きく変えるきっかけになったのがツイッギー(イギリスのモデル)に象徴されるミニスカートだったと言われています。
このミニスカート、一部では「子供服を大人の女性が喜んで着るようになった」と言う人もおりましたが、世界的な大流行となって更に進化(?)、そこにカジュアルとかスポーティーという価値観が入り込み、服飾業界は広がりを見せました。
一方、忘れてはならないのがジーンズ。
私達の子供の頃は、進駐軍の払い下げの作業着として一部の愛好家の間で使われていましたが、人前に出る時は失礼にあたるとされ、部屋着程度にしか考えられていませんでした。
今でも「ジーンズお断り」のゴルフ場がありますし、当時はホテルの出入りなども憚られたものでした。
それが今では、ラフな感覚を取り入れることがお洒落の主流なのか、シックなブレザーの下にジーンズなんて当たり前になってしまいました。
若い人に聞けば、誰でも4、5本は持っているとのこと。
それも新品はダサく、着古したように見えるものがお洒落なんだとか。
だからその時流に乗るかのようにして、お洒落でも何でもなく、本当にキッタないジーンズを平気ではき続けている若者も増えました。
そしてお行儀も悪くなったように思います。昔、「服装の乱れは心の乱れ」とよく言われたものですが・・・・・
そこまで堅苦しいことを押し付けようとは思いませんが、是非とも、「ヘソ出し」「半ケツ」だけは「やめてくれーッ!」と叫んでおきます。
さて今回、なぜこんな話をしているのかと申せば、実は最近、『ザ・トゥルー・コスト』というドキュメンタリーに出会ったからなのです。
なかなか良く出来た作品で、様々なことを考えさせられてしまいました。
映画『ザ・トゥルー・コスト ~ファストファッション 真の代償~』予告編 from UNITEDPEOPLE on Vimeo.
要約すれば、普段何気なく着ている衣服。しかしそれらが地球環境を壊し、世界的な差別・格差をどれだけ生み出しているかを問いかけるドキュメンタリーなのです。
つまり衣服の元、綿花の大量生産がどのようにして行われているのか。糸はどのようにして紡がれているのか。糸が製品になるにはどのような行程を辿るのか、そして古着はどう扱われているのか・・・・・
そこに資本主義、アメリカ型グローバリズムの「負」の側面がみられると訴えています。
グローバリズムがすべて悪いとは思いません。でも「過ぎたるは及ばざるが如し」の喩えのごとく、多様性を失う危険性があるものには慎重にならなければならないのでしょう。
このドキュメンタリーはそんなことを示唆していました。
春風に誘われて、新しいTシャツに着替えようとして、ふと動作がとまりました。
「この一枚にも、世界の縮図が織り込まれているのか・・・・・」
そして捨てようとしていた黄ばんだシャツに、もう少し着ていようと、また手を通しました。
テレビ屋 関口 宏